2021年4月26日月曜日

右利きでも左利き用のUI(HUD)が欲しい理由

現在ウィザードリィ外伝 戦闘の監獄というビデオゲームをやっている。

これ自体は面白くて素晴らしいビデオゲームだが、1つ不満がある。

タッチパネルの操作が右利き用しか無い。

自分は右利きだが、例えばピアノの練習とか、可能な限り左手と右手の能力差を無くしたいと考えていて、箸を左手で使うなど日常的に可能な限り左手を使うようにしている。

そこで、上記のウィザードリィ外伝 戦闘の監獄に限らず、デジタル端末の操作系が基本的に右利きした想定していないものが多すぎて不便。

左利きは世界の1割に過ぎないが、確実に1割はいるという事だし、自分のように右利きだが左手を鍛える目的で左利き用が欲しいと思う人間もいるだろう。

合わせて5割とは言わないが、2割くらいにはなるのではないか。

例えばセブンイレブンなどの半セルフ会計レジも明らかに右利き用である。現金を入れても現金ボタンを押さないと会計を進められない愚かな仕様よりも、それを排して左右切り替えボタンを最前面に置くほうが消費者のためではなかろうか?

2021年4月17日土曜日

双亡亭壊すべし(23) 帰黒と泥努に見る藤田和日郎の変化

現実にも起こり得る取り戻せない誤解に関して、藤田和日郎なりの様式、善意の記号と悪意の記号を自身でひっくり返した。

しかし、何の比喩も無く「大事なことは話し合え」というのを少年漫画で読んで面白いのだろうか? 反面教師に子供の教材として描いてるのかもしれないが、彼自身を含めた30代以上を全批判にしか見えず、読んでると笑ってしまう。後述するが、戦闘に関しても展開の肝を登場人物の行動よりもナレーションで説明してしまってるし、どこまで藤田和日郎が乗って描いているのか、読んでいる自分にはわからない。

帰黒。これまで藤田和日郎にとって美少女は読者人気のための商品で、行動や表情にトロフィ以外の幅はあるにせよ、主役や読者の幸福条件の1つであり、彼女らの結末は変わらなかった。

しかし、今回は読者人気を満たした上で切り捨てた。帰黒は過去キャラなので死ぬのはありえない事ではないが、これまでの藤田和日郎なら、人気のための登場人物は最後には理不尽に幸福になっていた。それが帰黒やフロルなどの明らかに読者人気が最初にあって描かれる美少女が、今作では扱いが厳しい。

これまでも脇役には容赦の無いところがあった作家ではあるが、作中でその手を繰り返す事はなく、あくまで美少女代表、旧世代の男(女)代表という形で描きわけていた。

しかし、今回はどうも代表者ではなく世代や立場が同じ者は容赦なく扱われるようだ。例えば、今回は帰黒の話なのに、残花に対する恋愛や死の表情が、小さな隅のコマだけで扱われている。これまでなら、頁半分くらいの大コマで見せ場の表情とするような事の筈だが。

藤田和日郎の前提にあるのは古典的な人情であるが、その人情の描写が物理的に小さくなっている。様式に嫌気がさしたのか、この程度でも通じるという自負なのか、それはわからない。

どの動画か忘れてしまったが、岡田斗司夫が読む漫画を選ぶ基準の1つに同人誌の有無がある。面白い作品は同人誌が書かれるから、それが絶対的な基準ではないにしろ、未知の作品に関しては有効であると。

日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象を読んでいて似た問題で面白い話があった。作品の強さとキャラ(登場人物)の強さは異なり、前者は作家の絵柄や主張を含めた評価であり、後者は同人誌のように絵柄も設定も全く異なっても成り立つ評価で、日本の漫画やアニメは前者から後者へと変化して、萌えがその結果である。

さて、そこで藤田和日郎の漫画に同人誌が少ないのは何故なのだろうか? 彼の絵柄や登場人物は古臭いが、現代の漫画でも充分に商品価値がある密度だとは思うのだが、そして美少女も充分に美少女に見える絵だとも思うのだが、結局のところ、彼自身の暑苦しさが無い限り藤田和日郎に準じた何かにはなれず、かつ若年とのへだたりもあり同人誌が無いという事なのだろうか。

