2021年12月29日水曜日

太陽が3つの奇跡的な現象

2021年12月28日火曜日

セブンイレブンのコンビニ弁当を食べると腹痛が起こる件

この記事は、特定の企業を陥れる意図は無い。

しかし、最近気づいたのだが、セブンイレブンのコンビニ弁当を食べると1時間後には腹を壊すが、ファミマのコンビニ弁当は大丈夫だった。

コンビニ弁当自体が、毎日食べるようなものではないし、可能な限り食生活としては避けるべきのものだが、食べた当日に明らかな変調を起こすのは、今のところセブンイレブンの弁当だけである。

ただし、明確な原因はわからない。

素人でも思いつくのは、コンビニ弁当で下痢になる原因って何?問題は油にあった!?にもある通り油だが、正直コンビニ弁当なんてどこも同じとこが作って分配してる、程度の認識だったので、食後1時間程度で明らかに自覚できるような差があるとは思わなかった。

立地条件でセブンイレブンを利用する機会が多かったが、以上を自覚してしまったので、自分は食事に関してセブンイレブンを利用するのをやめた。

2021年に買って善かった物

#1「Spitfire Chamber Strings

間違いなく10年に1度の価値ある買い物だった。この音が、少なくとも金さえあれば素人がそこらの民家でプロ演奏、しかもヨーロッパの上位の音を簡単に使えるという、とてつもない商品。

#2「Totonoe - Carry Board

もともと、情報カードを手帳のように気軽に携帯する手段を探していた。

そこで見つけたのが、これ。

結果的に情報カードを使わなくなったが、B5用紙を4つ折りにして、それをはさんで雑記するのに凄く良い。これ自体の肌触りが良いので、常に持ち歩こうという気になるし、雑記に耐えられる程度にはちゃんと頑丈。

#3 サクラクレパス ピグマ 0.1mm

漫画家で有名なミリペン、ピグマ。

自分は頻繁に絵を書くわけではないが、文字を書いたり、図を書いたり、楽譜を書いたり、本に書き込んだり、とにかく0.1mmの汎用性が高い。

インクが濃く、また先端が細いので、無意識に集中出来る。

これに慣れたら、そこらのボールペンもサインペンも使えない。

#4 靴下 ガッツマン

動画【疲れ知らず】歩行が楽になる行軍無双アイテム【自衛隊】を見て知った。

普段は山道など登る機会は無いし、都会の舗装路を歩くのみだが、歩くのは好きで、1日に数時間を出歩く機会もあり、なんば歩きなど色色と試している。その一環としてコレも試してみたが、一足1500円するだけの事はある。

2021年12月20日月曜日

棒読み(ゆっくり)に長文を「教育」させる方法

棒読み(ゆっくり)に長文を「教育」させる方法

例えばあいうえおかきくけこさしすせそなにぬねのという長文を棒読みに読ませたければ、以下のように教育する。

  • !あ=あいうえお
  • !か=かきくけこ
  • !さ=さしすせそ
  • !な=なにぬねの
  • そして、最後にそれぞれを同時に読む教育!あかさな=!あ!か!さ!なとすれば、最初の長文を読ませられる。

    これを数学やプラグラム的な用語で何というのか知らないし、発見したのは自分じゃないが、偶然に見かけて良い事を教わったので、自分のための記録としても。

    2021年11月30日火曜日

    「芦川いづみ」の写真集

    漠然と1950年代の映画に興味をもって色々と見始めた結果、彼女を知った。

    その後に、彼女に関する情報を見ていたら、なんと2019年に写真集を発売していた。

    宮崎駿が描くヒロイン像は大ファンだった芦川いづみが原点という記事は、彼女を知ったあとに読んだのだが、なるほど、実に納得がいくものだった。


    江戸川乱歩とカタカナ

    江戸川乱歩の全集1を読んでいて、大正14年5月の作品「幽霊」の中で漢字の他はカタカナで書かれていて読みづらかったという表現があった。

    戦後1947年(昭和22年)からひらがな教育が開始という情報が簡単に見つかるが、自分が疑問に思った前述の小説は大正14年の作品である。

    どうも明治10年代以降にひらがなが主流になりだしたらしいが、具体的な文章の比較は見当たらなかった。

    2021年11月29日月曜日

    脳を育て夢をかなえる

    前頭前野に有効な事。音読と、数字を数える。

    2004年だかの実験。ビデオゲームは視覚野や運動野は活発になるが、意味や連続性を考える前頭前野は反応しない。

    1桁の加算は、暗記していても計算するように脳が反応する。むしろ、複雑な計算や行動ほど、暗記すると計算(思考)をともなわない。


    「しろばんば」を読んだ感想

    しろばんば

    もともと1950年代の映画に興味を持って、北原三枝芦川いづみを中心に見ていたら本作の映画に行きついて、あまりに素晴らしかったので原作にも手を伸ばした。

    映画では、あくまで芦川いづみを中心とした別れ、見送りにともなう成長物語だったが、原作では、それを踏まえて見送られる側になって、映画では継続したまま終わった婆との別れもある。

    系統で言うなら風の又三郎に近いか。


    映画では、芦川いづみが病気故に子供を突き放す場面があるが、たまらず近づいた子供の頭を叩く場面が善かった。彼女の姿は障子に阻まれ見えないが、叩く手だけで、叩く意味、優しさを見せた名場面。

    ブラインドサイトを読んだ感想

    ブラインドサイト

    テッドチャンが解説してると聞いて読んだ。

    人類を超越した知能を持った宇宙生物と遭遇したらどうなるのか。古典的なSF小説。

    人類側の存在として吸血鬼がいるが、彼らの認知は、ネッカーの立方体を同時に両方見られる、またそういった過剰な認知能力が災いして、自然には存在しない精度の高い直線の交差などで脳が認知負荷に耐えられない、だから十字架に弱いという説は面白かった。

    ラマチャンドランオリヴァーサックスのような脳神経や自閉症などのネタが多い。

    本作は、姑獲鳥の夏の呪いは実在して人類には解決不能で京極堂も死ぬしかないが、最後に関口を元気にする事くらいは出来る。という感じ。


    ウィッシュハウス 魔性たちの棲む館

    ウィッシュハウス 魔性たちの棲む館

    1962年のセイラム魔女裁判の記録をまとめた少女たちの魔女狩り マサチューセッツの冤罪事件の関連書籍として提示された小説。

    しかし、内容はよくある青春幻想で、たいしたものではなかった。

    この美少女の表紙が収穫。


    三体を読んだ感想

    三体

    近年最大のSF小説の盛り上がりを見せた三体


    善かった点

    人類の歴史上4次元空間に接触する人間がいて、歴史の転換に関わっていた、あるいはその奇跡を生かせず関われなかった事が断片とはいえ描かれてる。また、4次元空間に慣れてしまうと、3次元空間に対して閉所恐怖症となるのは面白い着眼。

    暗黒森林という価値観の提示。宇宙が有限である限り、善意も悪意も違いに判断のしようがなく、互いに存在を予想しながら音信不通でいるのが高度文明の常識。

    地球人類だけじゃなく、地球人類にとって脅威である筈の三体人類が直面する脅威も描かれている。彼らが地球侵攻の前の実験で高次元生物に遭遇して右往左往する場面は笑った。

    地球と宇宙では心身ともに人体の状態は異なる。宇宙にいる間、地上の倫理など全く無意味だし、地球に踏みとどまる以上は宇宙生物(生活)の価値観は理解不能。

    凡人、大衆がいかに愚かで容易な掌返しで人類に何も貢献しないか描かれている。

    悪かった点

    女がとにかく気持ち悪い。誰も彼も美人で学歴的な能力はあるが、肝心な事は男の判断と行動と存在に依存してるだけ。

    面壁者という発想は面白いが、敵の対抗策が特撮ものやアニメのような悪の組織幹部みたいな対立で馬鹿らしい。

    どこまで意図したものか不明だが、ところどころ子供向けのアニメや特撮のような幼い対立構造や言動が短絡的。

    巻末の解説で、作者は新海誠を好きだと書いてあって、女の気持ち悪さに納得した。

    2021年11月28日日曜日

    浅井了意とペテン

    はじめに

    日本の大地像という本がある。これは主に戦国時代から江戸時代にかけてキリスト教から伝わった「世界の形は地球」という情報が日本でどう扱われたか、神道(両部)と仏教の対比を中心に書いた本である。

    その中で、仏教徒の1例として昭儀坊了意「仏教の須弥山など愚昧に対する責道具(拷問の道具=方便)に過ぎず、西洋の地球が正しい」と言った主旨を書き残してると本書で例示されていて、しかも、それが有名な浅井了意だという。

    そこで、彼(浅井了意)に興味を持って現代語訳の伽婢子(仮名草子)を読んだ。

    本題

    伽婢子の中に黄金100両という話がある。そこに臣としては君を滅ぼすことを謀り、君としては臣をペテンにかけと書いてあって、それにひっかかった。

    ペテン?

