映画や漫画や小説には、以下の分類が一般的である。
- 登場人物
- 物語展開
- 世界設定
これらは基本的に商品の人気や平易に比例していて、上から下に行くほど売り上げが落ちる。
女に売るには女が主役で女に好都合な男。当然ながら男に売るのも同様である。つまり登場人物の性別や、それがどう動くかという物語展開。多くの人間が地球の年齢や環境変化、太陽系の99.9%が太陽で地球なんぞゴミクズに等しく、更に太陽系なんぞ銀河系の塵芥に過ぎない、などと考えずに生きている。その意味で、世界設定なんぞ不要とすら言える。
個人で考えれば、生きてる時間より死んでる時間のほうが長いのだから、どちらを優先するかは自明に思えるが、だからこそ自分のような少数民族は世界設定こそを重視し、例えば欧米に滅ぼされ、または追い詰められた原住民達もまた、世界設定こそを核心として生きてきた。
ところで、ビデオゲームに限れば、この3要素と同等に並び立つ事があると自分は考えている。それはUI操作性。
どれだけ先の3要素が満たされようとも、第4のUI操作性が劣悪だと自分は全くプレイ出来ない。今思えば、ゲームバランスが無茶苦茶でも長く遊べたビデオゲームは、これに優れていた。それは視認性や画面やボタンの配置から読み込み速度まで、様々な要素を含む。
ビデオゲームに限れば、そもそも3要素すら不要なのではないかと思う。行動の内容と結果の反映、これが満たされればビデオゲームとしては名作で、むしろ慣例としての3要素など不要どころか邪魔ですらある。
OverwatchやDooMやケツイ絆地獄やWizardry 戦闘の監獄やObra Dinnやフィンチ家やBeat CopやPlease,Papersを自分が名作だと判断してる理由はそこにある。
これらに3大要素は大きくあるが、それらが操作、プレイヤの判断と行動を増長する事はあっても一切阻害しない。
そもそも映画や小説や漫画に登場人物と物語展開よりも世界設定、人格や自己愛よりも、未知の世界を求めてる消費者として、ビデオゲームにも極端にそこを求めてるのはある。
それにしても、RPGと称しながらプレイヤの判断や行動を無視した強制的な三文芝居が多すぎる分野において、以上のような点を踏まえた作品は乏しい。そもそも、ビデオゲームにおける操作性というのは、多大な経験と実験が必要だからだ。そこまでの情熱とコストをかけられない現実問題がある。
だからこそ、もはやランキングなどに入るのは不可能な過去の作品から、それらを踏まえた現代の作品まで、この記事の論旨を見たした作品を見つけた時に感動がある。自分の知らない人が知らない所で頑張っている事実に希望が持てる。