いずれにせよ、藤田和日郎は彼個人で完成していて誰も手を出せないのか、と改めて思った。

そういう意味では、ベルセルクすら1部のパロだけで同人誌は盛り上がったとは言えない。結局のところ、そもそも難易度が高い劇画に作者だけが乗った作品というのは、ヘタなモノマネにしかならず、やはり扱いにくいのだろう。

ところで、ラスボスがクソどうでもいい存在で、どうしたらいいのか。本作は、どうしたって取り戻せない損失があり、せめてどう失うかを自分で決めろ、という主張がある。そこにラスボスの設定とか強弱なんぞ無関係で、むしろ泥努の生き様に対して敵対という設定ではなく現実的な尺で邪魔してるようにしか見えない。

その点では荒木飛呂彦と同じに見える。軽薄な読者はラスボスが誰だの能力がどうだのばかり話題にして、未知に対する覚悟と行動を示してるだけの「奇妙な冒険」の作者の挑戦を全く無視して、あれこれ考えて描いてる作者が可哀想にしか見えない。それでも、荒木飛呂彦は少年漫画をやめたから、少年漫画しか読めない読者から不評なのは当然とも言える。本人も覚悟してる事だろう。

しかし、藤田和日郎の場合は彼自身が怪獣や爆発といった視覚的な刺激を一種の義務として作品に入れていて、恐らく本人にとって必須だとすら考えているのだろう。その上で、価値観の主張のほうが重大になってしまった結果、少年漫画の義務的な戦闘が、少なくとも絵としてしっかりと描かれてるのに、全く作品の核心に貢献してるように見えない。

ただ、帰黒などの美少女の大ゴマよりもそれらを描きたい、男を喜ばせるだけの美少女なんかよりも大災害のほうが重要に決まってるだろう、という主張はわかる。人情派の作家が人情の無力を思い知り、藤田和日郎が泥努のような静かな誤解を、いつもの藤田激情劇場ではなく静かなまま描いてるというところに、彼なりの変化が見られる。

彼なりの様式は相変わらずなのに、昔は問答無用だった立場や要素を、認識、あるいは肯定せざるをえなくなった年齢や時代をどう評価したら良いのか。

彼の読者層がどういった規模なのか、読んでいる自分でもわからない。彼がやってる事は王道ではあるが、これらの反省や怒りというものがあれこれと語られる程に読者の分母がいるように見えない。彼はもはや古典になってしまったが故に好事家しか反応していないのではないか。

正直なところそれぞれアニメが成功してるとも思えない。彼の漫画に許される時間や描写をアニメにするには予算と手間がかかりすぎる、その点でも彼自身で完成していて同人誌を作れない点と共通するのだろう。

もはや彼が辟易している点を彼が隠さなくなった事によって、ある点では鋭い直球で面白いが、果たしてそれが少年漫画で成り立ってるのだろうか? という疑問はある。

2021年4月15日木曜日

科学が物語に敗北するのは何故なのか?

そもそも宗教と科学は対立しない。当時の知識と予想で語られるのが宗教から科学に変わったというだけで、本来、役割は同じである。

しかし、科学や論理を無理解に、物語だけを盲信する人間に溢れてるのは何故なのだろうか?

物語とは、結果に対する原因と過程の不明を仮定した論理であり、場合によっては物語と同義とも言える。

10に対して5*2でも5+5でも内訳は好きにすれば良い。結果と違わなければ物語も論理も任意の正解に過ぎない。しかし1+1しか出来ずに、それを繰り返して10を導こうとしたら、1+1+1...とやっていくうちに計算を間違えて10にならない、という失敗を生涯かけて甘んじる人間が少なく無いのは何故なのだろうか?

