そばが作り置きされていて、それならつゆと具材だけ自分で軽く準備すればいいやと手早く手配して、いざ鎌倉とそばの蓋をあけたら…
そばじゃなくてごぼうだった時の絶望。
よいお年を。
毎年恒例のニュース記事を見て思いついた事。
日本は災害大国である。10年に1回は大きな避難を要する何かが起きる。地方によっては毎年すら考えられる。
ところで、kutooという社会活動がある。個人的にこれには賛成の立場で、以前から考えていた事がある。
まず、自分はWizardry童貞を本作戦闘の監獄(iOS)に捧げて1箇月程度で、シリーズの常識や本作の前提もまだ探り探り確認してる状態で、現在は2面の終盤と言ったところ。
そんな自分が年末のRTA in Japanを軽く見ながら思いついた事。
Wizardry 戦闘の監獄 RTAレース(数日またぎ)。
結論から書くと、2008年。海皇紀37巻から38巻あたりのマリシーユが登場してから。
川原正敏自身が若かった頃を幼いとは評さない。修羅の門から数えたとして、徐々に作者と作品が成長して、アメリカボクシング編の中盤あたりから少年漫画では持て余す人生観を描くようになった。
個人的には、絵柄と思想のピークは修羅の門(レオン)、修羅の刻(義経)、海皇紀(ソルとの決戦まで)だと考えている。少年漫画なりのかっこつけはあるにせよ、もともと伝統や歴史を題材にしてるので、あくまで数ある中の断片として必死に生きている、という自覚と挑戦の精神年齢が高かったと考えている。
それが、マリシーユ以降、軽口を叩きながら核心を知ってる大人ではなく、ただの自己陶酔ラノベのようになってしまい、修羅の刻も段々と年齢設定とは異なる精神年齢の退行が見られる。どうしてこうなってしまったのだろうか?
特に海皇紀は意図して登場人物の年齢が高め、いずれも成人を前提としているのに、30前後の人物が小学生みたいに振る舞うのが気持ち悪い。川原正敏が疲れてしまったのか、若年読者を得ようとしたのか。わからない。
自分は項羽と劉邦は序盤だけで現在は読んでいない。修羅の刻は半ば惰性で読んでいる。それでも、戦闘と題材と一部の思想には同意するし、その点は今でも素晴らしいと思っている。特に戦闘の間合いの扱いや、少年漫画的な必殺技にそわない玄人的な業(わざ)を見せ場にする感覚と描写。
女が幼いのは、ある意味でしょうがない。男を立てるための脇役として必要悪なのはわかる。しかし、マリシーユ以降、あるいは修羅の門2ndから未熟な女と成熟な男ではなく、未熟な男を無理に立てる幼稚な女、という形になってしまい、自分には耐えられなかった。
マリシーユ初登場前後は、まだ精神年齢を維持していたように思う。ちゃらちゃらしながら真面目な様式としてわかる。舞子の母親の件もそう。
しかし、マリシーユ以降、海皇紀の終盤、そして修羅の門2ndはもう見るに耐えない。命をかけたやりとりの中でくそくだらない冗談や自己陶酔を描かれると、吐き気と失望しかない。
これらの問題が、体力なのか本音なのか諦めなのか、自分にはわからない。彼との付き合いは長く、一時期は生涯の作家とも評価していた。それが思想を徹底するわけでもなく、読者に媚びた上で若者作品ほどに支持を得られていない半端な状態を見てると悲しい。
今の彼には陸奥の初代を描いてほしくない。彼自身の情熱が読者を置いていくくらいの作品を彼が再び描けるようになったら、その時には代表作、あるいは作家の完結として描いてほしいし、読みたいと思う。
彼の再起を願っている。
順不同。基本的にはA-Z。そこから時系列と分野を加味した並び。優劣ではない。
それだけを基準にしたわけではないが、結果としてゲームバランスよりも人物、物語、世界の3大要素よりもビデオゲームに必要な事で書いた操作性(快適性)が作品に直結した類のものばかり。
中には既に充分な評価がされてる作品もあり、逆に好事家や偶然の経験者しか知らない作品もある。
動かすだけで楽しい、動かなくても考えるだけで楽しい。そして作品の発想や経験が作品に限らない影響を与える。自分の評価基準はそこ。
映画や漫画や小説には、以下の分類が一般的である。
これらは基本的に商品の人気や平易に比例していて、上から下に行くほど売り上げが落ちる。
女に売るには女が主役で女に好都合な男。当然ながら男に売るのも同様である。つまり登場人物の性別や、それがどう動くかという物語展開。多くの人間が地球の年齢や環境変化、太陽系の99.9%が太陽で地球なんぞゴミクズに等しく、更に太陽系なんぞ銀河系の塵芥に過ぎない、などと考えずに生きている。その意味で、世界設定なんぞ不要とすら言える。
