2022年6月25日土曜日

最近のリュックの手触りの良さについて

COLEMAN リュック ウォーカー15

主に図書館往復で常に複数の本を手持ち移動はつらくなったので、リュックを購入した。

リュックなぞ成人してから数えるくらいしか利用していないので、久しぶりの感覚だったが、驚いた事が1点。

5000円前後は安価の部類だが、充分な耐久性を持った上に、背中の感触が心地よい。最近のリュックは安価な上にここまで配慮と品質が行き届いたものなのか。

もっと早くに購入すれば良かった。

2022年6月24日金曜日

成城石井の虜

成城石井

自分は、食事に関しては可能な限り安価で済ませたい。

かといって、アレルギは無い癖に胃腸が弱く、安物を食べるとすぐに腹を壊す。

例えばセブンイレブンの弁当やサンドウィッチなどは、味に不満は無いのに腹痛が避けられない。

さて最近、ほぼ毎日の図書館の道中に成城石井があるのに気づいた。

自分は、成城石井の立ち位置がわからないが、高級店とも安物店とも言えない難しい店だと、入店して気づいた。

試しに買ったパンやサラダやサンドウィッチや弁当など、ひとくちでまともな食事だとわかる品質で、当然ながら腹痛も起きなかった。

これまではコンビニは腹痛確定なので回避し、ソバと納豆と卵とヨーグルトだけの生活だったが、成城石井のおかげで、それなりの食事が出来るようになった。

以下が購入してる商品。

  • バターじゅわっともっちり塩パン
  • チョコと胡麻のスコーン
  • ヨーグルト(グルメファン)
  • 1日分の緑黄色野菜が採れるサラダ
  • バナナ(フィリピン)

以上を、3日くらいにわけて完食してる。

不満というか困っているのが、自分には金額が厳しい。

当然、これが安価になれば、常時体調不良の食事を繰り返す事になる。

2022年6月22日水曜日

フィッティング出来るピンホール眼鏡が欲しい

眼球が反応する光量を減衰させて視力の回復または安定させる道具、穴あき眼鏡。ピンホール眼鏡。

効果は人それぞれだが、自分の場合は有効だった。

しかし、一般眼鏡と違い小さくて大きい問題がある。

それがフィッティングである。

一般眼鏡はパッドやテンプルなどを曲げて微調整するのが常識。

対してピンホール眼鏡はプラスチックの数百円と安価で購入しやすいが、フィッティング不可能なので、結局は使いづらくなっている。

そこで、5000円程度でフィッティング可能なピンホール眼鏡を作って欲しい。

2022年6月21日火曜日

文楽に興味をもったら往復葉書が必須だった件

東京都内の図書館を利用したところ、文楽の広告を見かけて、1人1000円で見られるので興味を持ったら、チケットの購入は往復葉書のみだった。

落語なんかも、規模によっては個人(当人)が入場料と客席を管理してる事なんかよくあるが、Eメールすら非対応で往復葉書のみは笑った。

ただでさえ客の分母が少ない筈なのに、業界的に、こんな管理で良いのだろうか?

興味を持った人間すら客にならずに終わってしまうのが惜しい。

2022年6月19日日曜日

スマホとネットの時代に電子辞書を買った理由

  • そもそも携帯電話を持っていない
  • スマホなどの画面は、色と光の刺激が強く疲れやすく気が散る
  • スマホやタブレットは、検索までの操作手順が余計
  • タッチパネルの反応は鈍く、並行的な操作が不可能なのでボタン式が良い
  • 携帯電話など汎用機の電池消耗を考えなくて済む

擬似緘黙で自分の発言は全て文字にしたので、そのために書けない漢字や読めない英単語は死活問題なので、思い切って購入。

6000円程度の商品を購入。広辞苑すら未収録と評判が悪いモデルだったが、基本的には、書けない漢字を調べるといった軽い用途であり、込み入った専門性は求めていなかったので、これくらいで充分で何の不満も無い。

