2021年4月17日土曜日

双亡亭壊すべし(23) 帰黒と泥努に見る藤田和日郎の変化

現実にも起こり得る取り戻せない誤解に関して、藤田和日郎なりの様式、善意の記号と悪意の記号を自身でひっくり返した。

しかし、何の比喩も無く「大事なことは話し合え」というのを少年漫画で読んで面白いのだろうか? 反面教師に子供の教材として描いてるのかもしれないが、彼自身を含めた30代以上を全批判にしか見えず、読んでると笑ってしまう。後述するが、戦闘に関しても展開の肝を登場人物の行動よりもナレーションで説明してしまってるし、どこまで藤田和日郎が乗って描いているのか、読んでいる自分にはわからない。

帰黒。これまで藤田和日郎にとって美少女は読者人気のための商品で、行動や表情にトロフィ以外の幅はあるにせよ、主役や読者の幸福条件の1つであり、彼女らの結末は変わらなかった。

しかし、今回は読者人気を満たした上で切り捨てた。帰黒は過去キャラなので死ぬのはありえない事ではないが、これまでの藤田和日郎なら、人気のための登場人物は最後には理不尽に幸福になっていた。それが帰黒やフロルなどの明らかに読者人気が最初にあって描かれる美少女が、今作では扱いが厳しい。

これまでも脇役には容赦の無いところがあった作家ではあるが、作中でその手を繰り返す事はなく、あくまで美少女代表、旧世代の男(女)代表という形で描きわけていた。

しかし、今回はどうも代表者ではなく世代や立場が同じ者は容赦なく扱われるようだ。例えば、今回は帰黒の話なのに、残花に対する恋愛や死の表情が、小さな隅のコマだけで扱われている。これまでなら、頁半分くらいの大コマで見せ場の表情とするような事の筈だが。

藤田和日郎の前提にあるのは古典的な人情であるが、その人情の描写が物理的に小さくなっている。様式に嫌気がさしたのか、この程度でも通じるという自負なのか、それはわからない。

どの動画か忘れてしまったが、岡田斗司夫が読む漫画を選ぶ基準の1つに同人誌の有無がある。面白い作品は同人誌が書かれるから、それが絶対的な基準ではないにしろ、未知の作品に関しては有効であると。

日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象を読んでいて似た問題で面白い話があった。作品の強さとキャラ(登場人物)の強さは異なり、前者は作家の絵柄や主張を含めた評価であり、後者は同人誌のように絵柄も設定も全く異なっても成り立つ評価で、日本の漫画やアニメは前者から後者へと変化して、萌えがその結果である。

さて、そこで藤田和日郎の漫画に同人誌が少ないのは何故なのだろうか? 彼の絵柄や登場人物は古臭いが、現代の漫画でも充分に商品価値がある密度だとは思うのだが、そして美少女も充分に美少女に見える絵だとも思うのだが、結局のところ、彼自身の暑苦しさが無い限り藤田和日郎に準じた何かにはなれず、かつ若年とのへだたりもあり同人誌が無いという事なのだろうか。

いずれにせよ、藤田和日郎は彼個人で完成していて誰も手を出せないのか、と改めて思った。

そういう意味では、ベルセルクすら1部のパロだけで同人誌は盛り上がったとは言えない。結局のところ、そもそも難易度が高い劇画に作者だけが乗った作品というのは、ヘタなモノマネにしかならず、やはり扱いにくいのだろう。

ところで、ラスボスがクソどうでもいい存在で、どうしたらいいのか。本作は、どうしたって取り戻せない損失があり、せめてどう失うかを自分で決めろ、という主張がある。そこにラスボスの設定とか強弱なんぞ無関係で、むしろ泥努の生き様に対して敵対という設定ではなく現実的な尺で邪魔してるようにしか見えない。

その点では荒木飛呂彦と同じに見える。軽薄な読者はラスボスが誰だの能力がどうだのばかり話題にして、未知に対する覚悟と行動を示してるだけの「奇妙な冒険」の作者の挑戦を全く無視して、あれこれ考えて描いてる作者が可哀想にしか見えない。それでも、荒木飛呂彦は少年漫画をやめたから、少年漫画しか読めない読者から不評なのは当然とも言える。本人も覚悟してる事だろう。

しかし、藤田和日郎の場合は彼自身が怪獣や爆発といった視覚的な刺激を一種の義務として作品に入れていて、恐らく本人にとって必須だとすら考えているのだろう。その上で、価値観の主張のほうが重大になってしまった結果、少年漫画の義務的な戦闘が、少なくとも絵としてしっかりと描かれてるのに、全く作品の核心に貢献してるように見えない。

ただ、帰黒などの美少女の大ゴマよりもそれらを描きたい、男を喜ばせるだけの美少女なんかよりも大災害のほうが重要に決まってるだろう、という主張はわかる。人情派の作家が人情の無力を思い知り、藤田和日郎が泥努のような静かな誤解を、いつもの藤田激情劇場ではなく静かなまま描いてるというところに、彼なりの変化が見られる。

彼なりの様式は相変わらずなのに、昔は問答無用だった立場や要素を、認識、あるいは肯定せざるをえなくなった年齢や時代をどう評価したら良いのか。

彼の読者層がどういった規模なのか、読んでいる自分でもわからない。彼がやってる事は王道ではあるが、これらの反省や怒りというものがあれこれと語られる程に読者の分母がいるように見えない。彼はもはや古典になってしまったが故に好事家しか反応していないのではないか。

正直なところそれぞれアニメが成功してるとも思えない。彼の漫画に許される時間や描写をアニメにするには予算と手間がかかりすぎる、その点でも彼自身で完成していて同人誌を作れない点と共通するのだろう。

もはや彼が辟易している点を彼が隠さなくなった事によって、ある点では鋭い直球で面白いが、果たしてそれが少年漫画で成り立ってるのだろうか? という疑問はある。