個人で考えれば、生きてる時間より死んでる時間のほうが長いのだから、どちらを優先するかは自明に思えるが、だからこそ自分のような少数民族は世界設定こそを重視し、例えば欧米に滅ぼされ、または追い詰められた原住民達もまた、世界設定こそを核心として生きてきた。
ところで、ビデオゲームに限れば、この3要素と同等に並び立つ事があると自分は考えている。それはUI操作性。
どれだけ先の3要素が満たされようとも、第4のUI操作性が劣悪だと自分は全くプレイ出来ない。今思えば、ゲームバランスが無茶苦茶でも長く遊べたビデオゲームは、これに優れていた。それは視認性や画面やボタンの配置から読み込み速度まで、様々な要素を含む。
ビデオゲームに限れば、そもそも3要素すら不要なのではないかと思う。行動の内容と結果の反映、これが満たされればビデオゲームとしては名作で、むしろ慣例としての3要素など不要どころか邪魔ですらある。
OverwatchやDooMやケツイ絆地獄やWizardry 戦闘の監獄やObra Dinnやフィンチ家やBeat CopやPlease,Papersを自分が名作だと判断してる理由はそこにある。
これらに3大要素は大きくあるが、それらが操作、プレイヤの判断と行動を増長する事はあっても一切阻害しない。
そもそも映画や小説や漫画に登場人物と物語展開よりも世界設定、人格や自己愛よりも、未知の世界を求めてる消費者として、ビデオゲームにも極端にそこを求めてるのはある。
それにしても、RPGと称しながらプレイヤの判断や行動を無視した強制的な三文芝居が多すぎる分野において、以上のような点を踏まえた作品は乏しい。そもそも、ビデオゲームにおける操作性というのは、多大な経験と実験が必要だからだ。そこまでの情熱とコストをかけられない現実問題がある。
だからこそ、もはやランキングなどに入るのは不可能な過去の作品から、それらを踏まえた現代の作品まで、この記事の論旨を見たした作品を見つけた時に感動がある。自分の知らない人が知らない所で頑張っている事実に希望が持てる。
これまで年に100本は映画を見るような人間だったが、今年に入り10本も見なくなった。自分としてはCGに溢れ、文化や意味や人生の行動に影響するまでの作品は少なくなったので、自分なりの映画まとめとして、また年末らしい企画として今回記事にした。
順不同。かつ無理矢理20本に限定して、同監督や同分野で作品が変わる場合もある。マルホランドドライブや草原の実験やナイトクローラーなども好きだが、無意識にぱっと思いついて、かつ話題にあがらない作品の両立した方針として以下のようになった。
ここ10年くらい考えている事。
1990年代半ばまでインターネットは特権だった。何とか利用出来る人間は、自分で考え調べ、安易に助けを求めようものなら叩かれた。最後のそれは果たして必要なのかという疑問はあって当然だが、利用者には能動や意欲の類が求められた。
現在でも検索するために何を検索すれば良いか聞いてくる人間がいる事に驚く。聞いてる暇があったら検索しろ。下記リンクにも示されるが、動くくらいならやらない、という人間が多すぎる。その癖、他人の時間(資産)だけは食い潰そうというゴミが。
セネカは2000年前に物体としての資産に固執する癖に時間という資産の運用に全く無頓着な人間が多すぎると指摘してるが、2000年前に言われてる事を現代に反映出来ない人間は人類として何を学んで生きてきたのだろうか?
先日カナダの実験で人間は難問に取り組むぐらいなら「肉体的苦痛の方がマシ」と考えていることが判明という事があった。金をもらって条件が全て明らかで不正解だろうと何も罰則が無い能力テストにおいて、最後まで知性を選んだのは1/40に過ぎない。分母が小さいので、これを世界人口や各国人口に採用は出来ないが、これを多く見積もり4倍にしてもようやく1割。
動かずに必要な情報が入手可能なのは快適であり、それに異論は無い。しかし、演繹と帰納は互いに補完しあうものであって、卵しかないから卵焼きを作るのと同等に、卵焼きのために卵を用意するのを何故そこまで拒むのだろうか。
上記リンクにもある通りインターネットはもはやテレビの代替になってしまっている。そもそも、テレビから離れた開拓民が頻繁に使う道具や場所であったものが、餌を待つだけの家畜農場となってしまった。
開拓を望む民族は今インターネットを捨てきれずにどこへ向かってるのだろうか?