    現代語訳とはいえ、江戸時代におけるペテンという言葉の違和感。


    2021年11月27日土曜日

    2021年に始めて良かった事

    ノートをA4からB5に変更。

    モーニングページなどで毎日1頁以上は消費しているノートを、A4からB5に変更。

    また、主要の筆記具をボールペンをやめてピグマやステッドラなど0.1mmの水性ペンに変更。

    暗記の方法

    焦点をぼかして、左右2重の文字をそれぞれ順番に見る。

    理由は不明だが、両目で焦点を合わせて読むより、頭を使ってる感覚がある。

    また、片目を閉じたり覆うと同じ効果(感覚)は得られない。

    Digital Color Meter

    Macに常備されてる画面内の色を測定するソフト。存在を知らなかったが、超便利。

    Logic n連桁 連符の挿入

    実際の楽譜の解釈とは異なるが、ピアノロール的な実音的を維持しながら、楽譜を作れる。連符、装飾音符などに利用。

    2021年11月6日土曜日

    HTML details summary

    あいうえお 本文はここに書く?

    2021年10月3日日曜日

    Native InstrumentsのKomplete(Kontakt)音源で特定のループパターンだけ再生されない問題の解決

    KompleteおよびKontaktで利用してるPICKED ACOUSTICの特定の音色Standard StrumのA,Bパターンだけ音が鳴らなくなった。C,Dは問題ない。また、音は鳴らないが、トリガーが反応してるのは確認。

    原因はテンポ。BPM=65未満では音が鳴らない音色またはパターンがある。

    ループ的な音源で、特定のトリガーパターンだけ鳴らなくなった場合にはある以上または以下のテンポに非対応の場合があるので、試してみると解決するかもしれない。

    2021年9月27日月曜日

    テネットのタッキングとウェアリングの意味

    自分は海皇紀という漫画の影響で帆船を好きになり、アメリカスカップの動画を見るようになったり、帆船用語を覚えたり、帆船的な意味で大航海時代やカリブの海賊などに興味を持ってアサシンクリード4を夢中で遊んだ。

    さて、そこでクリストファーノーランテネットである。

    帆船とは全く別件で、フォロウィング以前の自主短編も見ている程度には彼のファンであり、その彼の作品でアメリカスカップで走るようなレース用のヨットが走る場面があって興奮した。

    その中で、タッキングとウェアリングという用語が出てくる。


    タッキングとウェアリング

    よく誤解されるが、帆船は風を後ろからうけて風下に走るだけではなく、ある程度の角度まで風上に向かって走れる。

    むしろ最近のレースヨットは風上に走ったほうが速い場合すらある。

    そこで、風をうける角度を右前から左前(または左前から右前)に変更するための舵と帆の変更動作をタッキング(上手回し)と言い、風をうける角度を右後から左後(または左後から右後)に変更する動作をウェアリング(下手回し)と言う。

    難易度はタッキングのほうが高い。何故なら、風上から風上に舵を切るので、失敗すると減速したり停止してしまう。

    ウェアリングは、失敗しても風下から風下に走っているので、風に押され続けてるという点で停止はしない。

    本題

    そこで、テネットにおけるタッキングとウェアリングについて疑問に思った箇所がある。

    主役が落水した人を助けるために、ヒロインにウェアリングを指示する。しかし、ヒロインは「無理」だと答える。

    落水した人物はヒロインが突き落としたので、単純に「だが断る」という意思表示だと理解できる。だが、主役は「大丈夫だやれる」と言った難易度や実行力に言及して、実際にウェアリングを実行して落水者を助ける。

    先述の通り、ウェアリングはタッキングより簡単である。そして、この場面の前でタッキングを平然とやってる描写がある。

    もしヒロインが助けたくないという意思表示なら主役の続くセリフや行動は繋がらないし、もしヒロインが自分には難易度が高いという意味の返答なら、それはタッキングであるべきでウェアリングではありえない。

    自分は当時映画館でこれを見てから、この意味についてずっと考えてた。

    結論

    最近になって、この矛盾に関して、映画の意味的にすっきりする事を考えついた。

    タッキングとは風上から風上に向かって走る方法。つまり逆行である。

    ウェアリングは風下から風下に向かって走る方法。つまり順行、どころか流されるままである。

    本作は時間の矢を存分に扱った作品だが、ヒロインの人生観が、流されるままに絶望して自由(逆行)を求める立場だ。

    つまり、作品全体の題材である逆行と、彼女の立場と、大小両方の意味で順風に従わない、逆らう、というのが作品の核の補強になっていたのだな、という妄想に近い自説。

    ノーランと帆船の両方好きとして、この2つを合わせた論や感想が全く見られなかったのが寂しく、思いついた事を書いた。

    ノーランヴァリエーションという彼の作品と言動をまとめた本では、最新の帆船(高速ヨット)は水面から浮いて走る事に言及されてるなど、彼の扱う舞台装置の興味の程度や範囲も知られる。

    なお、最近の帆船事情と言えば、主に運送のエネルギー問題に対してあえて帆船にするという試みもある。

    2021年9月15日水曜日

    楽譜業界に作ってほしい情報カードの音楽5線紙(5*3)

    自分は125mm*75mm(5*3)の情報カードを愛用しているが、以下のような雑記や文字や絵画に対する方眼や罫線があっても、音楽用の5線紙が無い。

    そこで、最前の画像のような音楽5線紙の情報カードを作成してほしい。

    理想は4段。もし5線の幅に限界があれば3段でも構わない。

    100枚で500円程度でどうだろうか?

    2021年9月10日金曜日

    VHSが充実してる渋谷ツタヤにも「ランゴリアーズ」は置いてなかった

    まさかの「VHS」復権…?渋谷のTSUTAYAが「ビデオコーナー」を拡充したワケ

    渋谷ツタヤがVHSを充実されてると聞いて、もしかしたらとランゴリアーズVHS版を探してみたが、残念ながら取り扱ってないと言われた。

    2021年9月9日木曜日

    MacでPDFを印刷したら黒塗りになってしまう問題の解決方法

    MacでPDFを印刷したら、以下の写真の右側のように黒塗りになったものが出力された。

    何度やっても同じで、黒塗りの面積や左右のノイズっぽいものも同じなので、歪んだまま正しく印刷されてるのがわかった。

    解決方法は2種類

    • Acrbat Readerを使う
    • Quartz フィルタを白黒にする

    最初はPDFのバージョンや各ソフトウェアのバージョンやプリンタが古い(LBP6200)からだと予想していたが、どうやらQuartzの不具合のようである。

    2021年9月7日火曜日

    坂本真綾の信者に買って欲しい吹き替え仕事「ランゴリアーズ」VHS

    スティーブンキングが1990年に書いた小説ランゴリアーズ。1995年に映像化されて、自分はそれが大好きなのだが、NHKで放送されたものしか知らず、発売されてるDVDもまたNHK版である。

    しかし、当時VHS版が発売されており、そちらの盲目幼女は坂本真綾が吹き替えをやっている。

    残念ながらDVDに両方の吹き替えが収録される事はなかった。


    いちおう、現在でもVHS版は残っており商品として売られているが、そもそも現在においてVHS自体が骨董品であり、その上に作品がマイナなのでプレミア価格で扱われている。

    流石に吹き替えのために1万円も出す気にはなれない。

    しかし、坂本真綾の仕事という意味では、1996年のエスカフローネで有名になる前の仕事でもあり、興味はある。


    そこで、坂本真綾信者が金をつのって購入して上映会をするというのはどうだろうか?

    彼女の様々は売り上げは時代とともに落ちてはいるが、それでも個人名義のライブを維持できる程度には固定客がいるし、なんのかんのと声優としてもおいしい役も得続けている。

    その割にはこういった商品やネタの話が出回らない。

    2021年8月10日火曜日

    本という化石に劣るGAFA

    最近読んだ(読んでる)本に以下がある。

    1956年にコンテナ一般化が始まり、世界の流通が激変したコンテナ物語

    昭和56年におこなわれた、音楽的な特権を持った2人の知識や思想が語られた小澤征爾と武満徹の対談

    幻肢の治療から人類の生理的な謎や限界を問う脳のなかの幽霊

    いずれも、10年以上昔に出版されたもので、今更読んだ身として、これまでの10年を踏まえて、これからの10年には有効だろう知識や思想があった。

    さて、そこでふと思う。インターネットの流通や娯楽を支配しているGAFAから、それだけ価値のある商品、情報を得た事がここ数年であっただろうか?

