2021年4月11日日曜日

漫画は絵画ではなく文章に近い

漫画には作家あるいは読者を含む分野における規則がそれなりにあり、記号の秩序だった羅列である。

かつ、時間的な展開(論理)を想定し、その記号と文脈を理解していなければ読めないので、漫画は絵画よりも文章に近い。

以上は1979年の手塚治虫のインタビュウの要約である。

これに対して日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象は以下のような極論を示していた。それが面白かった。

絵画は究極的に描いた当人だけが理解していれば善い。そもそも理解を必要としない。しかし、漫画の場合は、内容が理解不能である事と、読み方が不明である事は別問題で、後者は許されない。それに対して絵画や音楽は手段(作成)そのものが目的となり必ずしも理解を必要としない。

これに関して、何で読んだか忘れてしまったが、ピエール・ブーレーズは更に絵画と音楽を比較して、音楽は様式と比較すると作家が反映されにくいが、絵画は様式だけを模倣しても作家の手癖など無意識の無理解が反映されて否応なく作家(当人)の限界が反映される。その点で、音楽は作家よりも様式が勝り、素材(音階や楽器)の限界が作家や作品の限界に等しく、建築は凍れる音楽は比喩ではなく事実であると。

佐藤大輔のSF小説地球連邦の興亡では、登場人物は科学技術で知識をテレパシ的に共有可能であり、知識量は能力に加味されない。能力とは知識の運用、行動によって評価される。

これは集合知が個人に勝るという話ではない。知識に比例して柔軟に行動が可能であるという事。

一般に知識とは様式を暗記して、様式に従う事にある。新しい様式を求めない。しかし、知識とは既知から未知を作るための素材であり、既知の正解と未知の正解を常に意識して比較する事で発揮される。

その点で、様式に縛られやすい音楽のほうが発見がわかりやすいな、と思った。

新しい様式とは、旧来の様式を壊す事ではない。旧来の様式に不足した事を追加する、あるいは全く置換する事。

漫画に話を戻すと、絵を描かずに吹き出しの位置だけでも成り立つ作業ネームから、慣例で絵を含むそれをネームと言うようになったが、以上の漫画は絵画ではなく文章であるという構造から、概念の根本を知ってか知らずか、絵が無かろうと吹き出しが無かろうとネームというのは正しくその通りなのだな、と感心してしまった。