資本主義的にも専門的な情報がおおよそインターネットでは入手しづらくなっている。情報に能動や意欲を持つ開拓者が、結局はインターネットを捨てかけて本を選んでる歴史の皮肉。
Googleは2年間ログインが無いアカウントは削除する方針を発表して、それではデジタルデータの不変性や永続性も、物理的な容積やコストに支配されてる倉庫などと変わらないではないかと。
人類は言葉を獲得して実現可能性が広がったが、同時に言語に縛られ、異なる言語を無視したり、程度を間違えて敵対するにまで至った。更に、非言語情報の処理が劣り自身の肉体すら満足に扱えなくなってきている。
猿はある点で人類に劣る。しかし、身体能力において基本的には猿のほうが上であり、その猿に劣る点がありながら、知性、情報の管理すら受動で怠惰で応用力の無い人間に、人類という称号を与えて良いものなのだろうか?
インターネットはいつから受動的で怠惰で軽薄なメディアになったのか?
ブルーライトはそれ自体が有害なのではなく、本来は太陽の時間だけ強く得るものを、太陽が沈んだ夜ですら真昼並に感知する道具や環境が有害だという事。
ブルーライトカット眼鏡を使い始めてから、画面の時間は常用してるが、画面以外の時間にも使ってないと落ち着かない時がある。これはこれで問題ではなかろうか?
選ばれた美女には、ある意味で興味が無い。順位や人種など細かい点を無視してもおおよそ美女が並んでるのもわかる。しかし、それらとは異なる疑問がある。なぜポルノ女優(AV女優)が選ばれないのだろうか?
美女である事に人種も世代も性別も、そして職業も関係ない。選外の女は幾らでもいようが、The Last of US 2のエリーという架空人物すら選んでる割に、明らかに美女という枠とは別の理由で選ばなかった女が多すぎるでのはないか?
枕営業の女はよくても、職業として男と寝るのは駄目で、つまり美女かどうかは職業で決まるのだろうか?
世界の美女Top100と世界の男が寝たい女Top100の差異にも興味がある。それこそPornhubはYoutubeに次ぐ世界2位の動画共有サイトらしいし、そこまで提携して「美女」という枠で貴賎を排除するほうが「美女」に対して誠実ではなかろうか?
荒木飛呂彦や岩明均やクリストファーノーランのような、主流派と折り合いをつけつつ明らかに一般的でない思想を常識として扱える作家を探してる流れで、うめざわしゅんを知った。
ひとまず1冊だけ性格を知るために読んだのがパンティストッキングのような空の下。
彼女は将棋に関する姿勢も知識も真面目で努力を怠らずに生きている。
その一部が評価されて社会的に成功しているが、果たして彼女が幸福なのかは疑問である。
昨日は今年最後の対局だったのですが、負けでした。準備に時間をかけていただけにショックも大きいですが内容が悪すぎて切り替えられました。勝つまで勉強するしかないので来年良い内容の将棋で勝てるように精進します💪
— 山口恵梨子 (@erikoko1012) December 27, 2020
Covid19とドワンゴ将棋離脱を契機に、これまで頑なに拒否してきたYoutubeを開始。
彼女はまばたき頻度やむくみなど、体調の変化がもろに出るので、長時間の仕事や、頻発する仕事で彼女のそれらを見かけるのが自分はつらい。
彼女の美貌と知能の両方が評価されているようで、結局は「かわいい」だけで彼女の頻度を求める消費者は、彼女を助けてるようでいて追い詰めてるという自覚は無いのだろうか?