    例えば、世界各地のニュース的な映像など、確かに代替不能の情報もあるが、1年を振り返り、あるいは10年を振り返った時に、GAFAのサービスで自分の人生を決定的に好転させた事があっただろうか?と考えるに、皆無ではないが、1年に数冊はあるだろう有益な本に比べて、明らかに不足している。

    へたをしたら、何十年、何百年と昔の情報のほうが、GAFAに勝ってる事などざらにある。電子書籍は利用していないし、利用しなくても成り立ってる時点で、自分の場合は全く恩恵が無い。

    本が素晴らしいというよりも、世界最大の大金で世界制覇を目論む、あるいは一部は既に果たしてる大企業の仕事が、実はそれほど利用者の人生に有益ではない、どころか化石のような媒体に劣る、ここ数年で実感する。

    2021年8月2日月曜日

    FGO 6周年の坂本真綾のライブが豪華で素晴らしく、そして悲しく残念だった事

    良かった事。

    1. 楽器編成が豪華。パイプオルガンと4422のストリングス。
    2. FGOには全く興味がなく、坂本真綾の歌と伴奏という観点だけで聞いて評価すると3曲目の「躍動」が良かった。その理由は、音の隙間がちゃんと作られていて、楽器編成上の入れ替わり立ち替わりが明確で弦上2声だけじゃなく下2声への配慮が編曲と演奏ともに丁寧だったから。具体的な箇所としては2h27m56sなど。
    3. 3曲とも、シングル版とは違い無茶苦茶な音質加工がされていないので、耳や頭が痛くなる難聴量産兵器のシングル版とは雲泥の差で聴きやすかった。編成の違いはあれど、今回の生演奏的な指向でシングルがしっかり作られていたら、3曲とも素直に好きになっていただろう。作品ごとに好き嫌いはあれど、坂本真綾の地力には何の疑いもないので。

    追記:2h27m56sの箇所は、以下に指摘されてる部分がまさしく該当箇所。

    『躍動』の2コーラス目Bメロの「指で何度も触れた星座」で、カメラワークが1st,2ndバイオリンを横から抜いてる場面。揃って弓を上に抜くカットが決まってる直後に、右チャンネルで下っていく弦の低音パートのこと

    2021年7月27日火曜日

    ヨハンヨハンソンの遺作「最後にして最初の人類」を見た感想

    予想していたが、ほとんど原作は無関係で、あくまで原作に触発されたヨハンヨハンソンのコンセプトアルバムという体裁。

    16mmフィルム撮影と宣伝されていたが、ヨハンヨハンソンが気ままに撮影したホームビデオ的な映像を予想していたが、撮影はプロがやっている。

    原作は1930年に書かれた小説。当時からは予想に過ぎないが、第二次世界大戦的な世界戦争の再燃と、付随するヨーロッパの小競りあいから、アメリカと中国が2大国家となり、米中の統合で人類は地球連邦となる。その後、地球上のエネルギー枯渇により人類の戦争が再燃し、新発見された新エネルギーの暴発により人類はほぼ死滅。残ったわずかな人類が最終的には宇宙に飛び立ち、海王星に定着するも、太陽系自体の消滅が避けられないと判明し、20億年間の人類の反省が始まる。

    映画は、現人類から地球連邦が生まれ絶滅寸前で宇宙にまでいく、といった話や設定は全く扱われない。原作の中盤以降の会話の断片だけが引用されている。

    そういう意味では原作を未読でも全く問題ないが、原作を読んでおくと、何を省略したのか前提がわかるので、ひたすら風景映像と小説の引用が繰り返されるのを混乱せずに見られる。

    本作を見る観客は、原作かヨハンヨハンソンのどちらかは既知だろうから、そういう意味で大衆娯楽ではないと既知で見に行くだろう。しかし、もしも原作も彼も知らないのならば、こういう見方をすれば混乱や退屈せずに済むのではないか。つまり、ある程度の価値観を共有可能な時間差しか無い過去の人類が作成した現存する物体を見ても、我々にはその形や意味がわからない。たかだか数10年でそういった隔たりがあるのなら、20億年という数字なぞ無意味で、20億年後からの交信もまた等しいのではないか。

    本作は、結局のところ価値観を問う映画であり、普段から見かけるたわいない風景や物から歴史や文化や発想を見出せる人には凄く面白い。逆に、全て御膳立てされた商品にしか価値を見出せない消費者には全く向かない。

    残念だったのは、オデッサという音響システムを活かしきれてない点。本編のミックスはほぼステレオで正面からしか音が聞こえなかった。もともと環境音と音楽の融合を目指してるところもあるのに、それが定位という点で棲み分けがなく、左右と背後にあるスピーカーが開店休業だった。

    フランスの古代ローマ劇場でおこなわれたハンスジマーのライブを観に行った時、曲自体は穴埋めの退屈な時間だった箇所も、天井が無い石造りの古代ローマ劇場故に、演奏に触発されて周囲の鳥が飛び交い、鳥の泣き声が演奏場所とは違う箇所から共鳴するような、意図せぬ面白い演出、経験が出来た。

    この映画を見ながら思ったのは、ヨハンヨハンソンが目指したのも、そういった事が1つあったのではないかと。

    自分が映画を見た時には、作品の前提や乗りについていけなくて開始10分くらいで帰る観客が3人くらいいた。せめて音響面でも工夫していたら、生理的な退屈は避けられたのではなかろうか。そもそも作曲家が監督した映画なのだから、音響面でもっと凝って欲しかった。

    本作の映像は白黒とはいえ充分に綺麗だし、白黒ゆえに粗がわかりにくい恩恵もあるが、プロが撮影したちゃんとした環境映像だっただけに、これIMAX撮影してフルカラーIMAXだったら、少なくとも視覚効果としては誰でも楽しめる映像になっていたのではないか、と残念にも思う。

    ヨハンヨハンソンはドゥニヴィルヌーブと組む仕事が多かったが、ドゥニは暗いとか重いとかわかりにくいとか言われて大作をまかされるわりにノーランほど一般受けはしていない。しかし、今回のヨハンの映画を見て、ドゥニなんて物語や展開や設定はちゃんと作中で明らかにして説明してるし、充分に観客にすりよってるやんけ、としか思えなかった。

    「Ozone 9」EQの位相ずれを表示する方法「Show Extra Curves」

    EQ調整がオーディオの位相にどのように影響するかがわかる「Show Extra Curves」

    1)右上の設定ボタンで設定画面を呼び出す。

    2)設定画面のEQを選択してShow Extra Curvesにチェックマークをオンにする。

    2021年6月5日土曜日

    気軽なモニタのために「SONY ZS-RS81BT」

    目的

    1. パソコンで作業した音源のバランスを崩壊させずに気楽に全体象を把握するため。
    2. ヘッドフォンでは無理な空間と休憩をかねた再生のため。
    3. 場合によっては持ち運んで、人に音源を確認させるため。
    良かった所
    1. 音質に不満は無い。MEGA BASSも不自然に盛り上がるというより、音程が聞こえれば良い程度に割り切って違和感が無い。
    2. サイズの割には音量が出るし定位もわかる。
    3. 再生媒体の切り替えが、順繰りではなくボタンとモードが1:1。
    悪かった所
    1. 正面に型番が書いてない。
    2. 音声入力の場所が背面ではなく正面。
    3. 基本的な操作は正面なのに、音量は上面。
    4. 音量が押す回数、または押しっぱなしの時間で段階的に変化するだけで、ミュートが無い。

    ところで、ラジカセと言えば1997年のSONYZS-M5

    今回のために色々と確認したが、当時6万もしたのに驚いた。当時の相場としても高い部類ではなかろうか?

