2020年12月30日水曜日

インターネットはいつから受動的で怠惰で軽薄なメディアになったのか?

ここ10年くらい考えている事。

1990年代半ばまでインターネットは特権だった。何とか利用出来る人間は、自分で考え調べ、安易に助けを求めようものなら叩かれた。最後のそれは果たして必要なのかという疑問はあって当然だが、利用者には能動や意欲の類が求められた。

現在でも検索するために何を検索すれば良いか聞いてくる人間がいる事に驚く。聞いてる暇があったら検索しろ。下記リンクにも示されるが、動くくらいならやらない、という人間が多すぎる。その癖、他人の時間(資産)だけは食い潰そうというゴミが。

セネカは2000年前に物体としての資産に固執する癖に時間という資産の運用に全く無頓着な人間が多すぎると指摘してるが、2000年前に言われてる事を現代に反映出来ない人間は人類として何を学んで生きてきたのだろうか?

先日カナダの実験で人間は難問に取り組むぐらいなら「肉体的苦痛の方がマシ」と考えていることが判明という事があった。金をもらって条件が全て明らかで不正解だろうと何も罰則が無い能力テストにおいて、最後まで知性を選んだのは1/40に過ぎない。分母が小さいので、これを世界人口や各国人口に採用は出来ないが、これを多く見積もり4倍にしてもようやく1割。

動かずに必要な情報が入手可能なのは快適であり、それに異論は無い。しかし、演繹と帰納は互いに補完しあうものであって、卵しかないから卵焼きを作るのと同等に、卵焼きのために卵を用意するのを何故そこまで拒むのだろうか。

上記リンクにもある通りインターネットはもはやテレビの代替になってしまっている。そもそも、テレビから離れた開拓民が頻繁に使う道具や場所であったものが、餌を待つだけの家畜農場となってしまった。

開拓を望む民族は今インターネットを捨てきれずにどこへ向かってるのだろうか?

資本主義的にも専門的な情報がおおよそインターネットでは入手しづらくなっている。情報に能動や意欲を持つ開拓者が、結局はインターネットを捨てかけて本を選んでる歴史の皮肉。

Googleは2年間ログインが無いアカウントは削除する方針を発表して、それではデジタルデータの不変性や永続性も、物理的な容積やコストに支配されてる倉庫などと変わらないではないかと。

人類は言葉を獲得して実現可能性が広がったが、同時に言語に縛られ、異なる言語を無視したり、程度を間違えて敵対するにまで至った。更に、非言語情報の処理が劣り自身の肉体すら満足に扱えなくなってきている。

猿はある点で人類に劣る。しかし、身体能力において基本的には猿のほうが上であり、その猿に劣る点がありながら、知性、情報の管理すら受動で怠惰で応用力の無い人間に、人類という称号を与えて良いものなのだろうか?

インターネットはいつから受動的で怠惰で軽薄なメディアになったのか?