仕事納めって書いたのですが明日からvs三昧です。しっかり調子とりもどしてきます💪
— 山口恵梨子 (@erikoko1012) December 28, 2020
その結果として、芸能人としての評価や立場はますます向上するが、将棋の競技者としては苦しそうだ。無論、実力勝負の競技なので、彼女の真面目さや努力などが直接成績に反映されるなど甘い事を言っているのではない。
彼女が将棋という分野全体に真面目に取り組んでるのは、消費者の程度を問わずに明らかなのだから、ならば彼女の雑事を軽減させるほうが、山口恵梨子の人生にとって、商品としても両得ではないのか。
彼女自身がこのジレンマをどう認識して折り合ってるのか非常に気になる。100%オフレコで良いから聞いてみたい。
仕事関係で有能な知り合いと久しぶりに会ったら、彼が眼鏡をかけて仕事していて驚いた。それは視力矯正ではなくブルーライトなのだそうだ。安価な画面だと滲んで見えなくなるので、疲労をかねた対策にかけはじめたのだと。
自分もブルーライトは既知で、画面を白黒にしたり色温度で対応してきた。不断は眼鏡をかけてるし、それにブルーライト処理をすると色が変わって見えてしまうし、色が変わらないものは高価なので見送ってきた。
ブルーライト眼鏡自体は既知でも詳細を知らずにいたが、これを契機に軽く調べたら2000円程度で買えるし、今時は常用眼鏡の上から装着可能な設計らしく、それならばと試しに購入した。
ブルーライト自体の障害は個別に異なるし、目的が明確な道具なので、その分野外の日用品としての利鈍を以下に記す。
不満は両方とも、物理的に不可能か、別の商品を買う選択がある。つまり、商品の目的と副次の利便で利点しか無い。
IMAXの3D眼鏡はこれを見習えよと思った。眼鏡の上から装着できて、手で支える必要もなく焦点を合わせられるし、レンズの仕様は別にしてもプラスチック加工品としてのコストは変わらないだろうに。
疲労度に関しては、少なくとも1週間は試さないとわからないだろう。少なくとも使用時間中が全く苦ではないので、その点でも自分には今のところ利益しかない。
いわゆる女から嫌われる女の類。そこまで極端でなくとも、なぜ好きである筈の属性などに嫌悪するのか、逆に願望だけを反映させて批判的である筈なのに好きになれるのか。
男が男のために描いた女は女から見て気持ち悪い。同様に女が女のために描いた男は男から見て気持ち悪い。
その理由の1つに思いついた仮説が記事名。つまり、漫画の登場人物は2種類。作者が考え出したものと、作者が他人として紹介してるもの。
前者は理想像だったり自己愛だったり読者に好かれるためだけ売れるためだけの存在。後者は作者が選択しただけで作者とは無関係に存在した概念や人物などモデルが明確に存在し、その一部を作者が描写したに過ぎない類。
FANZAではなくDMM一般の話。
山田玲司の類は、環境問題は金にならず誰も興味がないから無視される深刻な問題、と言うが、実態は大きく異なる。
無論、実感の無い環境問題は無視されるのは事実だが、環境問題は金に関わらず深刻であり、そして金になる。
そして人類の大半が抱える問題であるのは、無頓着な過剰反応に甘んじる無能が多数派である、という事実。
テレビを見て一過性の売り切れを招く連中の事である。環境問題はダイエットと同じく、その程度の意味で金になるし利用される。何かを過剰に禁止や妨害に走るのも、程度をわきまえない点では同じである。
テレビ所持者がテレビを見る時間は1日2時間から3時間らしい。気晴らしの娯楽を持つのは自由だが、その時間を環境問題の資料を読む時間にすれば、世の中幾分は改善されるのではないかと思うが、テレビに限らず、無目的に反射して消費するのが人類の本性だとしたら、それは無理だろう。少数派ゆえに環境問題論者は過激となり溝は深くなり、それこそ山田玲司のような、環境保護論者から見ても的外れな極論で、自由や多様性を歌いながらコメントを封殺するような自尊心の延長に利用してるような手合いもいるし、何事につけ、真剣に取り組んでる人間だけが被害を受ける皮肉な現実。
傘という道具は面白い。100%実用性だけで完結する道具でありながら、容易に機能美以外の要素も取り込める柔軟さがある。
その中で、実用性のために頑丈さを売りにする傘がある。自分もその類に幾つか手を出して購入した事がある。そして実際に頑丈ではあるが問題もある。
結局のところ、逆風に勝てない。縦帆船のように切り上がれず傘を過信すると簡単に折れる。
傘という枠内で相対的に強いのは間違いないが、風雨を相手にするには絶対的に弱い。そういう意味で頑丈さを売りにしたところでくつがえらない道具として、頑丈さを売りにするのは間違いではないかと思う。
これ自体はアニメやアイドルなどを中心によく語られるし珍しい事では無い。
上記の動画を見て、自分も微笑ましいと思った。しかし、同時にこうも思った。何事にも無警戒で生きられる楽園に住む者は容易に死ぬ。
無論、生きるためだけの浅ましさが犯罪や傲慢を生むので、それを回避するために人類は社会や文化の類を作り出したが、今のところ成功してるとは言い難い。
そして、この手の動画を無邪気に見られる事実が含むおぞましさもまた無視される。
文化や社会の有効性は、無視するのではなく自覚して加減する事ではないのだろうか?
