アレクサンドリア
原題はAGORA。
作中では広場と訳されていた。
レイチェル・ワイズの女神感が相変わらずやばい。
彼女は言動のまともさや脱ぐのが売りじゃないが脱ぐのをためらわないわりに、代表的な作品というものが無いように思う。
極端に軽いしょうもない映画か、文芸的だが1属性の増長にすぎない作品ばかりの印象だったが、ようやく代表作と言えるものが出来たと思うが、この作品は商業的にふるわず、ならば世間的に彼女の代表作は何なのだろうか?
手持ちカメラもそれなりに駆使されてるのに見づらいと思う場面が1つもなかった。
とにかく、背景、風景を大事にしていた。
CGを極力避けて、集団の動向や場面転換の遠景が作品の迫力と意味を成り立たせている。
図書館で飛び交う書物のCGには笑ってしまったけれども。
ユダヤ教やキリスト教など特定の宗教を正当にしていなかったので見やすかった。
自身の属する宗教の利点ではなく、以外の宗教の弱点をついて盛り上がってるのは、ニコニコ動画をつまらなくした動画じゃなく投稿者に執着したコメントのようだった。
当時は場合によって生死が決まるもので、ニコニコは何の損害もなく自尊心のみを押し通せる、という点で決定的に異なるが、そんなくだらない事を考えた。
ヒュパティアに捧げる曲が短調で笑った。
バグパイプや笙と共通するリード楽器で、2本をくわえ、長い1本はずっと同じ音(ルート)で短い1本でメロを吹く。
パンフルート的でもあったが、この時代の音楽を再現できるほどの記録が残っているのだろうか?
アジアの音楽はヨーロッパに比べて不協和音的な短調が主だが、この曲が何を根拠にこうしたのか興味がある。
告った男は思ったよりもおいしく格好いい男だった。
司教の友人に論破されて泣いたところは理解できない。
描写よりも信者であった、ということなのだろうか。
月経のハンカチに笑った。
時代的で文学的だが、ホーンブロワー3のおばちゃんと言い40歳の女に求める貞操観念が謎だ。
そもそも、ヒュパティアの歴史的貢献がどの程度事実なのか映画ではわからなかった。
作品の最後で彼女の著書は残っていない、みたいな説明文があったが、ならば彼女の意味は何なのか?
太陽系の楕円に関する何かが残っていたのか、それとも「女なのに残ってる」以外の偉大な理由が欲しかったのか。
映画としての配慮か、言うほどに女の不利、消費される女じゃない。
社会的な後ろ盾がある設定だが、300の嫁のように権威があろうと、ウォッチメンの初代シルクスペクターのように能力があればこそ、ドッグヴィルのように美女は常に、魔女狩りの如く、あるいは今の日本アニメがそうあるように、男にとって女の価値は女の身体でしかない。
ホーンブロワーのフランス革命の話も状況の凄惨は描いても消費される女はいない。
描写の程度はどうあれ、ヒストリエやベルセルクのように理不尽な女の被害は必要だと思うのだが。
同時に借りたアポカリプトも連れ出されるだけ。
強姦されて叫んでいた嫁が途中で叫ぶのをやめて抵抗をやめたのなら死後の魂はろくなことにならん、みたいな台詞を男が言うが、これはマヤの宗教観なのだろうか?
何を根拠に作品で言わせたのか気になる。
全く無茶苦茶だ。
強姦なのに感じて喘ぐエロ漫画と同じ発想で酷い。
その点で、キリスト信者は信者であった。
彼女を、ただ殺した。
侮辱のために裸にしたが、殺すだけ。
映画では石を投げ打たれていたがwikipedia貝で肌をえぐられていたようだが、意図した変更なのか。
宗教が、ある場所における集団の知識体系および自己陶酔なのだから、異なる生活環境に宗教の有効性を見出そう、思い知らせようなんて無理で、かつ男による体系なのだから、宗教の隆盛が行き着く先は似たり寄ったりと思うのだが、故に衰えず、今も続いてる。
本作における彼女の態度には魅せられるが、知識人の功績が不明かつ作中で過剰なので、どうも彼女の真摯な場面こそが浮いて見えてしまった。
それでも、最後に見上げた楕円は見事で感動した。
仮に宗教が衰えたら、日本の萌えも同じく衰えるか。
女の被害者は減り、女の価値が無くなる。
人類が性器に行動を縛られなくなる時代はくるのだろうか。