    2021年5月26日水曜日

    HD650のパッドとヘッドバンドを交換

    購入から、7年。パッドに穴があったりバンドが潰れていたので、両者を交換した。

    パッドの交換は容易だが、ヘッドバンドの交換は以下の動画を参考にした。

    2021年5月23日日曜日

    ジョジョリオンは意味不明どころか荒木飛呂彦は好奇心の成長を続けて作品は一貫している

    1部

    人類の既知宇宙のみを肯定して、人間の限界を少し拡張した上で題材はオカルトであり、常識的な歴史と空想を舞台にしたヨーロッパ的な古典的演劇。

    超能力は、筋力などの延長に過ぎない。

    2部

    オカルトも未知を扱うという点では科学と同義、あるいは科学で扱えるのではないか。超能力があるなら同様に宇宙人もいて当然である。

    超能力と宇宙人と科学が同等に扱われる。

    3部

    宇宙人、空間に対して超越的な存在の次にくるのは当然時間。

    そこで時間を止める能力が発現。

    ただし、ザワールドは時間を止めるというよりも物質の運動を止める。

    時間に対する可逆性を持たないという意味で、時間と空間(物質)を操作するのがスタンド能力という意味において、実は前者ではなく後者の能力。

    4部

    なぜ爆弾の能力が時間を超越出来るのか。

    爆発、熱エネルギー運動とは宇宙の根源であり、これはつまりビッグバン。

    宇宙の膨張がある限界に達した時に、次に起きるのは外側ではなく内側に向かう引力(重力)。これは6部で直接に扱われた題材だが、原理を同じくしてバイツァダストになったのが4部。そういう意味で、ジョジョ作品の中で最も神に近い能力を持つのは条件付きとはいえ時間を可逆にした吉良。

    物語自体は世界をかけた戦いじゃないから小さく狭くなったように見えるが、スタンド能力を見れば、むしろ1部から続く発想と連想が拡張してるのがわかる。

    5部

    ジョジョ作品のスタンドは大別して2種類ある。

    時間と空間の変化を自在にする。そして主に後者が一般的なスタンドで、前者が主役やラスボスになる。

    4部では生命の一部を操作可能になった(治療)。その延長で、物質を組み換える能力、生命を作る能力に発展したのがゴールドエクスペリエンス。

    ゴールドエクスペリエンス自体が神のような能力に見えるが、無機質も有機質も平等であり、その内の有機質しか作れない、あるいは変換しか出来ないという意味では、言うほど理不尽な能力でもない。作中でも気温次第で生命が生まれないという地球環境に依存した能力である事が説明されている。

    最終的な神のように見えるレクイエムすら、ジョルノの寿命をのばしたり過去移動や未来移動のような時間超越は不可能。演出としてボスの時間が無限に繰り返してるように見えるが、ボスの物質を可逆にして繰り返してるという意味で、レクイエムはまだ空間(物質)に甘んじて時間にかすっているだけ。

    ボスにせよジョルノにせよ、時間の可逆性を得ていない。

    6部

    これまで時間にかすりながら空間(物質)に関与するだけだったスタンドが、ついに空間の認知最大である地球と、宇宙のループに到達した。

    これまで呑気なオカルトを科学で解体し、そして科学的な事実から超能力や宇宙人など現実の断片に過ぎない、と段々と未知を明らかにしながら、既知そのものが実は全くわからない現実の集積であると、荒木飛呂彦の興味と描写はどんどん拡張している。

    更に、本作になり、初めてジョジョ以外の人物による決着。

    そういう意味でも、もしかして荒木飛呂彦は引退作品のつもりで描いたのかもしれない。

    7部

    多次元宇宙を肯定した上で、宇宙の資源は有限であり、物質的に同一でも微妙な誤差による個体差は唯一無二で、どれだけ無限に等しい選択肢があろうとも人生は不可逆にはなりえない。つまり、運命を受け入れるしかない。

    無限の選択肢すら時間に不可逆という意味で決定論的である。

    それを自覚した上で人生を全うする。

    決定論の肯定的な解釈はテッドチャンにも似ていて、神の如き能力を得ても当人の幸福を何も保証しないという点も同じ。

    8部

    現在のジョジョリオン。

    スタンド能力はもはや特権でも何でもないし、同様に宇宙人や異種属もまた特別な存在ではない。

    7部大統領と同じ運命操作的な能力。既に多次元宇宙を肯定してるので、運命に対抗するのは操作不能の上位次元の物質。

    シャボン玉は康穂の助力が無いと空間を超越出来ないという点では量子もつれに劣る。そういう意味で作者や読者の現実よりも劣る空想能力とも言える。

    無限0は、光が質量0なので、それに類する未知の素粒子で、少なくとも量子もつれは無いが、定助世界よりは上位次元の物質なので、空間は超越出来ないが、物質変化の因果は超越して存在していられる。

    多次元宇宙、並行世界を肯定した作品なので、3次元空間における超越的な4次元の存在、シャボン玉や、便宜上「運命」と称する運動の対戦。

    決定論的な運命と、意思の反映は全く保証されないが確率的には起こり得るシャボン玉(量子)の対戦。6部と7部でも扱った運命の具体的な可視化、7部で既に多次元宇宙も扱われていたが、ジョジョリオンの描写は多次元宇宙を並行世界として描かずに、ある既知宇宙1つだけでそれが起きたらどうなるのか、という事を描いている。

    そういう意味で鳥玄坊の神と並行世界にも近い。宇宙自体は多次元だが、主観的には常に1つの世界としてしか認知が出来ない。


    こうして見ると、まず人類が簡単に認識可能な既知と未知の要素から、時間と空間に至り、そもそも人類が認知不可能な要素へと順調に拡張している。

    荒木飛呂彦は以前に科学雑誌か何かでウィルスか何かをスタンド的に描いて表紙になった事があるが、つまり既知と未知の物質は次元を変換して提示しているという点で、彼のファッション雑誌引用から多次元宇宙まで等しいという価値観も、全く変わっていないし納得が出来るものである。

    漫画をどう読んでどう楽しもうが消費者の自由だが、作品に扱われてる題材に無知でつまらないとか言ってる暇があったら、作者が選んだ題材などを学ぶほうが読者自身にとってのためになるし、そもそもジョジョは未知に対する覚悟と行動を描いてきた作品なのだから、それこそがジョジョの読者にふさわしいのではなかろうか。

    ジョジョリオン意味不明という読者は、こういう動画を見るべき。荒木飛呂彦の興味は、何と無く格好いいと思ってた欧米文化から、欧米中心に明かされた科学的な事実や歴史に以降して、人類そのものが題材となり、もはや人類すら世界の断片に過ぎず宇宙や、あるいは認識すら出来ない世界に至っている。彼のやってる事はピカソと同じで、既知情報から未知を描く事であり、既知に甘んじる事ではない。

    2021年5月21日金曜日

    ジョジョリオン(26) - スタンドや展開が突飛であるほど読者の現実と地続きになる荒木飛呂彦の世界

    透は決定論。定助は量子論。これまでジョジョは少年漫画として主役が運命を切り開く決定論を否定してきた古典的な英雄主義だったが、ジョジョリオンは作品としてのご都合主義で主役の勝利は約束されてるとはいえ、決定論を否定する代わりに主役も多次元の物質の確率的な存在に過ぎず、それを自覚した上で戦い抜き勝利する、人生を全うする、世界に対する諦めを含んだ自己肯定。

    シャボン玉は量子(未知の素粒子)だと発覚したが、康穂を利用しないと遠距離攻撃が出来ないという点で、量子もつれなど空間を超越していないし、当然ながら時間も超越していない。そういう意味では全く地味でチートや神などに及ばない能力。プッチすら時間の加速による再構築であって逆行では無く、時間に対して可逆という点ではバイツァダストのほうが神に近かった。

    シャボン玉は水、爆弾は火。これは生命の根源でもあるから、物質の変換という点でゴールドエクスペリエンス、ビッグバンという点ではバイツァダストを継いでいる。その割に、決定論に対する、また物理法則という絶対的な規則の中で、そこからの逸脱が不可能な能力だし、それを自覚しながらも限界と思われる既知を突破する事から始める、ただ生き残るために抗い進化する生命そのもの、あるいは人類史の再現。

    こうして書くと、1部から描いている事は全く変わっていない。ただ、その比重が各部で大きく変わり、ジョジョリオンに至っては、1周してスタンドの特権的な英雄すら、読者の現実の未知に比べれば世界の断片に過ぎないという形になっている。

    そもそも、スタンド能力の基本は「触る」事であり、例えば、うなってる犬に手を差し出すような、毒かもしれない植物を避けなければならない、あるいは毒とわかってて取らなければならない、そういった未知や障害に対して覚悟が無いと出来ない行動なので、スタンドという超能力に全く特権が無い。能力を発現しても、それは読者の現実に存在する物質に干渉する事しか出来ないという点で、また、視認や接触する距離に限られる行動という点で、全く超越性が無く、もはや超能力という設定が不要と言えるくらいに現実的。