当時バットマンビギンズをノーランがやるのに違和感があった。彼はアメコミには興味ないだろうし、バットマンは売れるのが目的の主流商品で小賢しい新米監督にまかせる意味がわからなかった。世間がダークナイトで浮かれる前に自分はバットマンビギンズをリアルタイムで見て、その疑問を結果でくつがえされて喜んだものだが、ビギンズの時点で喜んでる人間は極少数だった。少なくとも日本に限れば。
MBTIの観点で言えば、INTJノーランが作ったINTJバットマンなんだからダークナイトが最高なのは当然だ。これまでその点で考えた事はなく、ただ自分の価値観と一致した上で、自分では不可能な事を実現した天上の幸福として見ていた。
ノーランを難しいというのは理解できない。彼の実行力を凄い、彼の成功が凄い、自分たちには出来ない、ならわかるが、彼自身の思想や前提や設定は何も難しくない。とこれまで自分は考えていたが、それはたまたま自分が彼と同じ指向だっただけと自覚した。肯定にしろ否定にしろ、この違和感を理解するいい機会だった。
だから世間がテネットを肯定してるのも理解できない。あの作品は構成には相変わらず凝っているが、手持ちカメラが増えてわかりやすいだけで圧倒する映像が少ないし、ノーラン史上もっとも予算だけで実現した凡作で、ノーラン水準で何も温故知新を提示していない。これまでのノーラン作品の総集編に過ぎない。
彼がフィルム会社の倒産を回避するために出資したり、メジャー作品以外の売れないが思想を肯定した作品や作者へ出資してる事など、彼の作品を全て見て、彼の作品として表に出ない活動すら追いかけてる信者または同調者だからこそ、今回のテネットには作品にも評価にも不満である。
ノーランをただの大作監督としてしか認識せずに他の大作監督と何が違うか自分なりに説明もできなければ考えもしない消費者ほどテネットを大絶賛または難しいと言ってるように見える。
アメリカだと、ハウスMDやブレイキングバッドやバットマンやノーランなど、その分野の中心として大ヒットする。しかし、日本ではやはり受け入れがたい指向のようだ。実写映画以外のバットマンファンすら好き嫌いとは別にBATMAN: UNDER THE RED HOODを既知で言及してる人は少ない。順位はどうあれバットマン名作アニメ Top10には安定して入るほどの作品なのに。
そこには長らくDCが商売上で悩んできた、暗くて重い間違いなく現実を反映した浮かれて見られない象徴としての作品、というバットマンがある。
もっとも、バットマン自体は当初は半ばプロパガンダを含んで呑気な子供を誘導して金をいただこうという浅ましい商品であったのだが。
DCに限ればスーパーマンやワンダーウーマンとの対比で段々と暗く重くなるのもわかるし、MBTI同様に単純な象徴としては成功だろう。そういう意味でINTJ自体が資本主義経済の商品として大成功してるのは驚く。と同時に、見せ物として消費する癖に、実在する彼らのような存在と問題をあまりに無視する消費者が多すぎる。
たわむれにINTJ画像を探してみると、以下の画像を見かけた。
目的の左はどうでもよく、右の姉ちゃんがたまらんという事で、これ自体が何かと探したら、マスターズ・オブ・セックスという1960年代にセックス研究してた実話のドラマらしい。
MBTI16分類の女のイメージ図を見たら、15枠は実写の女なのに、INTJだけ絵画だったのを見て笑ってしまった。
その絵が何か気になってトリミングして検索したらウィリアム・ブグローだとわかった。
なるほど写実的でありながらあくまで理想像であり実像ではないと。
自分も何作か数える程度だが漠然と綺麗な絵として何枚か好きだが、こうやって明確に意識すると画集を揃えたくなる。
そこで検索したら、電子書籍ばっか。大きく美しい絵画を小さく目障りな画面でしか見られないという皮肉。
自分は何となく3割くらいかなと考えていた。映画やゲームや映像資料の画面として利用するだけでアンテナは断絶して番組を見ない、見られない人は。自分がそれなので。
しかし、その考えは甘すぎた。各世代1万人に近くてTV所持で番組を見ない人間は1割以下。1日に2時間から3時間程度も費やす価値がTV番組にあるのだろうか?