テクノロジーは貧困を救わないでは、貧困層の教育は情報だけでは不足だという。教材で扱われる人種の肌色や方言が違うだけで、情報の中身は無視され拒否されると。

インドに関しては、教育の他に、そもそもあらゆる事で簡単に死ぬ、というのが日常だから、Covid-19で多少の確率があがろうと知った事ではない、という現実があるのかも知れない。

いずれ解決不能ならば無根拠な願望を選ぶ、という事なのだろうか。

2021年4月13日火曜日

小説の『と言った』問題

自分が本を読む目的は知識の獲得。その意味で小説を読む頻度は落ちた。

それでも全く読まないわけではなく、現在量子魔術師地球連邦の興亡を読んでいる。

そこで気づいた事。

前者量子魔術師は翻訳なのもあり「あいうえお」と言ったが多すぎる。

この問題の初出がいつからか不明だが、話題としてはありふれているくらいに根本的な問題である。

それに対して地球連邦の興亡(佐藤大輔)はと言ったの代替として状況によりと尋ねたと聞いたと同意したと拒んだ等と、言葉の意味と行動の意図を一致させた語彙で処理している。あるいはすかさず続けた「あいうえお」と前後を逆転させて書いてる場合もある。だから読みやすいし読んでいて停滞しない。

思えば、自分が佐藤大輔と並んで京極夏彦を評価しているのも、こういった装飾がそのまま作品の本質に一致していて、大衆娯楽として軽薄な刺激に溢れつつも、こういった情報処理の工夫と対応が作者と読者の両方に求められるからだろう。

地球連邦の興亡を読んでいて面白かったのは、3人以上の会話なのに、台詞の合間に誰が言ったかが全く書かれない。それでいて全く混乱せずに読めるという事。

「人物A,人物B,人物C、それぞれ報告せよ」
「こちら半分が完了」
「現在、情報不足により判断不能」
「そうか。人物D、これについてどう思う?」
「はっ。現状ではいたしかたないかと」
「そうだな。では報告を続けよ」
「人物C、現在作業中です」
「わかった。それでは総員、これより作戦開始」

と言った感じで、ここでは5人の登場人物の会話だが、台詞の中で幾らか補完しつつ、誰が言ったと示さずに全く問題なく読める。

もちろん、口調や用語などで登場人物の個人や立場などを区別が可能な設定だから許される文章ではあるだろう。

しかし、それは作者が作品の前提を明確に意図、理解してるからこそ可能なのであり、その点で量子魔術師は内容の是非とは別に、情報処理という観点で不満がある。それが原文からそうなのか、翻訳でそうなのかは知らない。

算数で、1*2と2*1は同じか違うか問題があるが、結果は同じで前提が違うという論理で使い分ける、それが理解というもので、小説にも同じ事が言える。

AI vs. 教科書が読めない子どもたちでは、数学は国語の問題である、と主張しているが、結局のところ言葉も物語も認識しやすい順序、つまり論理を駆使した結果であり、その点では小説も数学も変わらず、丸暗記の定型処理と、原理を理解した上で結果は同じだが展開が違うという能力、あるいは努力の差が出るのだなと。

2021年4月11日日曜日

漫画は絵画ではなく文章に近い

漫画には作家あるいは読者を含む分野における規則がそれなりにあり、記号の秩序だった羅列である。

かつ、時間的な展開(論理)を想定し、その記号と文脈を理解していなければ読めないので、漫画は絵画よりも文章に近い。

以上は1979年の手塚治虫のインタビュウの要約である。

これに対して日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象は以下のような極論を示していた。それが面白かった。

絵画は究極的に描いた当人だけが理解していれば善い。そもそも理解を必要としない。しかし、漫画の場合は、内容が理解不能である事と、読み方が不明である事は別問題で、後者は許されない。それに対して絵画や音楽は手段(作成)そのものが目的となり必ずしも理解を必要としない。

これに関して、何で読んだか忘れてしまったが、ピエール・ブーレーズは更に絵画と音楽を比較して、音楽は様式と比較すると作家が反映されにくいが、絵画は様式だけを模倣しても作家の手癖など無意識の無理解が反映されて否応なく作家(当人)の限界が反映される。その点で、音楽は作家よりも様式が勝り、素材(音階や楽器)の限界が作家や作品の限界に等しく、建築は凍れる音楽は比喩ではなく事実であると。