    だからこそ、面白い。

    例えば、サッカー漫画だと、サッカーの試合そのものが見せ場であり、試合を邪魔するものはない。しかし、現実だとサッカーの試合中に雷が落ちて選手が怪我をしたり、テロや暴動が起きて死傷者が出たり、サッカーとは無関係な出来事でサッカーそのものを無効にする事が幾らでもある。現実のほうが未知で不思議で理解不能で多くの事が同時に起こっている。

    そういう意味において、ジョジョリオンは戦闘と無関係な事がスタンド能力によって誘導されて焦点を合わせて描写されるからご都合主義に見えるが、ある集団にとって重要な事が、何の因果もなく人類の都合を問わない物理現象が一方的に不可逆に関係するなんて事は幾らでもあり、ジョジョリオンは見事にそれを描いてる。その題材を自覚的に選んで描いてるからこそ、荒木飛呂彦の作品は、登場人物と同様に空間や場所も可能な限り大きく扱われ、その場所や空間の登場人物への影響が突飛であるほど、1周して幸運や不運としか言いようがない人類の不可逆性の限界を思い知る現実そのものが作品になる。

    その具体的な描写として、まさか2021年の最新作の最終局面でドニーダーコを持ち出すとは思わず笑ってしまった。

    荒木飛呂彦はオカルトを描いてるようでいて、時間、歴史、宇宙、未知との遭遇、と実は古典的SFをやり続けてる。

    完全に登場人物の主観で見る構図は荒木飛呂彦史上初じゃなかろうか?

    今回は写真加工の背景も少なく、漫画らしい背景と、最終決戦での気合い絵と、そして、荒木飛呂彦がまとめたSF的な人生観、ジョジョリオンなりのまとめ巻だった。

    2021年5月19日水曜日

    闇の脳科学

    ロバート・ヒース。1950年代から1970年代まで活動していた。

    マイケル・クライトンのターミナル・マンは実話を元にしていて、映画化後に本作の主役は自分たちの家族だと訴訟に発展。その流れで当時の脳深部刺激が非人道的だと煽りをうけヒース以外の実験や手術が中止される場合もあった。

    マスターズ・オブ・セックスのモデルとなった2人は、ヒースと同じく同性愛者を異性愛者にする実験を7割で成功させている。しかし、この件はドラマでは扱われていない。

    ヒースの失墜は、1970年代の非専門家の詐欺師を組織に入れてしまい、その実験の再現性の無さと披露の失敗による。

    ヒースの著作も、彼の関係者が書いた小説も市販はされず、この断片をまとめた本でしか学べない。

    いつか食事の料理を選ぶように脳の状態を変えられるようになったら、人類同士どころか異種族との交流も可能という発想は富野由悠季のニュータイプそのもの。

    猿の親子を3集団にわけた実験はホモデウスでも紹介されている。ヒースはそういった実験結果で逸脱した猿を治療実験に利用していた。

    2014年に市販された、体外からの電気刺激で脳を刺激するとされるFocus V3|刺激で集中力/パフォーマンスを改善する脳刺激デバイス「フォーカスV3」も紹介されてるが、これ日本でもいちおう買えるのは知らなかった。価格次第では自分で実験してみたいが。

    2021年5月16日日曜日

    素晴らしい漫画の条件 - 例えば竜女戦記とオオカミライズの場合

    最近のマクガイヤー 2020年8月号 会員限定を見て知った作品竜女戦記

    動画ではオオカミライズと比較していて、既知の作品との比較という点でも興味を持って読んだ。

    両作の優劣ではないが、明らかにオオカミライズでがっかりして竜女戦記で嬉しかった点がある。

    それが背景を手描きで、しかも主役並に描きこんでいる。

    両作ともパソコンを利用してるのは明らかで、竜女戦記も明確にデジタル加工とわかる絵もある。それにしても、ちゃんと線や構図を自分で操作して描いている。

    オオカミライズも背景を手描きでやってるコマも存在するが、特に4巻なんかは写真に軽くフィルタを通しただけの粗末なもので、遠近感が掴めなかったり、単純に絵としてしょぼく見える場面が多い。

    漫画の面白さに定義は不能だが、1コマ1コマちゃんと描いてるな、とわかる漫画はそれだけで面白い、あるいは嬉しいものではないだろうか?

    模写や参考に線や道具の使い分けなどを自分でやってみようという教材的な触発も生まれる。つまり、読むだけで終わらない、読者の行動をうながす商品。

    その点で、今回の2作を比較した場合に、作品の面白さとは別に、読んでいて嬉しいと竜女戦記に対しては思った。

    最近は荒木飛呂彦も背景をデジタル合成だけで片付けてる場面も多くて、作品を全て買ってるファンとしては悲しい。

    映画にも漫画にも音楽にも、何事にも言えるが、効率のためにパソコンのデジタル処理を使うのは全く異論は無いし使いこなすべきだが、デジタル処理以外の色や味がしないものを見るのは、ただただ悲しいのでやめてほしい。

    作家や作品を素晴らしいと思うからこそ。

    蛇足だが、両作とも架空の日本の歴史を描いているが、男が求める女の定型と、女が求める男の定型は、明らかに前者が狭く少なく、後者が広く多いなと思った。

    楽譜が絵画や文章より難しい理由

    文章や絵画は帰納。

    同じく、音楽における歌唱や演奏やピアノロール(DAW)は帰納が可能。

    しかし、楽譜は演繹。

    文章や絵画は、単語や線など、何も考えずに羅列した結果として完成させる事が出来る。構想から逆算(演繹)も可能。

    歌唱や演奏も、音程も音価も全く考えず、あるいは偶然の結果として任意時間内の音楽として認知が可能。

    つまり、これらは帰納と演繹の両方に対応が可能。

    しかし、楽譜はそうはいかない。音程や音価と同時に分解能を定義して、無意識の情報も含めて自覚して意図して整理し提示しなければならない。楽譜に解釈は可能であっても誤解は許されない。その点では数学とも同じで、音楽内での演奏と楽譜というのは、帰納と演繹という点では原理上まったく真逆のものである。

    DAWのピアノロールが容易なのも同じ理由で、音符1つ1つを入力した上で、それらの修正も容易。

    楽譜は、まず調と拍を決めて、更にそれに対する音程と音価を決めないと書けない。16分音符を4個書いた後に、実はそれは全音符だった、という事が出来ない。

    無論、消しゴムやパソコンでの編集は物理的に可能だ。しかし、入力前の理解と把握が、演奏やピアノロールに対して楽譜は扱う要素が多すぎる。

    ある対象に異なる方法を両立するからこそ、より強く応用が可能だとも言えるが、楽譜の利鈍や難易度に関して基本的には経験(根性論)でしか扱われないので、それに対してふと考えついたのが以上である。

    2021年4月26日月曜日

    右利きでも左利き用のUI(HUD)が欲しい理由

    現在ウィザードリィ外伝 戦闘の監獄というビデオゲームをやっている。

    これ自体は面白くて素晴らしいビデオゲームだが、1つ不満がある。

    タッチパネルの操作が右利き用しか無い。

    自分は右利きだが、例えばピアノの練習とか、可能な限り左手と右手の能力差を無くしたいと考えていて、箸を左手で使うなど日常的に可能な限り左手を使うようにしている。

    そこで、上記のウィザードリィ外伝 戦闘の監獄に限らず、デジタル端末の操作系が基本的に右利きした想定していないものが多すぎて不便。

    左利きは世界の1割に過ぎないが、確実に1割はいるという事だし、自分のように右利きだが左手を鍛える目的で左利き用が欲しいと思う人間もいるだろう。

    合わせて5割とは言わないが、2割くらいにはなるのではないか。

    例えばセブンイレブンなどの半セルフ会計レジも明らかに右利き用である。現金を入れても現金ボタンを押さないと会計を進められない愚かな仕様よりも、それを排して左右切り替えボタンを最前面に置くほうが消費者のためではなかろうか?