2022年6月14日火曜日

図書館で読むのが楽しい

成人して仕事を始めてから、読書を中心とした勉強や知識の獲得は半ば義務ながら、自主的に楽しんで出来るようになった。

しかし、自分の望む機会、場所、姿勢、などと合わないと暗記を出来ない。

その点で、自分にとって図書館は本を借りる場所であって、読む場所ではなかった。

しかし、状況が変化して、自宅が全く集中出来ない場所になってしまい、図書館で読んでみるようにした。

また短期なので実際の恩恵は不明だが、図書館で読む事自体は苦労しなかった。言うなれば、同じ目的を共有した人たちしかいない場所であり、互いの思考を邪魔するような人はいない(現実には皆無ではない。じゃらじゃらと金属音を鳴らして歩いたり、独り言が多い人もいる。それでも、自宅や職場やその他の場所よりは、環境が担保されている)。

全く現実に見合わない不満としては、図書館での行動に飽きたら、すぐにピアノを弾けたら、自分の理想の生活は完成する。

ピアノとピアノ椅子では、読書を中心とした勉強は出来ないし、逆もまたしかり。

文武両道を実現する環境が無い。

図書館で1時間読み(勉強)して、時差なくピアノに切り替えるという環境が欲しい。

歩くのは好きなので、自宅から図書館を往復するのは全く苦痛では無い。

眼から鱗の手拍子

自分はファミコン音楽から育った世代なので、和音数が少ない代償に細かい動きをする旋律やリズム、強引な変拍子などを、むしろ自然なモノとして生きてきた。

そういう意味でリズムには困った事がないが、手拍子でも、拍は取れるが拍子が取れない、という事は何度もある。

極論を言えば、楽譜がなく拍子が不明な曲を聞くと、等速で聴いてる時点では1/1としか感じていない。それを意図して4/4や7/8など数字を決めてから取れば、当然それぞれの拍子として取れるが、未知の曲に対して最初にあるのは1/1である。

そこで、ふと見かけた上記の動画を試して、拍を取りながら拍子を見失わない事に気づいた。

眼から鱗だった。

手を離さない

これだけで、感覚がここまで変わるとは考えもしなかった。あまりにも自分が愚かで笑ってしまった。

上記の手拍子動画を踏まえて菅野よう子が坂本真綾のギター確認でする手拍子を確認したら、彼女も先述の動画と同じ手拍子、手を離していなかった。

自分が参考にしてる人たちの機微を何も受け取っていなかったと、自分の無能さをまた改めて思い知らされた。

そもそも、長年人間が音量を感じる基準とされたVUは300msの音価を中心としてる。

だから手拍子も接着時間が長いほうが脳が認識しやすいのは当然なのだが、その発想が自分には全く抜け落ちていた。

2022年6月11日土曜日

自分の声を嫌悪していたと自覚した話

劣悪な環境で、自分の発言が反映されないという絶望から、擬似緘黙となった。

擬似と書いたのは、まだ診断結果がないのと、自分の声を聞くと気持ち悪くて吐きそうになるが、その無意識か、もう無駄な発言はやめようと決めてからそうなったのか、自分の認識が曖昧だからだ。

発言は出来るのだ。

発言後に気持ち悪くて、場合によって吐いてしまうだけで。

さて、その件とは別に、自分の声に軽い劣等感があったのは事実。

本の音読や、音程を取るための歌声に、自分の声では感動せず暗記を出来無い、という認識はあった。

誰それの声だったらもっと繰り返し聞けるのになあと。

しかし、別に自分を吐くほど気持ち悪い声だとは思っていないし、一般的に酷い声だとも思っていなかった。

あくまで、声優などの天才的商品となる声と比較した上での劣等感に過ぎない。

本来、文章にしろ音楽にしろ暗記の類は音読や発声が有効とされているし、自分もそれに納得してる。

しかし、理想とする声ではないという淡い劣等感だけで、別に自虐の認識など全くなかったのに、擬似緘黙、もう2度と話さないと決めてから、文章や音程の記憶力、脳内での言葉や音程や音色が明瞭になった。

