2021年5月21日金曜日

ジョジョリオン(26) - スタンドや展開が突飛であるほど読者の現実と地続きになる荒木飛呂彦の世界

透は決定論。定助は量子論。これまでジョジョは少年漫画として主役が運命を切り開く決定論を否定してきた古典的な英雄主義だったが、ジョジョリオンは作品としてのご都合主義で主役の勝利は約束されてるとはいえ、決定論を否定する代わりに主役も多次元の物質の確率的な存在に過ぎず、それを自覚した上で戦い抜き勝利する、人生を全うする、世界に対する諦めを含んだ自己肯定。

シャボン玉は量子(未知の素粒子)だと発覚したが、康穂を利用しないと遠距離攻撃が出来ないという点で、量子もつれなど空間を超越していないし、当然ながら時間も超越していない。そういう意味では全く地味でチートや神などに及ばない能力。プッチすら時間の加速による再構築であって逆行では無く、時間に対して可逆という点ではバイツァダストのほうが神に近かった。

シャボン玉は水、爆弾は火。これは生命の根源でもあるから、物質の変換という点でゴールドエクスペリエンス、ビッグバンという点ではバイツァダストを継いでいる。その割に、決定論に対する、また物理法則という絶対的な規則の中で、そこからの逸脱が不可能な能力だし、それを自覚しながらも限界と思われる既知を突破する事から始める、ただ生き残るために抗い進化する生命そのもの、あるいは人類史の再現。

こうして書くと、1部から描いている事は全く変わっていない。ただ、その比重が各部で大きく変わり、ジョジョリオンに至っては、1周してスタンドの特権的な英雄すら、読者の現実の未知に比べれば世界の断片に過ぎないという形になっている。

そもそも、スタンド能力の基本は「触る」事であり、例えば、うなってる犬に手を差し出すような、毒かもしれない植物を避けなければならない、あるいは毒とわかってて取らなければならない、そういった未知や障害に対して覚悟が無いと出来ない行動なので、スタンドという超能力に全く特権が無い。能力を発現しても、それは読者の現実に存在する物質に干渉する事しか出来ないという点で、また、視認や接触する距離に限られる行動という点で、全く超越性が無く、もはや超能力という設定が不要と言えるくらいに現実的。

だからこそ、面白い。

例えば、サッカー漫画だと、サッカーの試合そのものが見せ場であり、試合を邪魔するものはない。しかし、現実だとサッカーの試合中に雷が落ちて選手が怪我をしたり、テロや暴動が起きて死傷者が出たり、サッカーとは無関係な出来事でサッカーそのものを無効にする事が幾らでもある。現実のほうが未知で不思議で理解不能で多くの事が同時に起こっている。

そういう意味において、ジョジョリオンは戦闘と無関係な事がスタンド能力によって誘導されて焦点を合わせて描写されるからご都合主義に見えるが、ある集団にとって重要な事が、何の因果もなく人類の都合を問わない物理現象が一方的に不可逆に関係するなんて事は幾らでもあり、ジョジョリオンは見事にそれを描いてる。その題材を自覚的に選んで描いてるからこそ、荒木飛呂彦の作品は、登場人物と同様に空間や場所も可能な限り大きく扱われ、その場所や空間の登場人物への影響が突飛であるほど、1周して幸運や不運としか言いようがない人類の不可逆性の限界を思い知る現実そのものが作品になる。

その具体的な描写として、まさか2021年の最新作の最終局面でドニーダーコを持ち出すとは思わず笑ってしまった。

荒木飛呂彦はオカルトを描いてるようでいて、時間、歴史、宇宙、未知との遭遇、と実は古典的SFをやり続けてる。

完全に登場人物の主観で見る構図は荒木飛呂彦史上初じゃなかろうか?

今回は写真加工の背景も少なく、漫画らしい背景と、最終決戦での気合い絵と、そして、荒木飛呂彦がまとめたSF的な人生観、ジョジョリオンなりのまとめ巻だった。