    2021年4月17日土曜日

    双亡亭壊すべし(23) 帰黒と泥努に見る藤田和日郎の変化

    現実にも起こり得る取り戻せない誤解に関して、藤田和日郎なりの様式、善意の記号と悪意の記号を自身でひっくり返した。

    しかし、何の比喩も無く「大事なことは話し合え」というのを少年漫画で読んで面白いのだろうか? 反面教師に子供の教材として描いてるのかもしれないが、彼自身を含めた30代以上を全批判にしか見えず、読んでると笑ってしまう。後述するが、戦闘に関しても展開の肝を登場人物の行動よりもナレーションで説明してしまってるし、どこまで藤田和日郎が乗って描いているのか、読んでいる自分にはわからない。

    帰黒。これまで藤田和日郎にとって美少女は読者人気のための商品で、行動や表情にトロフィ以外の幅はあるにせよ、主役や読者の幸福条件の1つであり、彼女らの結末は変わらなかった。

    しかし、今回は読者人気を満たした上で切り捨てた。帰黒は過去キャラなので死ぬのはありえない事ではないが、これまでの藤田和日郎なら、人気のための登場人物は最後には理不尽に幸福になっていた。それが帰黒やフロルなどの明らかに読者人気が最初にあって描かれる美少女が、今作では扱いが厳しい。

    これまでも脇役には容赦の無いところがあった作家ではあるが、作中でその手を繰り返す事はなく、あくまで美少女代表、旧世代の男(女)代表という形で描きわけていた。

    しかし、今回はどうも代表者ではなく世代や立場が同じ者は容赦なく扱われるようだ。例えば、今回は帰黒の話なのに、残花に対する恋愛や死の表情が、小さな隅のコマだけで扱われている。これまでなら、頁半分くらいの大コマで見せ場の表情とするような事の筈だが。

    藤田和日郎の前提にあるのは古典的な人情であるが、その人情の描写が物理的に小さくなっている。様式に嫌気がさしたのか、この程度でも通じるという自負なのか、それはわからない。

    どの動画か忘れてしまったが、岡田斗司夫が読む漫画を選ぶ基準の1つに同人誌の有無がある。面白い作品は同人誌が書かれるから、それが絶対的な基準ではないにしろ、未知の作品に関しては有効であると。

    日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象を読んでいて似た問題で面白い話があった。作品の強さとキャラ(登場人物)の強さは異なり、前者は作家の絵柄や主張を含めた評価であり、後者は同人誌のように絵柄も設定も全く異なっても成り立つ評価で、日本の漫画やアニメは前者から後者へと変化して、萌えがその結果である。

    さて、そこで藤田和日郎の漫画に同人誌が少ないのは何故なのだろうか? 彼の絵柄や登場人物は古臭いが、現代の漫画でも充分に商品価値がある密度だとは思うのだが、そして美少女も充分に美少女に見える絵だとも思うのだが、結局のところ、彼自身の暑苦しさが無い限り藤田和日郎に準じた何かにはなれず、かつ若年とのへだたりもあり同人誌が無いという事なのだろうか。

    いずれにせよ、藤田和日郎は彼個人で完成していて誰も手を出せないのか、と改めて思った。

    そういう意味では、ベルセルクすら1部のパロだけで同人誌は盛り上がったとは言えない。結局のところ、そもそも難易度が高い劇画に作者だけが乗った作品というのは、ヘタなモノマネにしかならず、やはり扱いにくいのだろう。

    ところで、ラスボスがクソどうでもいい存在で、どうしたらいいのか。本作は、どうしたって取り戻せない損失があり、せめてどう失うかを自分で決めろ、という主張がある。そこにラスボスの設定とか強弱なんぞ無関係で、むしろ泥努の生き様に対して敵対という設定ではなく現実的な尺で邪魔してるようにしか見えない。

    その点では荒木飛呂彦と同じに見える。軽薄な読者はラスボスが誰だの能力がどうだのばかり話題にして、未知に対する覚悟と行動を示してるだけの「奇妙な冒険」の作者の挑戦を全く無視して、あれこれ考えて描いてる作者が可哀想にしか見えない。それでも、荒木飛呂彦は少年漫画をやめたから、少年漫画しか読めない読者から不評なのは当然とも言える。本人も覚悟してる事だろう。

    しかし、藤田和日郎の場合は彼自身が怪獣や爆発といった視覚的な刺激を一種の義務として作品に入れていて、恐らく本人にとって必須だとすら考えているのだろう。その上で、価値観の主張のほうが重大になってしまった結果、少年漫画の義務的な戦闘が、少なくとも絵としてしっかりと描かれてるのに、全く作品の核心に貢献してるように見えない。

    ただ、帰黒などの美少女の大ゴマよりもそれらを描きたい、男を喜ばせるだけの美少女なんかよりも大災害のほうが重要に決まってるだろう、という主張はわかる。人情派の作家が人情の無力を思い知り、藤田和日郎が泥努のような静かな誤解を、いつもの藤田激情劇場ではなく静かなまま描いてるというところに、彼なりの変化が見られる。

    彼なりの様式は相変わらずなのに、昔は問答無用だった立場や要素を、認識、あるいは肯定せざるをえなくなった年齢や時代をどう評価したら良いのか。

    彼の読者層がどういった規模なのか、読んでいる自分でもわからない。彼がやってる事は王道ではあるが、これらの反省や怒りというものがあれこれと語られる程に読者の分母がいるように見えない。彼はもはや古典になってしまったが故に好事家しか反応していないのではないか。

    正直なところそれぞれアニメが成功してるとも思えない。彼の漫画に許される時間や描写をアニメにするには予算と手間がかかりすぎる、その点でも彼自身で完成していて同人誌を作れない点と共通するのだろう。

    もはや彼が辟易している点を彼が隠さなくなった事によって、ある点では鋭い直球で面白いが、果たしてそれが少年漫画で成り立ってるのだろうか? という疑問はある。

    2021年4月15日木曜日

    科学が物語に敗北するのは何故なのか?

    そもそも宗教と科学は対立しない。当時の知識と予想で語られるのが宗教から科学に変わったというだけで、本来、役割は同じである。

    しかし、科学や論理を無理解に、物語だけを盲信する人間に溢れてるのは何故なのだろうか?

    物語とは、結果に対する原因と過程の不明を仮定した論理であり、場合によっては物語と同義とも言える。

    10に対して5*2でも5+5でも内訳は好きにすれば良い。結果と違わなければ物語も論理も任意の正解に過ぎない。しかし1+1しか出来ずに、それを繰り返して10を導こうとしたら、1+1+1...とやっていくうちに計算を間違えて10にならない、という失敗を生涯かけて甘んじる人間が少なく無いのは何故なのだろうか?

    テクノロジーは貧困を救わないでは、貧困層の教育は情報だけでは不足だという。教材で扱われる人種の肌色や方言が違うだけで、情報の中身は無視され拒否されると。

    インドに関しては、教育の他に、そもそもあらゆる事で簡単に死ぬ、というのが日常だから、Covid-19で多少の確率があがろうと知った事ではない、という現実があるのかも知れない。

    いずれ解決不能ならば無根拠な願望を選ぶ、という事なのだろうか。

    2021年4月13日火曜日

    小説の『と言った』問題

    自分が本を読む目的は知識の獲得。その意味で小説を読む頻度は落ちた。

    それでも全く読まないわけではなく、現在量子魔術師地球連邦の興亡を読んでいる。

    そこで気づいた事。

    前者量子魔術師は翻訳なのもあり「あいうえお」と言ったが多すぎる。

    この問題の初出がいつからか不明だが、話題としてはありふれているくらいに根本的な問題である。

    それに対して地球連邦の興亡(佐藤大輔)はと言ったの代替として状況によりと尋ねたと聞いたと同意したと拒んだ等と、言葉の意味と行動の意図を一致させた語彙で処理している。あるいはすかさず続けた「あいうえお」と前後を逆転させて書いてる場合もある。だから読みやすいし読んでいて停滞しない。

    思えば、自分が佐藤大輔と並んで京極夏彦を評価しているのも、こういった装飾がそのまま作品の本質に一致していて、大衆娯楽として軽薄な刺激に溢れつつも、こういった情報処理の工夫と対応が作者と読者の両方に求められるからだろう。

    地球連邦の興亡を読んでいて面白かったのは、3人以上の会話なのに、台詞の合間に誰が言ったかが全く書かれない。それでいて全く混乱せずに読めるという事。

    「人物A,人物B,人物C、それぞれ報告せよ」
    「こちら半分が完了」
    「現在、情報不足により判断不能」
    「そうか。人物D、これについてどう思う?」
    「はっ。現状ではいたしかたないかと」
    「そうだな。では報告を続けよ」
    「人物C、現在作業中です」
    「わかった。それでは総員、これより作戦開始」