あると確信しながら見てるなら自由だが、ただの経路依存だとすると、その貧しさは改めたほうが世のため人のためではなかろうか?
行動経済学の基本的な考えとしてincentive(誘因)がある。
簡単に言えば、失敗の損害と成功の獲得を天秤にかけた結果である。そこに厳密な測定はなく印象を根拠とした天秤も含む。
学歴格差を埋めるために、例えば1問正解する度にx円の金をもらえたら成績はあがるのか?というのがincentive(誘因)を扱った問題となる。
大半の男にとって女は最高の報酬である。女と関わらなくとも女を求めてるという点で漫画やアニメが増長しているし、実像も偶像も関係なく強く女を求めているのは事実である。
そこで、金ではなく特定の女とのセックスしか報酬にならない男もいるのではないか? あるいは、それら実験に協力してくれる女がいて、その女と寝るために勉強や実験を参加する男もいるのではないか?
例えば上記画像の彼女の胸元に単語が書かれてたら、その単語だけ異様に長期記憶に残ったとか、あるいは彼女の体に暗記したい単語を書いたら成績があがったなど、性欲と能力の相関因果や、性別を問わない行動経済学などに発想や実験は有効なのではないか?
そして、もし有効なら活用すべきではないか?
当然これには幾つか問題があり、1)裸になる女の同意を得られても、男が裸を見たい女とは限らない。2)真面目に取り組む男が何割なのか? 3)当事者間で同意を得てるにも関わらず部外者が過剰反応するポリコレ。
暗記方法で有名な記憶の宮殿。自分が慣れ親しんだ生活環境を脳内再生して暗記に活用する、運動記憶を意味記憶などに結びつける応用である。また記憶力選手権では突飛な事ほど印象に残るのを利用して、実際に見たい事や見たくない事を想像して暗記に応用している。
自分が書いてるこれ、女の裸教材論も同じ理屈である。別に女の実体を使わなくとも、3Dデータや、女の裸画像に細部に書き込みやすい編集ソフトなど、既存の女裸体や全く別の目的で作成されたデータをそのまま流用も出来る。
一部の人間は、公言せずにこれを既に実行しているだろう。例えば合格したらセックスするといった恋愛関係なども含めて。
しかし、明確な報酬や反応として、女の裸を教材とする商品や論理は見当たらない。ポリコレが許さないからだ。
もしこれが実用化されたら、インセルも軽減されるのではないか? 無論、女蔑視または男蔑視は増長するだろうが、そんなものは無根拠な自己肯定の果てとして、現在絶え間なく実行されているではないか。人種、性別、世代、etc。
自分はVRのAVを見た事が無いが、少なくともこの提案は異性をただ消費するよりかは提供者と消費者の合意がある限りにおいて金銭以外に有益な事が幾らでもあるのだが、残念ながら実現の見通しは無い。
もしも面白そう作ってやるよ金だしてやるよという少数民族がいたら、是非連絡ください。自分も参加したいし、あるいは金になり独占したいと言う人は、是非独自に作成してください。それが便利なら1消費者として有り難く使わせてもらうので。
ジャズと言えば好き嫌いを問わずMiles Davisを知らぬ者はいない。同様に、DAWのEQでfabfilter Q3を知らぬ者もいない、という程かは不明だが、有名であり有益であるEQ。
自分も存在は既知だったが、これまで使う機会がなかった。今年、ついに購入したが、EQこれなくして何も出来ないというくらいの評価を自分はくだした。
そこでfabfilterの色々を漁っていたらFabFilter Merchandiseでシャツや帽子を売っていたので、プラグインを買い足さずに帽子を購入した。
DAWのエフェクトプラグイン企業のロゴ帽子を好き好んでかぶる人間が、世界的にどの程度いるのかわからないが、仮に自分がかぶってる他人を見かけたら思わず声をかけたくなるくらいには面白いな、という事で。
ロゴの印刷は強化シールみたいなもので結構しょぼい。しかし、帽子自体は調節ベルトがプラスチックではなく生地で、固定箇所が金属による圧迫で、作り自体はしっかりしてる。
ただ、一般的な野球帽に比べて浅いので、帽子をかぶりなれてる人程違和感があるかもしれない。
fabfilterの何かを日常的に使ってる信者は、こういうものにも手を出して見てはどうだろうか?
