2015年1月30日金曜日

氷上恭子(CV:堀江由衣)


トップページでは氷川恭子で、個別紹介では氷上恭子と書いてある。


2015年1月28日水曜日

【バットマン】アーカムシリーズの設定画集「The Art of Rocksteady's Batman: Arkham Asylum, Arkham City & Arkham Knight」9月に発売延期

お客様にご予約いただいている以下の商品の発売日が変更されたため、お届け予定日を変更いたしましたのでお知らせいたします。
The Art of Rocksteady's Batman: Arkham Asylum, Arkham City & Arkham Knight
お届け予定日: 2015-09-17 - 2015-09-26

2015年1月22日木曜日

「アパルーサの決闘」地味だけど1カットを大事にした良い映画

アパルーサの決闘
エド・ハリスはミスリードだったのね。
冒頭の独白で気づけよ、という話だが。

西部劇と言うにはあまりに銃撃戦が淡白だが、銃に対する無防備な時代の命がやすい殺し合い、にふさわしい演出だった。
エド・ハリスが自分を売るために撃つ場面のあっさり肩越しの構図、相棒の最終決戦の1カット数秒で終わる決着、良い。
にしても兄弟との撃ちあいは本当にあれで良かったのだろうか?w
男2人の性格難は無くても充分に魅力的だと思うのだけど。
エドハリスは、性格じゃなくあくまで選択としてああなった、だけのほうが2人の関係に深みが増したのではないか?
個人的には、冒頭と結末の独白が無いほうが、もっと地味で、しまって良かったと思う。
映画のヒロインというには愛嬌の無いビッチ。
極東学園天国のように信念のビッチは好きだが、本作じゃ意図したものだろうが保身のためのビッチ。
せめてレニー・ゼルヴィガじゃなくRachel Weiszだったら…。
作中でハノンを弾いていたが箇所箇所で音を外していたのは本人が現場で弾いた音だからだろうか?

何となく地味でハードボイルドな映画を探してたら見つけたのだが、まさしくだったので良かった。
細かいところで自分に好みとは違うから心の名作までには至らなかったが。
ダニエル・クレイグとレイチェル・ワイズ夫婦でこういう映画をやれば良いのに。
ライアン・ゴズリングが好きそうな映画とも思った。

2015年1月18日日曜日

ヴィッキー・ベイル「ホットトイズより、ずっとたかい!!」

熱いギミック満載のティム・バートン版「バットモービル」のモデルカー

【山賊の娘ローニャ】ジブリやディズニーから踏み出した「子供を殺す山賊」

アニメで盗賊だ山賊だ海賊だをやると、ワンピース天空の城ラピュタアララ少年山賊団になってしまう。
ローニャもディズニやジブリと同じく、あくまで自由に動ける設定のための賊に過ぎなかったが、ここにきて、山賊にふさわしい暴力性を見せた。
女子供に容赦ない、初期のベルセルクヒストリエほど具体的な描写はないが、必要もない。
有効であれば子供を殺す。
最近の、絵だけは奇麗に見事に動くが、動きを見せるだけの全く無意味な戦闘のアニメよりも、状況がある。
もちろん、殺さない、死なないのは作品からしてわかっているのだが、登場人物において重要な暴力と展開であるので問題ない。
描写に差があるが、うしおととらの鏢を思い出した。

【からかい上手の高木さん】まともな女を描くには男がとことん幼稚でなければならないのか?

こういった萌え作品の中で女を赤面させないのが良い。
自明の好意が前提なのに、1巻の最後で高木の本音を明文化したのが台無し。
これが子供むけの限界か。
PS版DQ4が勇者の最後を特別なキャラグラフィックで演出したのに、FCと同じく全員集合で台無しみたいな。
いまいち、どの層を狙っているのか、わからない。

本作は男が幼稚だから成り立つが、かぐや姫の物語でも思ったが、まともな女を描くには、男がとことん幼稚でなければならないのだろうか?
どこまでも女の表情を引き出すのに必要なしょうもない男ということか。
萌え作品が他愛ないことで男がドヤって、それに過剰反応する幼稚な女であるのと同じで、どちらもまっとうには描けないのだろうか?