これまで、自分の声で掻き消されていた脳内音色が、発言をやめてから明確になった。

自分の声が、自分の思考や発想を邪魔してるなんて、全く考えもつかなかった。

筆談のほうが頭が回る。

書けない漢字もあるので、発言よりは明らかに速度や感情的な伝達には劣る。

しかし、自分の思考は、脳内で認識してる自覚は、何も話さないほうが明瞭になった。

もともと文章を書くのは好きだったが、もう文章しかないと自覚(覚悟)したら、程度を考えずに何かを書く億劫さが消えた。

面白いのは、話すのを当然としていた時の黙読では覚えられなかった事が、話すのをやめた後の黙読では、覚えやすい、明らかに脳が発火してる感覚がある。

自分はある意味で、会話という常識、自分の声を使うという甘えで、自縄自縛していたのかもしれない。

非常に面白い経験で感動している。

今後、精神科がどういう診断をくだすかは不明だが、この擬似緘黙だけはやめる気がない。

治療する気がない。

これに関しては、無論損害もあるが、自分の思考、脳の発火という点で恩恵しか感じてない。

2022年6月10日金曜日

精神科に通う事にした

あくまで自主的に。

自分自身が非社会的である事は自覚していたが、ついに精神科に通う事にした。

親への殺意と、自殺未遂。担当医曰く、自分の場合は自殺未遂ではなく自傷にあてはまるとの事。

6月8日が最悪だった。

30分間、頭を壁に打ち付けて、壁はじんわりと血に染まっていた。

自分自身、自殺願望はあっても、自傷は嫌悪して、リスカの友人などの腕を見ても不快感と吐き気しかしなかったのに、自分の行動に驚いた。

当時の認識としては、目を閉じて頭を打つと、目を閉じた視界に一瞬真っ白なフラッシュが走るのが面白かった。こんな風になるのだな、と半ば実験感覚もあった。

その後、恐らく緘黙になった。

なぜ恐らくなのかは、まだ診断されていなからだ。

自分の声を聞くと吐き気がする。発音せずに、言葉を言うまねごとでクチを動かすだけで吐き気やめまいがする。場合によって他人の声自体が不愉快。

言葉はわかるし、文字も読める。

緘黙前は、文字を読んでも、単語や文章を統合する事が出来ずに、読めるのに記憶や把握が出来なかった。

緘黙後は、文字や音楽に対する反応は、むしろ向上してる気がする。

そういう意味において、環境とは別に、自分は無意識に自分の声を嫌悪していたのだろうか?と今更ながら思考している。

音楽で音程をとる必要があるのに、自分で歌っても脳内の音程が定着しない。これは、自分が音楽的能力が劣悪という可能性もあるが、自分の好きな音色や声色では暗記や定着が可能なので、自虐するほど無能ではなかったと信じたい。と同時に、自分が確信を持てる情報処理は、自分が望む最高品質ではないと無理、という事なのだろう。

緘黙に関しては直したいと思わない。

自分が発言を止める事で、自分の思考や反応がここまで向上するとは思わなかった。

もともと文章を書くのは好きだし、必要性もあり漢字の記憶力や、すぐに書くという行動も明らかに増えた。

担当医は、長期的に治療と訓練で社会性を復帰させる事を目的と話したが、自分はそれには疑問である。

コンビニ店員をやって80歳まで生きるより、自分が尊敬する天才や偉人の一部でも自分のモノにして、最終的にホームレスで野垂れ死ぬほうが、自分には安らかだ。

これが、自分が反社会ではないが非社会である理由。

自分が生まれる前を踏まえ、自分が死んだ後も考えていない人間との雑談が、とにかく不愉快でしょうがない。

看護師からは、哲学的なタイプだと言われたが、そもそも、文字などを中心に、世代を超越した情報を残そうとしてる、残せるのは人間だけなのに、それを前提としていない人間がそもそも人類に含まれるのか?という疑問がある。

