修羅の門 第弐門がひと区切りついたので、自分が何故この作品を好きで、今また面白くなってきたのに面白くないと感じたかを書く。
4部にあって、今にないのは、陸奥九十九の必死さ。
そのわかりやすい対比が以下の画像。前者が今の四門で、後者が4部の四門。
4部であっても読者に向けた格好つけたニヤリはあるが、読者に向けた演出と、作中の登場人物の深刻さは別で、作中と作外の演出と意味を区別または両立をしていた。今はその区別がなく、表情が少年漫画の読者にむけた格好つけのみ。
作中で「ゼロから」と言ってるが、性格が変わるわけではないと思うのだが。山田との会話も、笑ってながせる、興味はないが無視しない、誰の態度も自分にとって無価値だが誰の行動も自由ゆえに笑ってながせる、それが陸奥だったのだが、いちいち表情を変えて反応する幼稚さ。
4部の九十九は、前作主人公的な良さがあり、読者にとって目的は明確だが本音はわからない、読者の1人称的な距離感があり、それは、1部から段階をへて得られた前提の共有と作家の成熟により成り立っていたことだろうが、今の九十九は説明しすぎる。
読者にむけて説明する演出は幾らでもあるが、特に4部では九十九にだけはそれをさせずに九十九について他者が語る、という演出だった。
それをやめたのが九十九という個人を描くためなのか、川原正敏が新読者にむけ、かつ衰えて描けなくなったのか、わからない。九十九の表情変化は人生が不明確になったがゆえの甘えとも言えるが、記憶が戻ってから羽入をジト目で見たり、作者があまりに読者に理解を求めていると思う。
少年漫画だから当然なのだが、4部の陸奥にはハードボイルドと言えるキャラの確信と、読者との距離があった。舞子も連載再開時はちゃんと時間経過を感じるまともな女だったのに、すっかりいつもの川原ヒロインになってしまってる。
小島秀夫のMGSが段々と軽く幼くなってきたのも同じ理由だと思っている。若い時に上を目指し突き進んでいたのが、今は若者の感覚がわからないゆえに若者に過剰反応してる、旧世代として利鈍を見せれば良いのに、若者に好かれたがっている。
キャラの確信という点で、陸奥のやる気ない理由は感心した。負けたがっているのではなく、記憶が無いから自覚できる結果を求めてたという。
しかし、九十九は前田に負けてた場合に、どうするつもりだったのだろうか。これが、多くの少年漫画であれば、負けられる。負けて強くなり次で勝つ、という逆転を演出できるが、修羅の門の問題は負けられない。
この作品が他の少年漫画であれば、九十九は前作主人公で、姜子牙が修羅を継いでもおかしくない。陸奥という縛りなく強い者が主題なら、そういう世代交代のほうが劇的だし、成り立つ。
姜子牙は北斗の再来であり、そして九十九こそが北斗の立場で姜子牙が飛び立つ、というほうが自然ですらあると思う。それが出来ない、メタな苦しみ。
作中の戦闘状況はとても良い。純粋な格闘技ではなく、海皇紀の流れも活かした、戦場的な戦術。
武器あり、複数人戦。もはや、やる事ないと思っていたが、新しく格闘技うんぬんをやるんじゃなく、あくまで未消化だった設定をやりきって終わるようで、安心して読めているのもたしか。
それにしても、15巻でようやく旧10巻(北斗)と同じ区切りとは、また30巻くらいかかるのだろうか…。絵柄の変化はともかく、確信を取り戻したのだから、読者を拒まず、読者には理解できない陸奥に戻ってきてほしい。