6月に「バットマン アーカムシリーズ」の設定画集「The Art of Rocksteady's Batman: Arkham Asylum, Arkham City & Arkham Knight」発売

The Art of Rocksteady's Batman: Arkham Asylum, Arkham City & Arkham Knight

2015年1月14日水曜日

【茅野愛衣】写真集「LETTERS」女の表情を引き出すのに必要な「どうしようもない男」

茅野愛衣「LETTERS」

判型がB5で小さく、印刷の質のせいかノイズや輪郭が曖昧だったりと残念だが、日常的な砕けと、着飾ったドヤと両方あって、同じ場所と同じ服装だが表情や陰影が違うなど幅もあり、良い写真集だった。

茅野愛衣の写真集で残念だったのは、こういう表情が無かった。

恋愛とは無関係に、女の表情を出すには男のしょうもなさを見せる必要があると思う。花澤香菜が人気がありながら写真じゃ駄目なのは、そういう理由。呆れさせる誰かがいないと。

彼女いない童貞に女性下着を売りつけるハイレゾ商法

ニール・ヤングの超高音質音楽プレーヤーPono発売! でも本当に買う価値あるの?

売るのも買うのも自由だが、携帯という時点でハイレゾの恩恵は知れていると思う。
音は耳で聞くが、耳だけで感じてるわけじゃない。
低音の振動は文字通り胸に響くし、情報量が増えただけ、携帯とヘッドフォンで聞くほうが相対的に損をしている。
素晴らしい風景というのは、見た目だけじゃなく、足と大地の感覚、肌にふれる微風、木々の臭いなど視覚以外の情報があるのに、視野に入りきらない大画面だから映像だけ見て風景を感じているとは言えない。

【ハイレゾの抱える幾つかの問題】

24bit以上の音は、小さく細かい音を活かせるのだが、ビットレートを問わず0dBFS(最大音量)の体感音量は変わらないので、小さい音に配慮したハイレゾが相対的に小さく、あるいは実際に数値(RMS)でも小さくなり、音が大きい16bit以下のほうが消費者に「良い」と感じられる。
これは、色や形など情報量が減っているはずのアニメが実写よりも奇麗と感じるのに似ている。

また、ハイレゾの前に、ミックス(マスタリング)がなってない曲が多すぎる。
ハイレゾはあくまで大きい受け皿で、のってる料理の素材と調理が粗悪なら、食べても健康を害するだけ。
量が少ないぶん(圧縮しただけ)まし(音が濁るぶん派手に聞こえる)な場合もある。
ハイレゾだろうが不可逆圧縮だろうが、やるべき事、おさえるべき点はそれほど変わらず、高級な皿にカップラーメンを盛るのやめる事から始めないといけない。

個人的には、ハイレゾは人類の健康と能力に関する重要な問題で、民間企業が孤軍奮闘するんじゃなく、無理なく浸透させるべき教育と経済の国際的インフラ死活問題だと思うが、消費者も文化人も所詮は娯楽としか認識していない。
音楽じゃなく聴覚の問題と認識すべきなのに。

今のハイレゾ商法は、彼女いない童貞に女性下着を売りつけてるようなもの。
まずは無理なくカップルを増やし、そして童貞の数を減らす。
この根本的な解決を、ハイレゾを作って売る民間企業以外の消費者や政治を含む文化全体で取り組まないと無意味だと思う。

【修羅の門 第弐門】が面白くなってきたのに面白く無い理由

修羅の門 第弐門がひと区切りついたので、自分が何故この作品を好きで、今また面白くなってきたのに面白くないと感じたかを書く。

4部にあって、今にないのは、陸奥九十九の必死さ

そのわかりやすい対比が以下の画像。前者が今の四門で、後者が4部の四門。

4部であっても読者に向けた格好つけたニヤリはあるが、読者に向けた演出と、作中の登場人物の深刻さは別で、作中と作外の演出と意味を区別または両立をしていた。今はその区別がなく、表情が少年漫画の読者にむけた格好つけのみ。

作中で「ゼロから」と言ってるが、性格が変わるわけではないと思うのだが。山田との会話も、笑ってながせる、興味はないが無視しない、誰の態度も自分にとって無価値だが誰の行動も自由ゆえに笑ってながせる、それが陸奥だったのだが、いちいち表情を変えて反応する幼稚さ。

4部の九十九は、前作主人公的な良さがあり、読者にとって目的は明確だが本音はわからない、読者の1人称的な距離感があり、それは、1部から段階をへて得られた前提の共有と作家の成熟により成り立っていたことだろうが、今の九十九は説明しすぎる。