医者からは、診断に最低半年は必要と明確な情報をもらったので、ひとまずそれまでは通院する。

いずれ、自分でまずいと思うから病院に行ったのだし。

2022年6月9日木曜日

音楽と脳の研究に関して

音楽と脳に関する実験は数多あるが、健常者や自閉症、日常的な会話は不可能だが楽器演奏や歌だけは凄いなど、あらゆる人種や老若男女をまとめて音楽的な行動と脳を計測した実験や本が見当たらない。

例えば、絶対音感は言語と結びついてるが、相対音感は違う、など局所の話はあるが、それは健常者と自閉症で違うのか?

などなど、統合的な研究が見当たらない。

右利きや左利きや男や女や世代に限らず、更に精神疾患や自閉症的な状態も含めて、音楽にまつわる能力や反応や脳の研究をまとめた本はないだろうか?

緘黙になった

これは精神科などの診察を受ける前に、自覚として書いている。

何十年にもわたる親の虐待のおかげで、緘黙になった。

/ - 緘黙とは - /

喉は正常で言葉もわかる。ただ自分が何か言うと、自分の声で気持ち悪くなる。発言にともなう胸や頭の振動で気持ち悪くなる。発音せずに、例えば「ありがとう」など言葉のためにクチを動かすだけで吐き気がする。

「あ」など意味を伴わない言葉、ただの発音すら、そのためにクチを動かすと気持ち悪くなる。

この状態になってから、緘黙という概念を知った。

筆談は可能。他人の声は聞こえるし言葉もわかる。自分の発言が発生じゃなく手書きや活字の文字であれば、全く問題がない。

不思議な事に、誰にも何も言わないと決めてから、心身は安定している。

文字や文章や楽譜や音楽(音感)の反応は、むしろこれまでの人生で最高のように感じる。

発言が反映されない環境のためにこうなったが、同時に、恐らく自分の声が自分にとって邪魔だったのだろうと、今はそう認識している。

これまで取れなかった音程、自分で歌うまで脳内で曖昧だった音程が、緘黙になってから脳内音程だけで明確になった。

文字も同様で、10分程度の音読で脳は活発になると聞いて、それをやっていたが、むしろ、音読せずに生涯発言しないと決めた状態のほうが、漢字の記憶力や反応は良くなった。

自分の発言は、全て手書きか活字にすると決めた途端、ものすごく頭が回ってる感覚があり、ある意味で今の自分は好転したとすら感じている。

これがものすごく面白い経験だった。

緘黙以外の問題もあり、客観的、医学的に自分の状態がどうか知りたいので後日診断を受けるが、緘黙に関しては、むしろ治療せずにこのままでいたいと思っている。

2022年6月5日日曜日

防音という格差

日本で音楽を趣味にする、更に言えば身体能力のための習慣にする人間が少ないのは、日本の住宅事情の限界がある。

つまり、騒音と防音。

極論を言えば、もし24時間、好きなだけ楽器演奏や歌唱できれば、脳の記憶力やストレス解消などで、学業的にも社会的にも好転する人間が増えるのではなかろうか?

現在はヘッドフォンがあるので、格差が無いように見えるが、直接耳に接触するヘッドフォンやイヤホンと、高音質スピーカーや壁反響がある音を聞くのは、身体への影響は全く異なり、難聴の増減にも反映される。

また、任意の発声が許されないとなると、音読などの勉強にも差がつく。音楽とは人体能力開発の1つであり、決して娯楽で終わる事ではないし、その延長で、音読や朗読や、音声や文字や記号(暗号)に対する能力にも差がつく。

無闇矢鱈に情操で片付けずに、人類が何故何百年あるいは何千年と継続しているのか、そういった認識を持たずにこれらを扱うのは危険である。

防音が金銭的に高価なのは当然であるが、健全な精神や経済的な好転を望むなら、防音は国をあげて取り組むべき問題ではなかろうか?