    と言った感じで、ここでは5人の登場人物の会話だが、台詞の中で幾らか補完しつつ、誰が言ったと示さずに全く問題なく読める。

    もちろん、口調や用語などで登場人物の個人や立場などを区別が可能な設定だから許される文章ではあるだろう。

    しかし、それは作者が作品の前提を明確に意図、理解してるからこそ可能なのであり、その点で量子魔術師は内容の是非とは別に、情報処理という観点で不満がある。それが原文からそうなのか、翻訳でそうなのかは知らない。

    算数で、1*2と2*1は同じか違うか問題があるが、結果は同じで前提が違うという論理で使い分ける、それが理解というもので、小説にも同じ事が言える。

    AI vs. 教科書が読めない子どもたちでは、数学は国語の問題である、と主張しているが、結局のところ言葉も物語も認識しやすい順序、つまり論理を駆使した結果であり、その点では小説も数学も変わらず、丸暗記の定型処理と、原理を理解した上で結果は同じだが展開が違うという能力、あるいは努力の差が出るのだなと。

    2021年4月11日日曜日

    漫画は絵画ではなく文章に近い

    漫画には作家あるいは読者を含む分野における規則がそれなりにあり、記号の秩序だった羅列である。

    かつ、時間的な展開(論理)を想定し、その記号と文脈を理解していなければ読めないので、漫画は絵画よりも文章に近い。

    以上は1979年の手塚治虫のインタビュウの要約である。

    これに対して日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象は以下のような極論を示していた。それが面白かった。

    絵画は究極的に描いた当人だけが理解していれば善い。そもそも理解を必要としない。しかし、漫画の場合は、内容が理解不能である事と、読み方が不明である事は別問題で、後者は許されない。それに対して絵画や音楽は手段(作成)そのものが目的となり必ずしも理解を必要としない。

    これに関して、何で読んだか忘れてしまったが、ピエール・ブーレーズは更に絵画と音楽を比較して、音楽は様式と比較すると作家が反映されにくいが、絵画は様式だけを模倣しても作家の手癖など無意識の無理解が反映されて否応なく作家(当人)の限界が反映される。その点で、音楽は作家よりも様式が勝り、素材(音階や楽器)の限界が作家や作品の限界に等しく、建築は凍れる音楽は比喩ではなく事実であると。

    佐藤大輔のSF小説地球連邦の興亡では、登場人物は科学技術で知識をテレパシ的に共有可能であり、知識量は能力に加味されない。能力とは知識の運用、行動によって評価される。

    これは集合知が個人に勝るという話ではない。知識に比例して柔軟に行動が可能であるという事。

    一般に知識とは様式を暗記して、様式に従う事にある。新しい様式を求めない。しかし、知識とは既知から未知を作るための素材であり、既知の正解と未知の正解を常に意識して比較する事で発揮される。

    その点で、様式に縛られやすい音楽のほうが発見がわかりやすいな、と思った。

    新しい様式とは、旧来の様式を壊す事ではない。旧来の様式に不足した事を追加する、あるいは全く置換する事。

    漫画に話を戻すと、絵を描かずに吹き出しの位置だけでも成り立つ作業ネームから、慣例で絵を含むそれをネームと言うようになったが、以上の漫画は絵画ではなく文章であるという構造から、概念の根本を知ってか知らずか、絵が無かろうと吹き出しが無かろうとネームというのは正しくその通りなのだな、と感心してしまった。

    2021年4月8日木曜日

    本田雅人の相対音感の意識と練習

    • 1曲を弾ける(吹ける/歌える)ようになる。
    • それを12調全部で練習する。
    • 短調のトニックは長調の6(ラ)と考える。
    • 音楽とは、常に過去の堆積であり、演奏前の音は期待値でしかなく、ある意味で音程を取れないのは当然。

    特に4つ目の話が面白かった。音楽をやるのに絶対音感のほうが少数派であり、その上でどのような認識(割り切り)で取り組むか。

    2021年4月4日日曜日

    エヴァンゲリオンとカウボーイビバップ。両者の闇鍋で自分が前者を食べられず後者で満腹だった理由。

    エヴァンゲリオン

    エヴァを好きな人は、そのまま庵野秀明に金を払えばいい。提供と消費、それ自体は健全な関係であり、何も言える事は無い。

    その上で、自分は個人的にエヴァの面白さがわからない。

    無論、美男美女のエロ萌え、エヴァの視覚的な挙動、これらはわかる。趣味であろうとなかろうと、それ自体はわかる。

    しかし、初代からして、日本人による日本向けアニメなのにユダヤ教が何の関係があるのかわからなかった。それが欧米コンプレックス的な演出に過ぎないのなら日本の伝統芸だが、そこに意味や考察を求める消費者を全く理解できなかった。未知の言葉に反応してるだけで既知と未知の概念を無視した浅ましい自己陶酔のように見えた。

    だから最初は、ユダヤ教を布教目的とした宗教的なアニメなんだとすら考えた。

    自分は、エヴァを見て設定そのものをわからなかった点も多かったが、わかったところで無駄だというのは当時から思っていた。考えさせる作品なら、もっと違う媒体や違う説明や違う見せ方があるだろうと考えていたので。

    こう言っては何だが、論文的な小説や書籍などでええやんと。

    結果的に、エヴァはよく考えられたアニメではあるが、それは消費者のクイズ番組的なものではなく、基本的に用語や設定は無意味であり、提供者と消費者の論点は明らかにずれてるのが、徐々に明らかになった。

    今だと、ジョジョリオンがそれに近いと考えている。荒木飛呂彦が身体障害や超常現象を珍しいものじゃない前提として扱い、そもそも常識への疑問や、無視されてる問題を扱ってるのに、戦闘が意味不明とかキャラがダサいとか、その程度で読めなくなる旧来の読者たち。ラスボス戦にいたり、様式に落ち着いて始めて騒ぎ出す読者。

    エヴァ自体は当時としては珍しい演出様式なので真逆のようだが、作者(荒木飛呂彦)が扱ってる題材が無視されて描写にのみ言及される、という点で共通した作者の悲しさ。

    そういう意味で、自分は庵野秀明に同情的である。彼の自殺願望などは嘘ではないだろう。個人の苦悩と、小さな環境と、明らかな世界の問題、いずれに対しても不満はあっても無力で、それを思い知る日々は、さぞ辛かろう。

    個人的には、彼はそれほど政治的宗教的な事に興味がなく言及してるように見えるので、その点は改めるべきだとは思うが。

    カウボーイビバップ

    前置きが長くなって申し訳ない。

    エヴァンゲリオンの3年後。カウボーイビバップが始まり、自分はドはまりした。

    この記事は両作品の優劣を語るものではない。ここに書くのは、両作品とも作者(関係者)の大好物闇鍋なのに、前者は病的で自分には刺さらず、後者は健全で自分には刺さった。それは何故なのか?

    エヴァが完結し、ビバップのドラマも収録が終わったのを契機に、それをここに書き残すのが意図である。

    というか、結論は既に書いた通り、病気か健全か。これである。

    エヴァが、作者も消費者も好きなものが共通し盛り上がった割に、結局はその好きなものが人生を好転させていない(ように見える)。自分は当時からそこまでの事を考えていたわけではないが、カウボーイビバップを見た時に考えついた。

    カウボーイビバップは、作者が好きなものが羅列され、それって最高だろ?と提示してるだけ。そういう意味で裏は全く無い。だから議論的な盛り上がりが無い。

    しかし、作品に賛同すれば、そこから趣味や行動が広がる。例えばエヴァはクラシック、ビバップはジャズをアニメ層に広めた。その功績は等しいが、その後の楽譜などの「消費以外の行動」に結びつく商品が両者にどれだけあっただろう?