読者にむけて説明する演出は幾らでもあるが、特に4部では九十九にだけはそれをさせずに九十九について他者が語る、という演出だった。

それをやめたのが九十九という個人を描くためなのか、川原正敏が新読者にむけ、かつ衰えて描けなくなったのか、わからない。九十九の表情変化は人生が不明確になったがゆえの甘えとも言えるが、記憶が戻ってから羽入をジト目で見たり、作者があまりに読者に理解を求めていると思う。

少年漫画だから当然なのだが、4部の陸奥にはハードボイルドと言えるキャラの確信と、読者との距離があった。舞子も連載再開時はちゃんと時間経過を感じるまともな女だったのに、すっかりいつもの川原ヒロインになってしまってる。

小島秀夫のMGSが段々と軽く幼くなってきたのも同じ理由だと思っている。若い時に上を目指し突き進んでいたのが、今は若者の感覚がわからないゆえに若者に過剰反応してる、旧世代として利鈍を見せれば良いのに、若者に好かれたがっている。

キャラの確信という点で、陸奥のやる気ない理由は感心した。負けたがっているのではなく、記憶が無いから自覚できる結果を求めてたという。

しかし、九十九は前田に負けてた場合に、どうするつもりだったのだろうか。これが、多くの少年漫画であれば、負けられる。負けて強くなり次で勝つ、という逆転を演出できるが、修羅の門の問題は負けられない

この作品が他の少年漫画であれば、九十九は前作主人公で、姜子牙が修羅を継いでもおかしくない。陸奥という縛りなく強い者が主題なら、そういう世代交代のほうが劇的だし、成り立つ。

姜子牙は北斗の再来であり、そして九十九こそが北斗の立場で姜子牙が飛び立つ、というほうが自然ですらあると思う。それが出来ない、メタな苦しみ。

作中の戦闘状況はとても良い。純粋な格闘技ではなく、海皇紀の流れも活かした、戦場的な戦術。

武器あり、複数人戦。もはや、やる事ないと思っていたが、新しく格闘技うんぬんをやるんじゃなく、あくまで未消化だった設定をやりきって終わるようで、安心して読めているのもたしか。

それにしても、15巻でようやく旧10巻(北斗)と同じ区切りとは、また30巻くらいかかるのだろうか…。絵柄の変化はともかく、確信を取り戻したのだから、読者を拒まず、読者には理解できない陸奥に戻ってきてほしい。

2015年1月12日月曜日

長谷川栞たいしたもんだ

たいしたものだ。
この女えらい。
キスを始めるのは男だが、ある距離まで近づくと待たずに自分から顎をあげてしてくる。また手をまわしてくる。
手はシーツや枕など、あるいは男の腕や足を掴むなど、常に何かを相手にしている。
過剰に喘いだり気持ちいいと言うだけで、足はだらだら、手はぶらぶら、の本意が丸見えのしょうもない女と違う。
当然ながら、男の要求に応じてるだけなのだが、意図した過剰反応をせずに、1つ1つの小さな挙動によって、受けるだけじゃなく女もちゃんと求めてる、女に求められている、と思わせるように動いている。
本意がどうであれ、AVよりちゃんとしてる映画のセックスと同じく男にとっての都合でありながら「関係」を感じさせる、たいしたものだ。

誰かHZ01とHollywood Orchestral Percussionの比較記事を頼む

管弦楽の音源で有名なEastWestがパーカッションの音源を発売する。
こういうのって単体で使うものでもないから無意味だが、誰かHZ01と比較した詳細な記事なり動画なりあげてくれないだろうか。

「エクストラ・マジック・アワー」がこもって酷いのだがミキサとマスタリングは誰だ?

気まぐれにitunesで配信されているエクストラ・マジック・アワーを試聴したのだが、頭からこもって聞こえて驚いた。

もともとAkinoの声はざらついて気をつけないと耳障りになり扱いが難しい歌手だと思うのだけど、TVなどで聞いたときは「やっちまったな」くらいに感じていたのだけれど、試しに250円で買って聞いたが、やはり同じくこもっていた。つまり、配信とCDの格差なのか、それともCDも同じくこもっているのか。

スペアナで確認していないが、6khz以上の高次倍音が無いような感じ。ミキサとマスタリングが誰か知りたい。配信には冊子pdfが無く、わからない。いい加減、このpdfがつかないクソ仕様も改めろよ。これでマスタリングが川崎洋だったら笑うのだが(基本的に彼の仕事が肯定的なだけに)。

