自分が本を読む目的は知識の獲得。その意味で小説を読む頻度は落ちた。
それでも全く読まないわけではなく、現在量子魔術師と地球連邦の興亡を読んでいる。
そこで気づいた事。
前者量子魔術師は翻訳なのもあり「あいうえお」と言ったが多すぎる。
この問題の初出がいつからか不明だが、話題としてはありふれているくらいに根本的な問題である。
それに対して地球連邦の興亡(佐藤大輔)はと言ったの代替として状況によりと尋ねた、と聞いた、と同意した、と拒んだ等と、言葉の意味と行動の意図を一致させた語彙で処理している。あるいはすかさず続けた「あいうえお」と前後を逆転させて書いてる場合もある。だから読みやすいし読んでいて停滞しない。
思えば、自分が佐藤大輔と並んで京極夏彦を評価しているのも、こういった装飾がそのまま作品の本質に一致していて、大衆娯楽として軽薄な刺激に溢れつつも、こういった情報処理の工夫と対応が作者と読者の両方に求められるからだろう。
地球連邦の興亡を読んでいて面白かったのは、3人以上の会話なのに、台詞の合間に誰が言ったかが全く書かれない。それでいて全く混乱せずに読めるという事。
「こちら半分が完了」
「現在、情報不足により判断不能」
「そうか。人物D、これについてどう思う?」
「はっ。現状ではいたしかたないかと」
「そうだな。では報告を続けよ」
「人物C、現在作業中です」
「わかった。それでは総員、これより作戦開始」
と言った感じで、ここでは5人の登場人物の会話だが、台詞の中で幾らか補完しつつ、誰が言ったと示さずに全く問題なく読める。
もちろん、口調や用語などで登場人物の個人や立場などを区別が可能な設定だから許される文章ではあるだろう。
しかし、それは作者が作品の前提を明確に意図、理解してるからこそ可能なのであり、その点で量子魔術師は内容の是非とは別に、情報処理という観点で不満がある。それが原文からそうなのか、翻訳でそうなのかは知らない。
算数で、1*2と2*1は同じか違うか問題があるが、結果は同じで前提が違うという論理で使い分ける、それが理解というもので、小説にも同じ事が言える。
AI vs. 教科書が読めない子どもたちでは、数学は国語の問題である、と主張しているが、結局のところ言葉も物語も認識しやすい順序、つまり論理を駆使した結果であり、その点では小説も数学も変わらず、丸暗記の定型処理と、原理を理解した上で結果は同じだが展開が違うという能力、あるいは努力の差が出るのだなと。