エヴァンゲリオン
エヴァを好きな人は、そのまま庵野秀明に金を払えばいい。提供と消費、それ自体は健全な関係であり、何も言える事は無い。
その上で、自分は個人的にエヴァの面白さがわからない。
無論、美男美女のエロ萌え、エヴァの視覚的な挙動、これらはわかる。趣味であろうとなかろうと、それ自体はわかる。
しかし、初代からして、日本人による日本向けアニメなのにユダヤ教が何の関係があるのかわからなかった。それが欧米コンプレックス的な演出に過ぎないのなら日本の伝統芸だが、そこに意味や考察を求める消費者を全く理解できなかった。未知の言葉に反応してるだけで既知と未知の概念を無視した浅ましい自己陶酔のように見えた。
だから最初は、ユダヤ教を布教目的とした宗教的なアニメなんだとすら考えた。
自分は、エヴァを見て設定そのものをわからなかった点も多かったが、わかったところで無駄だというのは当時から思っていた。考えさせる作品なら、もっと違う媒体や違う説明や違う見せ方があるだろうと考えていたので。
こう言っては何だが、論文的な小説や書籍などでええやんと。
結果的に、エヴァはよく考えられたアニメではあるが、それは消費者のクイズ番組的なものではなく、基本的に用語や設定は無意味であり、提供者と消費者の論点は明らかにずれてるのが、徐々に明らかになった。
今だと、ジョジョリオンがそれに近いと考えている。荒木飛呂彦が身体障害や超常現象を珍しいものじゃない前提として扱い、そもそも常識への疑問や、無視されてる問題を扱ってるのに、戦闘が意味不明とかキャラがダサいとか、その程度で読めなくなる旧来の読者たち。ラスボス戦にいたり、様式に落ち着いて始めて騒ぎ出す読者。
エヴァ自体は当時としては珍しい演出様式なので真逆のようだが、作者(荒木飛呂彦)が扱ってる題材が無視されて描写にのみ言及される、という点で共通した作者の悲しさ。
そういう意味で、自分は庵野秀明に同情的である。彼の自殺願望などは嘘ではないだろう。個人の苦悩と、小さな環境と、明らかな世界の問題、いずれに対しても不満はあっても無力で、それを思い知る日々は、さぞ辛かろう。
個人的には、彼はそれほど政治的宗教的な事に興味がなく言及してるように見えるので、その点は改めるべきだとは思うが。
カウボーイビバップ
前置きが長くなって申し訳ない。
エヴァンゲリオンの3年後。カウボーイビバップが始まり、自分はドはまりした。
この記事は両作品の優劣を語るものではない。ここに書くのは、両作品とも作者(関係者)の大好物闇鍋なのに、前者は病的で自分には刺さらず、後者は健全で自分には刺さった。それは何故なのか?
エヴァが完結し、ビバップのドラマも収録が終わったのを契機に、それをここに書き残すのが意図である。
というか、結論は既に書いた通り、病気か健全か。これである。
エヴァが、作者も消費者も好きなものが共通し盛り上がった割に、結局はその好きなものが人生を好転させていない(ように見える)。自分は当時からそこまでの事を考えていたわけではないが、カウボーイビバップを見た時に考えついた。
カウボーイビバップは、作者が好きなものが羅列され、それって最高だろ?と提示してるだけ。そういう意味で裏は全く無い。だから議論的な盛り上がりが無い。
しかし、作品に賛同すれば、そこから趣味や行動が広がる。例えばエヴァはクラシック、ビバップはジャズをアニメ層に広めた。その功績は等しいが、その後の楽譜などの「消費以外の行動」に結びつく商品が両者にどれだけあっただろう?
実は、模型などの点でエヴァは広がっているから、この論点には無理があるのだが、エヴァで宗教的な知識を持った10年後に、ユダヤ教の延長でイスラエルの問題にまで真面目に考えてる人間がどれだけいるだろうか?とか考えてしまう。
ビバップは、ある意味で最初からそこまで深刻に提示していない。後から味付けを好きに出来るようになっている。両者とも知識や引用の羅列型の作品であるのに、視聴者間での格差や対立などが無く、好きなものを選んでそれぞれに発展させて、それを加算や乗算はしても相殺しあわない。
また、ビバップに自己陶酔はあるが、自意識過剰ではない。世界を描いて、世界の断片として主役がいるに過ぎない。この点ではノーラン映画や荒木飛呂彦にも通じる事で、深刻な問題を病まずに自意識過剰にならず自覚する、という指向が自分には合っていて、エヴァも視覚と聴覚に過剰で様々な羅列があり見せ場も充分なのに自分には理解出来ない点はそれもあるのだろう。
その病的な自己陶酔エヴァが全話放送されて、健全な趣味布教のビバップが放送を打ち切られたという対比も考えると面白い。
エヴァを契機に何かを始めて今はこれを実現してる、という話をする消費者が当時からもっと多かったら、自分の趣味は合わなくともエヴァを素直に肯定していただろう。
自分の周囲には、不毛な知識合戦をしていたエヴァ消費者が目立っていた、という私怨もある。
自分が求めてるのは、人生に影響を与える作品ではなく、人生で行動を変える作品。そういう意味でエヴァは庵野秀明が内向き葛藤であるのは自他ともに認めてるし、自分は半分は自覚、半分は無自覚にそれを感じて刺さらなかった。
ビバップは、聞く音楽の幅、自分が演奏する曲の増加、海外の作品や文化や人種やらの無抵抗な参加、など作品自体が誤解はあっても外向きで行動や交流を恐れていないどころか望んでいる。
議論をする余地が全く無い作品ではあるが、行動に結びつく要素や意図が作品にあったか無かったか、それが内向きか外向きか、それが病的か健全か。
結局のところ、自分は個人の実現には感動や触発されても、増長には興味がなく邪魔だとすら認識している。その結果として、エヴァの断片的な肯定はしても大ヒットを理解できず、だからビバップにはまったのだな、という事を今回を好機に考えついて書いたのがこの記事。
同じ理由で、だから漫画やアニメを消費しなくなった今でも、荒木飛呂彦や岩明均や藤田和日郎を欠かさずに買って読んでいる、という事なのだろう。
以上である。