【アレクサンドリア(AGORA)】レイチェル・ワイズの女神っぷり。女の存在価値。

アレクサンドリア
原題はAGORA。
作中では広場と訳されていた。

ファイル:Alfred Seifert Hypatia.jpg

レイチェル・ワイズの女神感が相変わらずやばい。
彼女は言動のまともさや脱ぐのが売りじゃないが脱ぐのをためらわないわりに、代表的な作品というものが無いように思う。
極端に軽いしょうもない映画か、文芸的だが1属性の増長にすぎない作品ばかりの印象だったが、ようやく代表作と言えるものが出来たと思うが、この作品は商業的にふるわず、ならば世間的に彼女の代表作は何なのだろうか?

手持ちカメラもそれなりに駆使されてるのに見づらいと思う場面が1つもなかった。
とにかく、背景、風景を大事にしていた。
CGを極力避けて、集団の動向や場面転換の遠景が作品の迫力と意味を成り立たせている。
図書館で飛び交う書物のCGには笑ってしまったけれども。

ユダヤ教やキリスト教など特定の宗教を正当にしていなかったので見やすかった。
自身の属する宗教の利点ではなく、以外の宗教の弱点をついて盛り上がってるのは、ニコニコ動画をつまらなくした動画じゃなく投稿者に執着したコメントのようだった。
当時は場合によって生死が決まるもので、ニコニコは何の損害もなく自尊心のみを押し通せる、という点で決定的に異なるが、そんなくだらない事を考えた。

ヒュパティアに捧げる曲が短調で笑った。
バグパイプや笙と共通するリード楽器で、2本をくわえ、長い1本はずっと同じ音(ルート)で短い1本でメロを吹く。
パンフルート的でもあったが、この時代の音楽を再現できるほどの記録が残っているのだろうか?
アジアの音楽はヨーロッパに比べて不協和音的な短調が主だが、この曲が何を根拠にこうしたのか興味がある。
告った男は思ったよりもおいしく格好いい男だった。
司教の友人に論破されて泣いたところは理解できない。
描写よりも信者であった、ということなのだろうか。
月経のハンカチに笑った。
時代的で文学的だが、ホーンブロワー3のおばちゃんと言い40歳の女に求める貞操観念が謎だ。

そもそも、ヒュパティアの歴史的貢献がどの程度事実なのか映画ではわからなかった。
作品の最後で彼女の著書は残っていない、みたいな説明文があったが、ならば彼女の意味は何なのか?
太陽系の楕円に関する何かが残っていたのか、それとも「女なのに残ってる」以外の偉大な理由が欲しかったのか。
映画としての配慮か、言うほどに女の不利、消費される女じゃない。
社会的な後ろ盾がある設定だが、300の嫁のように権威があろうと、ウォッチメンの初代シルクスペクターのように能力があればこそ、ドッグヴィルのように美女は常に、魔女狩りの如く、あるいは今の日本アニメがそうあるように、男にとって女の価値は女の身体でしかない。
ホーンブロワーのフランス革命の話も状況の凄惨は描いても消費される女はいない。
描写の程度はどうあれ、ヒストリエベルセルクのように理不尽な女の被害は必要だと思うのだが。
同時に借りたアポカリプトも連れ出されるだけ。
強姦されて叫んでいた嫁が途中で叫ぶのをやめて抵抗をやめたのなら死後の魂はろくなことにならん、みたいな台詞を男が言うが、これはマヤの宗教観なのだろうか?
何を根拠に作品で言わせたのか気になる。
全く無茶苦茶だ。
強姦なのに感じて喘ぐエロ漫画と同じ発想で酷い。

その点で、キリスト信者は信者であった。
彼女を、ただ殺した。
侮辱のために裸にしたが、殺すだけ。
映画では石を投げ打たれていたがwikipedia貝で肌をえぐられていたようだが、意図した変更なのか。

宗教が、ある場所における集団の知識体系および自己陶酔なのだから、異なる生活環境に宗教の有効性を見出そう、思い知らせようなんて無理で、かつ男による体系なのだから、宗教の隆盛が行き着く先は似たり寄ったりと思うのだが、故に衰えず、今も続いてる。

本作における彼女の態度には魅せられるが、知識人の功績が不明かつ作中で過剰なので、どうも彼女の真摯な場面こそが浮いて見えてしまった。
それでも、最後に見上げた楕円は見事で感動した。