佐藤大輔のSF小説地球連邦の興亡では、登場人物は科学技術で知識をテレパシ的に共有可能であり、知識量は能力に加味されない。能力とは知識の運用、行動によって評価される。

これは集合知が個人に勝るという話ではない。知識に比例して柔軟に行動が可能であるという事。

一般に知識とは様式を暗記して、様式に従う事にある。新しい様式を求めない。しかし、知識とは既知から未知を作るための素材であり、既知の正解と未知の正解を常に意識して比較する事で発揮される。

その点で、様式に縛られやすい音楽のほうが発見がわかりやすいな、と思った。

新しい様式とは、旧来の様式を壊す事ではない。旧来の様式に不足した事を追加する、あるいは全く置換する事。

漫画に話を戻すと、絵を描かずに吹き出しの位置だけでも成り立つ作業ネームから、慣例で絵を含むそれをネームと言うようになったが、以上の漫画は絵画ではなく文章であるという構造から、概念の根本を知ってか知らずか、絵が無かろうと吹き出しが無かろうとネームというのは正しくその通りなのだな、と感心してしまった。

2021年4月8日木曜日

本田雅人の相対音感の意識と練習

  • 1曲を弾ける(吹ける/歌える)ようになる。
  • それを12調全部で練習する。
  • 短調のトニックは長調の6(ラ)と考える。
  • 音楽とは、常に過去の堆積であり、演奏前の音は期待値でしかなく、ある意味で音程を取れないのは当然。

特に4つ目の話が面白かった。音楽をやるのに絶対音感のほうが少数派であり、その上でどのような認識(割り切り)で取り組むか。

2021年4月4日日曜日

エヴァンゲリオンとカウボーイビバップ。両者の闇鍋で自分が前者を食べられず後者で満腹だった理由。

エヴァンゲリオン

エヴァを好きな人は、そのまま庵野秀明に金を払えばいい。提供と消費、それ自体は健全な関係であり、何も言える事は無い。

その上で、自分は個人的にエヴァの面白さがわからない。

無論、美男美女のエロ萌え、エヴァの視覚的な挙動、これらはわかる。趣味であろうとなかろうと、それ自体はわかる。

しかし、初代からして、日本人による日本向けアニメなのにユダヤ教が何の関係があるのかわからなかった。それが欧米コンプレックス的な演出に過ぎないのなら日本の伝統芸だが、そこに意味や考察を求める消費者を全く理解できなかった。未知の言葉に反応してるだけで既知と未知の概念を無視した浅ましい自己陶酔のように見えた。

だから最初は、ユダヤ教を布教目的とした宗教的なアニメなんだとすら考えた。

自分は、エヴァを見て設定そのものをわからなかった点も多かったが、わかったところで無駄だというのは当時から思っていた。考えさせる作品なら、もっと違う媒体や違う説明や違う見せ方があるだろうと考えていたので。

こう言っては何だが、論文的な小説や書籍などでええやんと。

結果的に、エヴァはよく考えられたアニメではあるが、それは消費者のクイズ番組的なものではなく、基本的に用語や設定は無意味であり、提供者と消費者の論点は明らかにずれてるのが、徐々に明らかになった。

今だと、ジョジョリオンがそれに近いと考えている。荒木飛呂彦が身体障害や超常現象を珍しいものじゃない前提として扱い、そもそも常識への疑問や、無視されてる問題を扱ってるのに、戦闘が意味不明とかキャラがダサいとか、その程度で読めなくなる旧来の読者たち。ラスボス戦にいたり、様式に落ち着いて始めて騒ぎ出す読者。

エヴァ自体は当時としては珍しい演出様式なので真逆のようだが、作者(荒木飛呂彦)が扱ってる題材が無視されて描写にのみ言及される、という点で共通した作者の悲しさ。

そういう意味で、自分は庵野秀明に同情的である。彼の自殺願望などは嘘ではないだろう。個人の苦悩と、小さな環境と、明らかな世界の問題、いずれに対しても不満はあっても無力で、それを思い知る日々は、さぞ辛かろう。

個人的には、彼はそれほど政治的宗教的な事に興味がなく言及してるように見えるので、その点は改めるべきだとは思うが。

カウボーイビバップ

前置きが長くなって申し訳ない。

エヴァンゲリオンの3年後。カウボーイビバップが始まり、自分はドはまりした。

この記事は両作品の優劣を語るものではない。ここに書くのは、両作品とも作者(関係者)の大好物闇鍋なのに、前者は病的で自分には刺さらず、後者は健全で自分には刺さった。それは何故なのか?