    実は、模型などの点でエヴァは広がっているから、この論点には無理があるのだが、エヴァで宗教的な知識を持った10年後に、ユダヤ教の延長でイスラエルの問題にまで真面目に考えてる人間がどれだけいるだろうか?とか考えてしまう。

    ビバップは、ある意味で最初からそこまで深刻に提示していない。後から味付けを好きに出来るようになっている。両者とも知識や引用の羅列型の作品であるのに、視聴者間での格差や対立などが無く、好きなものを選んでそれぞれに発展させて、それを加算や乗算はしても相殺しあわない。

    また、ビバップに自己陶酔はあるが、自意識過剰ではない。世界を描いて、世界の断片として主役がいるに過ぎない。この点ではノーラン映画や荒木飛呂彦にも通じる事で、深刻な問題を病まずに自意識過剰にならず自覚する、という指向が自分には合っていて、エヴァも視覚と聴覚に過剰で様々な羅列があり見せ場も充分なのに自分には理解出来ない点はそれもあるのだろう。

    その病的な自己陶酔エヴァが全話放送されて、健全な趣味布教のビバップが放送を打ち切られたという対比も考えると面白い。

    エヴァを契機に何かを始めて今はこれを実現してる、という話をする消費者が当時からもっと多かったら、自分の趣味は合わなくともエヴァを素直に肯定していただろう。

    自分の周囲には、不毛な知識合戦をしていたエヴァ消費者が目立っていた、という私怨もある。

    自分が求めてるのは、人生に影響を与える作品ではなく、人生で行動を変える作品。そういう意味でエヴァは庵野秀明が内向き葛藤であるのは自他ともに認めてるし、自分は半分は自覚、半分は無自覚にそれを感じて刺さらなかった。

    ビバップは、聞く音楽の幅、自分が演奏する曲の増加、海外の作品や文化や人種やらの無抵抗な参加、など作品自体が誤解はあっても外向きで行動や交流を恐れていないどころか望んでいる。

    議論をする余地が全く無い作品ではあるが、行動に結びつく要素や意図が作品にあったか無かったか、それが内向きか外向きか、それが病的か健全か。

    結局のところ、自分は個人の実現には感動や触発されても、増長には興味がなく邪魔だとすら認識している。その結果として、エヴァの断片的な肯定はしても大ヒットを理解できず、だからビバップにはまったのだな、という事を今回を好機に考えついて書いたのがこの記事。

    同じ理由で、だから漫画やアニメを消費しなくなった今でも、荒木飛呂彦や岩明均や藤田和日郎を欠かさずに買って読んでいる、という事なのだろう。

    以上である。

    2021年3月30日火曜日

    双亡亭壊すべし(22) 本作を終えた後の藤田和日郎の行先

    相変わらず旧世代に厳しい。

    "旧世代の不幸はわかる。しかし、その問題を断ち切るために原因である旧々世代と共に死ね。"

    内実に幾らかの同意があろうと旧世代の死を望む。

    藤田和日郎、彼の怒りは本作で鎮まるのだろうか?

    これが、若年が自己肯定の感動話として旧世代をお涙頂戴に利用してるなら程度が知れている。しかし、本作で除外されるような年齢の藤田和日郎がこれを描いている。

    主役よりは上の世代とは言え、明らかに優遇される主役勢の鬼離田姉妹が負の反応を継いで笑っている。彼女らもまた同じだと言われてる。どこまでも断ち切れないのか、部分的に継いでも大丈夫なのか。

    主役を緑朗青一を前提に上文を書いたが、藤田和日郎の思い入れは明らかに凧葉務にあり、作品の鍵は彼である。

    無知のガムシャラを許さず、根拠を示せない超然を肯定する。


    話は変わるが、彼が女をどこまで描く気があるのか、いまだにわからない。

    女の裸に手を抜いてるわけではないが、特に今回は、一般的な禁忌は当事者にとって常識に過ぎず、仮に禁忌に甘んじるにしても、その由来と結果を理解した上で切り捨てろ、という怠惰を許さぬ主張なのに、それでいて女の裸は見開き2頁ほどの気合は無い。

    彼にとって、それは読者に近すぎると考えたのか、やはり彼自身は分野としてそこまで興味が無いのか。


    しこたま旧世代を断罪した上で、次世代の幸福をどう扱うのか。老人とは言わぬまでも、もはや現在の若年には通じない事ばかりやってる彼が少年漫画という枠でどう話を片付けるのか。

    本作が終わったところで、藤田和日郎の仕事は無くならないだろう。しかし、本作が少年漫画をやるやらないの分水嶺な気がする。本作でも主張や芸風は変わっていないし、能天気や戦闘や乗りは相変わらずなのに、許されない事の範囲が広がってる。これが読んでいて凄くひっかかる。

    王道は若年にまかせて、そろそろ荒木飛呂彦のように幾らかを振り落として描いても良いのではないか、と思う。

    本作が、彼にとってやりたい放題なのか読んでいてわからない。ここから飛び去りたいのか、この枠のなかで凝縮したいのか、自分にはそれがわからない。

    2021年3月27日土曜日

    解説動画に音楽が不要な理由

    解説動画に音楽は不要。

    人間の行動は基本的に視覚的であり、その行動を邪魔しないようにラジオや音楽は配慮されている。または、映像も含めて音声だけを任意に利用が可能。

    しかし、聴覚を中心とした作業に対する視覚的な任意性の商品が少ない。特に思うのが、解説動画の音楽の乱用である。

    音声だけではわからない指示語の多発や、字幕や図表の欠如。楽器の反復練習ついでに見てるような視覚的刺激としての配慮。

    視覚と聴覚の両方を100%向けなければならない理解が出来ない動画が多すぎる。

    当然、音声では不可能、映像では不可能な内容もあるだろう。しかし、特に解説という分野においては、基本的に言葉と文字なのだから、言葉なら音声だけ、文字なら映像だけで完結が可能であり、それを踏まえた音声だけで完結してる方針、映像だけで完結してる方針、その上で両方の和としての動画は可能なのだが、それは余りに少ない。

    こういう言い方もなんだが、視覚障害と聴覚障害を全く相手にしていない、どっちつかずの編集に溢れている。

    そういった人種を無視しても採算が取れてしまうし、そもそも相手にしていなのだろうが。

    2021年3月25日木曜日

    たまたま隣を歩いていた見知らぬ女性の微笑ましい些細な幸せ

    偶然にも進行方向が同じで、10m程の距離で隣を歩いていた見知らぬ女性。

    最初、彼女の前にいるのは小型犬で、その散歩をしてるのかと思ったら、それは小型犬ではなく鳩だった。

    彼女は、自身の歩行に合わせて前を歩く鳩を見て笑いながら歩いていた。

    自分も、微笑ましいな、と思っていたら突然、鳩が彼女に向かって飛び出した。

    驚いた彼女は「ギョエェ」と明石さんのような反応ではなかったが、体をそらせて「きゃ」と声を上げた。その彼女を尻目に鳩は彼女の脇を抜けて飛び去っていった。

    彼女は転ぶでもなく怪我もなく、自然の些細な不意打ちを受けたに過ぎなかったが、その一部始終を見ていた自分は、思わず声をあげて笑ってしまった。

    その笑い声を聞いた彼女は、恥ずかしそうに、しかし気まずさを感じさせない瞳でこちらを向いて笑った。

    その表情に釣られて「見てしまった。最初、犬をつれてるのかと思ったら鳩だったんで驚いて2度見しましたよ」と彼女に声をかけたら、彼女は「何か可愛いなと思ってたら急にあれですもん。思わず声あげちゃいましたけど、いやあ咄嗟の時って人間自分を隠せないものですね」と気さくに答えてきた。

    2人は変わらぬ10m程度の横並びで歩きつつ「何があるのかわからないものですね」「いやあ、いいもの見せてもらいましたよ。今日はこれだけで元が取れます」などと些細な会話を交わして、当然ながらお互いに名乗ったり連絡先を交換するでもなく、行先が共通していた50m程の距離だけを共にして、軽く挨拶して別れた。

    2021年2月28日日曜日

    山口恵梨子と檜山沙耶が接触

    2021年2月27日土曜日

    横浜SF 丁寧だがSF違いのスタイリッシュファッション

    描写は丁寧だし、絵柄も綺麗だし、真面目な仕事で面白かったが、物足りない。

    もともと客層が限られる分野で、絵柄がスタイリッシュなのは商売として正しいが、このスタイリッシュもまた客層が限られた分野で、狭い*狭い=狭い。

    ペルソナシリーズのような気持ち悪さがあった。たまたま世界の中心が主人公だったという、未知の広さを自覚した意図した狭さではなく、ただ広さを描けないから狭さに甘んじた、同じ顔立ちの美形の内輪で盛り上がっている大学サークルのセックスのような感じ。

    例えば、美女が陥る強姦などの実情や、奴隷を避けられて不自由ながらうまく生きてる状況など、秩序ある中での犯罪と、無秩序のなかの殺し合いや奪い合いは、等しく厳しく酷い、みたいな問題はほとんと放置。

    あくまで美男美女がうまく悦に浸ってるだけで終わってしまった。

    2021年2月17日水曜日

    キヤノン CP1300 で読み込まない画像を印刷する方法

    USBメモリから読み込まない画像が多くあった。EXIFを色々と編集したが駄目だった。しかし、以下の手段で問題なく読み込み、印刷を出来た。

    *Macでの対処法

    1. プレビューで画像を開く
    2. 画像を全選択してコピー
    3. 新規作成して保存