2020年12月22日火曜日

自閉症テンプル・グランディンの母親の日記から何を学べるか

加重布団の先駆者として知った自閉症のテンプル・グランディン。

彼女に関する本を幾つか読んでみたが、我、自閉症に生まれての彼女の母親の件が1番強烈だった。

19歳で彼女を生んで、自閉症とわかった後に捨てず虐待もせず、そして天使だとか過剰反応もせずに専門家の助言を求めながら専門家に依存せず彼女を育て切った知能と覚悟と行動。

荒木飛呂彦が描きそうなキャラだが、現実の人間である。

彼女の著書には母親の日記が引用されているが、20年前から続けてる日記があり、そしてそれが著書の段階まで残ってた、残してた事。

以下は引用ではなく読んだ自分の要約であるが母親は彼女をこう評してる。

朝昼は元気で子供らしくわがままな事があるにせよ、それは子供として当然で愛らしい。しかし、何かの契機や夜に疲れてくると、もはやテンプルなりの価値観とは別の無分別な癇癪となり手に負えない。両者の結果は同じでも意味が違う。そして、前者でテンプル自身が悪いと思った事は、テンプル自身なりに反省して、例えばモノを壊したりこぼしたら自分から掃除をする。つまり、テンプルなりの倫理観や社会性はちゃんとあり、その上で自閉症だと問題の頻度が高いからテンプル自身も母親も手に負えない事ばかり。

上記のような観察と分析を、自閉症とは別に単純に19歳で初めての子育て最中に考えられる能力の高さと、それを書き残して成人後に自立し社会的にも成功をおさめた娘に見せられるまで日記を残し続け最後までやりきった人生。

テンプルは母親を中心に自分を助けてくれた人物に正真正銘の感謝を示しているが、実際にこの母親の偉大さは、ある意味で彼女に勝ると思う。

最近になって今更アルジャーノンに花束をを読んだ。この中の主役の母親こそが現実には典型ではないかと思う。ある時期までは子供を過大評価して、ある時期から過小評価して、結局は疲労して見捨てる、あるいは自殺する。この小説の場合には、知的障害者からの無邪気な性的虐待も匂わせていて、その点で母親の反応も幾らか正当性を持っている、ただの母親の児童虐待と描いていないところにも配慮がある。

小説のほうが現実的で、現実のほうが奇跡的である理不尽。そして、この母親という1役の内訳を国や人類単位で応用出来ていない現実。

テンプル・グランディンは自閉症の全員が素晴らしい才能を持ってると願望だけの主張をしているが、つまり環境さえ良ければ万人が活躍できるという事で、これには同意するが、それにしてもこれは行き過ぎで、結局のところ幸福であるかは確率的な幸運に過ぎず、その点で彼女は母親において幸運だった。問題はその母親が幸運であったのかどうか。そして、幸運とは無関係に幸福を獲得できるものなのだろうか?