ヤマハ曰く、DTM人口は10万人。サンレコ発行部数が15万らしいので、多く見積もって20万人だとしても日本人口の1%にも満たない民族である。そのアイコンの1つとしてこういう遊びがあるのは愉快ではなかろうか?
自分は現代人に例を漏れず画面依存的な生活をしているのを自覚しているので、仕事や作業で画面を見る時間を減らせないなりに、画面を白黒にしたり色々と工夫している。
そして、画面の明るさや色などが刺激になるのなら、職場や自宅や移動手段の明るさや色の照明も有益または有害なのでは、という論理から夕方以降は昼白色をやめて暖色だけにするようになった。
その結果、明確な数値は出せないが、自分に限れば画面を見てる時と見てない時の切り替えがしやすく、いたずらに画面を見続ける時間は減った。
それにより疲労も軽減され脳の妙な興奮も停滞しているようで、画面を見ない作業もしやすくなった。
疲労の原因は1つに断定出来ないだろう。例えば椅子やマウスや液晶や姿勢や食事など様々な結果が疲労なので。そういう意味で、何となく使ってる自宅や職場の照明は、複数の要素と等しく扱われるべきだし、大小を問わず影響は必ずある。
こういった問題を改善したくて道具を買ったり環境を変えたりする人は、照明も何となくではなく意図した要素として取り組んでみてはどうか?
INTJは人間関係には無頓着で知識欲はある。
それを極端に肯定した上で、恋愛や友人などに応用できないか?
また16分類という点で日本では最小民族らしいので、その交流を冗談混じりに活用出来ないか?
そして、男では珍しく見えないタイプだが、それだけに該当する女の困難を関係、観測する方法は無いだろうか?
そこで考えたのがINTJ合コンである。
例えば好きなアイドルや同じ職業のオフ会、恋愛以外を目的としながら恋愛を禁じない交流会は幾らでもある。それを応用して1時間後には記憶していない軽薄な雑談をせずに済む、門外漢だろうと興味を持てる話が、あるいは出来るのではないか?
例えば、自分は女のネイルアートを心底馬鹿らしく汚らわしいと考えている。しかし、ネイルアートに必要な素材や加工技術や知識や苦労や挑戦を話せる人からの経験談や歴史や思想を聞かせてもらえるのならば、喜んで聞かせて貰う。
単純に、少なくとも自分の周囲には自分と同じ対象を長く深く考えて取り組む人間がいなくて、それでいて長く多く関係を求めてくるわずらわしい人間に溢れていて、ある傾向の同族から経済的にも社会的にも色々と学べたら良いな、という自分の願望を含んだ企画である。
アルファになれるINTJが誰か実現してくれないだろうか。あるいは、幾つかの賛同や参加が確定したら、コロナが落ち着いたら自分で実現してみたい思う。
加重布団の先駆者として知った自閉症のテンプル・グランディン。
彼女に関する本を幾つか読んでみたが、我、自閉症に生まれての彼女の母親の件が1番強烈だった。
19歳で彼女を生んで、自閉症とわかった後に捨てず虐待もせず、そして天使だとか過剰反応もせずに専門家の助言を求めながら専門家に依存せず彼女を育て切った知能と覚悟と行動。
荒木飛呂彦が描きそうなキャラだが、現実の人間である。
彼女の著書には母親の日記が引用されているが、20年前から続けてる日記があり、そしてそれが著書の段階まで残ってた、残してた事。
以下は引用ではなく読んだ自分の要約であるが母親は彼女をこう評してる。
朝昼は元気で子供らしくわがままな事があるにせよ、それは子供として当然で愛らしい。しかし、何かの契機や夜に疲れてくると、もはやテンプルなりの価値観とは別の無分別な癇癪となり手に負えない。両者の結果は同じでも意味が違う。そして、前者でテンプル自身が悪いと思った事は、テンプル自身なりに反省して、例えばモノを壊したりこぼしたら自分から掃除をする。つまり、テンプルなりの倫理観や社会性はちゃんとあり、その上で自閉症だと問題の頻度が高いからテンプル自身も母親も手に負えない事ばかり。
上記のような観察と分析を、自閉症とは別に単純に19歳で初めての子育て最中に考えられる能力の高さと、それを書き残して成人後に自立し社会的にも成功をおさめた娘に見せられるまで日記を残し続け最後までやりきった人生。
テンプルは母親を中心に自分を助けてくれた人物に正真正銘の感謝を示しているが、実際にこの母親の偉大さは、ある意味で彼女に勝ると思う。
最近になって今更アルジャーノンに花束をを読んだ。この中の主役の母親こそが現実には典型ではないかと思う。ある時期までは子供を過大評価して、ある時期から過小評価して、結局は疲労して見捨てる、あるいは自殺する。この小説の場合には、知的障害者からの無邪気な性的虐待も匂わせていて、その点で母親の反応も幾らか正当性を持っている、ただの母親の児童虐待と描いていないところにも配慮がある。
小説のほうが現実的で、現実のほうが奇跡的である理不尽。そして、この母親という1役の内訳を国や人類単位で応用出来ていない現実。
テンプル・グランディンは自閉症の全員が素晴らしい才能を持ってると願望だけの主張をしているが、つまり環境さえ良ければ万人が活躍できるという事で、これには同意するが、それにしてもこれは行き過ぎで、結局のところ幸福であるかは確率的な幸運に過ぎず、その点で彼女は母親において幸運だった。問題はその母親が幸運であったのかどうか。そして、幸運とは無関係に幸福を獲得できるものなのだろうか?