仮に宗教が衰えたら、日本の萌えも同じく衰えるか。
女の被害者は減り、女の価値が無くなる。
人類が性器に行動を縛られなくなる時代はくるのだろうか。

2015年1月8日木曜日

楓牙「俺の義姉さん」現実と幻想の前提が異なれば理想像も異なる

楓牙の新刊俺の義姉さん
前が去年の夏頃だった気がしたから今回は早いな、と思ったが勘違いで、兄と妹の事情は2013年6月発売で、およそ1年半ぶりの新刊だった。

人間関係において、周囲が求める愛想に応じてきた負担の逃避から自慰にふけるのはわかるが、本音の発露が「こんなにエッチな私」ってなんじゃそりゃ。
それは周囲への負担とは無関係だろ。
男に好かれるための台詞ならともかく、本音の自慰でそらないぜ。

セックスを拒まず美人だが自己評価が低く周囲に不満を抱かない女。
後書きで、楓牙が男にとって理想の女と書いてたので、そのつもりならしょうがないが。
たしかに、男にとって理想の女。
しかし、現実に女はこうあるべき、こうあって欲しい、が現実に無理だから、やりたいほうだいの幻想で描いても、制約の無い幻想では歪で、前提が異なれば理想像も異なる。

キルギスの誘拐結婚が全て犯罪だと取り締まれないのは、求婚が誘拐によるものでも、男が銃で脅し強姦するでもなく、結婚を説得するのは結婚生活を続けてきた年老いた女達であり、結婚後の生活は安寧だからだ(駆け落ちや強姦まで誘拐結婚に含まれ意味消失してるから問題なのだが)。
どこまでも理不尽に不満を抱かず反発せず男に好かれるのを喜んで適応し続ける女を芯があると美化しては駄目だろ。
行き過ぎた宮崎駿という感じ。
初期の作品は特にそうだったが、楓牙の好み、読者の好みはKeyと同じ層なのだな。
無垢と無能は異なるのだが、まどマギ的な。
結局、男の理想像はメンヘラということなのか。
メンヘラが偶像ではなく、現実の有害になってる時代に、もうこれは無理があるように思うが。

教師と生徒と男の子 女の子を文句なく面白いと思っているが、これらは少女漫画というか、言えば恋愛してるだけで過剰な苦難が無い。
恐らく、楓牙の売りは過剰な苦難で、エロ漫画にあたかも物語があるように錯覚して盛り上がれる、ということなのだろうが、例え男読者のために存在する女であっても、男に対して疑問を抱けば、それだけで関係を描けるし、関係を描けば物語になる。
白衣のカノジョも、男にとって理想の女を描いてるが、男への疑問や、男をわからない、という点で成り立っている。
大事なのは反発の程度であって、娯楽作品ゆえに約束された幸福、しかし、本意はよくわからない、あるいは反発するのがわかる、という点で教師と生徒と男の子 女の子を好きなのだが。

2話とも保身で妊娠を望む異常性があるから成り立つが、両思いと中出しは別問題だろ。
やり始めたら全部おkはエロ漫画の悪いところ。
エロ漫画にしてはエロ以外の何かがある、と評価するなら、そう売るなら、女の反発は必要で、それは物語にせよエロ漫画にせよ商品の必須要素を損なうものではない。

爆発落ちは本気なのかギャグなのか、これがわからない。

人気の程度はわからないが、amazonでレビュウ件数が多い順番に並べてみた。
出版順はこれ
兄と妹の事情11
教師と生徒と10
先生を見てください6
男の子 女の子5
せつない想い4
魅惑の扉4
摩子4
誘惑の扉2
夢見る少女1
姉と弟と1
俺の義姉さん0
この数字が売り上げと一致しているかは不明だが、兄と妹の事情が1位というのは。
あの画像コピペのおかげなのか。

内容が重複し飽きられない工夫なのだろうが、記憶喪失とか不治の病とかいらないから、2冊に1冊、性別、世代、あるいは願望など、ちょっとした事が当人にとって重要、というものを読みたい。

あと、1冊で1話にしてほしい。
セックスするキャラを変える必要はあるが、1冊で2話以上は設定と構図だけ撒き散らされてる感じで、損をした気がする。

それと、そろそろ教師と生徒とあたりをアニメ化しやがれ。