エヴァが完結し、ビバップのドラマも収録が終わったのを契機に、それをここに書き残すのが意図である。

というか、結論は既に書いた通り、病気か健全か。これである。

エヴァが、作者も消費者も好きなものが共通し盛り上がった割に、結局はその好きなものが人生を好転させていない(ように見える)。自分は当時からそこまでの事を考えていたわけではないが、カウボーイビバップを見た時に考えついた。

カウボーイビバップは、作者が好きなものが羅列され、それって最高だろ?と提示してるだけ。そういう意味で裏は全く無い。だから議論的な盛り上がりが無い。

しかし、作品に賛同すれば、そこから趣味や行動が広がる。例えばエヴァはクラシック、ビバップはジャズをアニメ層に広めた。その功績は等しいが、その後の楽譜などの「消費以外の行動」に結びつく商品が両者にどれだけあっただろう?

実は、模型などの点でエヴァは広がっているから、この論点には無理があるのだが、エヴァで宗教的な知識を持った10年後に、ユダヤ教の延長でイスラエルの問題にまで真面目に考えてる人間がどれだけいるだろうか?とか考えてしまう。

ビバップは、ある意味で最初からそこまで深刻に提示していない。後から味付けを好きに出来るようになっている。両者とも知識や引用の羅列型の作品であるのに、視聴者間での格差や対立などが無く、好きなものを選んでそれぞれに発展させて、それを加算や乗算はしても相殺しあわない。

また、ビバップに自己陶酔はあるが、自意識過剰ではない。世界を描いて、世界の断片として主役がいるに過ぎない。この点ではノーラン映画や荒木飛呂彦にも通じる事で、深刻な問題を病まずに自意識過剰にならず自覚する、という指向が自分には合っていて、エヴァも視覚と聴覚に過剰で様々な羅列があり見せ場も充分なのに自分には理解出来ない点はそれもあるのだろう。

その病的な自己陶酔エヴァが全話放送されて、健全な趣味布教のビバップが放送を打ち切られたという対比も考えると面白い。

エヴァを契機に何かを始めて今はこれを実現してる、という話をする消費者が当時からもっと多かったら、自分の趣味は合わなくともエヴァを素直に肯定していただろう。

自分の周囲には、不毛な知識合戦をしていたエヴァ消費者が目立っていた、という私怨もある。

自分が求めてるのは、人生に影響を与える作品ではなく、人生で行動を変える作品。そういう意味でエヴァは庵野秀明が内向き葛藤であるのは自他ともに認めてるし、自分は半分は自覚、半分は無自覚にそれを感じて刺さらなかった。

ビバップは、聞く音楽の幅、自分が演奏する曲の増加、海外の作品や文化や人種やらの無抵抗な参加、など作品自体が誤解はあっても外向きで行動や交流を恐れていないどころか望んでいる。

議論をする余地が全く無い作品ではあるが、行動に結びつく要素や意図が作品にあったか無かったか、それが内向きか外向きか、それが病的か健全か。

結局のところ、自分は個人の実現には感動や触発されても、増長には興味がなく邪魔だとすら認識している。その結果として、エヴァの断片的な肯定はしても大ヒットを理解できず、だからビバップにはまったのだな、という事を今回を好機に考えついて書いたのがこの記事。

同じ理由で、だから漫画やアニメを消費しなくなった今でも、荒木飛呂彦や岩明均や藤田和日郎を欠かさずに買って読んでいる、という事なのだろう。

以上である。