自分はディザリングを誤解していた。
上記リンクにある通り、四捨五入や小数点切り捨て幅を段階的に調整する処理は既知だったが、そもそも根本的に0と1だけで全てを表現する延長に過ぎないとは。
まさしくデジタルそのもの。
題名が全て。
マスタリングのソフトは任意でPeak(Ceiling)を変更するものもあれば、強制で-0.1dBから-0.5dBくらいまでさげるものがある。
これはディザリングの際に誤差からくるデータの破損や事故を防ぐため。
マスタリング前にしろ後にしろ、エクスポート(バウンス)する際には常に-0.3dB程度をさげるのを常識と習慣にしておくと、事故は起こりにくくなる。
また、これらの処理をやってもクリップする場合には、マスタリングソフト(エフェクト)の入力を下げて出力をあげれば、たいがいは対処可能。
16分類自体は有名で、自分もかつて気軽に試した事があった。
その時の結果は記憶していないが、今回は自分がよくやる悪魔の代弁者の無理解に関する事を調べてたら行き着いて、改めて真面目にやってみた結果がintj型の性格。
16分類なので平均6.25%。つまり多数派はそれ超過で少数派はそれ未満となる。
分母が不明なので分布を書いてる記事にもばらつきがあるが、自分(建築家)は世界で2%程度。そして日本に限れば最少の1.9%らしい(日本のMBTI分布)。
唯一2%を切ってる集団である。
平均を下回ってる分類は6枠。平均以上と平均未満というおおまかな分類で、少数派の中の少数派。
どおりで生きづらいわけだ。同系統の論理系をあわせても25%。極論を言えば自分以外の75%(3/4)は馬鹿(に見える)なのだ。
特に、行動や能力や結果が重要なのであって、それを実現するなら自分自身も手駒の1つに過ぎず、ABテストのAを提示してるに過ぎない、という考えで示してるものが、それが性格だとか印象だとか好き嫌い、あるいは自己保身が最上にある軽薄で貧しい人人に邪魔されてる、という感覚がある。
自分のようなタイプの欠点として傲慢や人間関係の軽視があげられ、それはその通りだろう。異論は無い。
にしても、自分が少数派の日本という国の中で、更に最少の民族だとわかって、ある意味では納得はした。
また、代表者にクリストファーノーランがいて、自分がなぜ彼を心酔してたのかもわかった。
これまでも自分の主観を中心に世界を描いてるが、それは世界の断片に過ぎないという自覚のもと、という評価を彼にくだしてきたが、それはまさしく自分も手駒や手札の1つに過ぎないINTJ 建築家 型の性格だからだ。
残念ながら自分は彼ほどの社会的や経済的な成功をおさめていないが、Googleがなぜ自分を大学院卒で高収入とガバガバに誤解したのかもわかった。
最少と希少は異なる。1.8%である事に価値があるかどうかは判断出来ない。
残念ながら自分は希少ではなく最少の部類のようだが、世界の98%、あるいは非論理系の75%が自分について来られないという傾向や意味は、自分の立場を自覚するには有効だろう。
特に同調圧力や盲信を常とする日本においては。