そばが作り置きされていて、それならつゆと具材だけ自分で軽く準備すればいいやと手早く手配して、いざ鎌倉とそばの蓋をあけたら…
そばじゃなくてごぼうだった時の絶望。
よいお年を。
毎年恒例のニュース記事を見て思いついた事。
日本は災害大国である。10年に1回は大きな避難を要する何かが起きる。地方によっては毎年すら考えられる。
ところで、kutooという社会活動がある。個人的にこれには賛成の立場で、以前から考えていた事がある。
まず、自分はWizardry童貞を本作戦闘の監獄(iOS)に捧げて1箇月程度で、シリーズの常識や本作の前提もまだ探り探り確認してる状態で、現在は2面の終盤と言ったところ。
そんな自分が年末のRTA in Japanを軽く見ながら思いついた事。
Wizardry 戦闘の監獄 RTAレース(数日またぎ)。
結論から書くと、2008年。海皇紀37巻から38巻あたりのマリシーユが登場してから。
川原正敏自身が若かった頃を幼いとは評さない。修羅の門から数えたとして、徐々に作者と作品が成長して、アメリカボクシング編の中盤あたりから少年漫画では持て余す人生観を描くようになった。
個人的には、絵柄と思想のピークは修羅の門(レオン)、修羅の刻(義経)、海皇紀(ソルとの決戦まで)だと考えている。少年漫画なりのかっこつけはあるにせよ、もともと伝統や歴史を題材にしてるので、あくまで数ある中の断片として必死に生きている、という自覚と挑戦の精神年齢が高かったと考えている。
それが、マリシーユ以降、軽口を叩きながら核心を知ってる大人ではなく、ただの自己陶酔ラノベのようになってしまい、修羅の刻も段々と年齢設定とは異なる精神年齢の退行が見られる。どうしてこうなってしまったのだろうか?
特に海皇紀は意図して登場人物の年齢が高め、いずれも成人を前提としているのに、30前後の人物が小学生みたいに振る舞うのが気持ち悪い。川原正敏が疲れてしまったのか、若年読者を得ようとしたのか。わからない。
自分は項羽と劉邦は序盤だけで現在は読んでいない。修羅の刻は半ば惰性で読んでいる。それでも、戦闘と題材と一部の思想には同意するし、その点は今でも素晴らしいと思っている。特に戦闘の間合いの扱いや、少年漫画的な必殺技にそわない玄人的な業(わざ)を見せ場にする感覚と描写。
女が幼いのは、ある意味でしょうがない。男を立てるための脇役として必要悪なのはわかる。しかし、マリシーユ以降、あるいは修羅の門2ndから未熟な女と成熟な男ではなく、未熟な男を無理に立てる幼稚な女、という形になってしまい、自分には耐えられなかった。
マリシーユ初登場前後は、まだ精神年齢を維持していたように思う。ちゃらちゃらしながら真面目な様式としてわかる。舞子の母親の件もそう。
しかし、マリシーユ以降、海皇紀の終盤、そして修羅の門2ndはもう見るに耐えない。命をかけたやりとりの中でくそくだらない冗談や自己陶酔を描かれると、吐き気と失望しかない。
これらの問題が、体力なのか本音なのか諦めなのか、自分にはわからない。彼との付き合いは長く、一時期は生涯の作家とも評価していた。それが思想を徹底するわけでもなく、読者に媚びた上で若者作品ほどに支持を得られていない半端な状態を見てると悲しい。
今の彼には陸奥の初代を描いてほしくない。彼自身の情熱が読者を置いていくくらいの作品を彼が再び描けるようになったら、その時には代表作、あるいは作家の完結として描いてほしいし、読みたいと思う。
彼の再起を願っている。
順不同。基本的にはA-Z。そこから時系列と分野を加味した並び。優劣ではない。
それだけを基準にしたわけではないが、結果としてゲームバランスよりも人物、物語、世界の3大要素よりもビデオゲームに必要な事で書いた操作性(快適性)が作品に直結した類のものばかり。
中には既に充分な評価がされてる作品もあり、逆に好事家や偶然の経験者しか知らない作品もある。
動かすだけで楽しい、動かなくても考えるだけで楽しい。そして作品の発想や経験が作品に限らない影響を与える。自分の評価基準はそこ。
映画や漫画や小説には、以下の分類が一般的である。
これらは基本的に商品の人気や平易に比例していて、上から下に行くほど売り上げが落ちる。
女に売るには女が主役で女に好都合な男。当然ながら男に売るのも同様である。つまり登場人物の性別や、それがどう動くかという物語展開。多くの人間が地球の年齢や環境変化、太陽系の99.9%が太陽で地球なんぞゴミクズに等しく、更に太陽系なんぞ銀河系の塵芥に過ぎない、などと考えずに生きている。その意味で、世界設定なんぞ不要とすら言える。
個人で考えれば、生きてる時間より死んでる時間のほうが長いのだから、どちらを優先するかは自明に思えるが、だからこそ自分のような少数民族は世界設定こそを重視し、例えば欧米に滅ぼされ、または追い詰められた原住民達もまた、世界設定こそを核心として生きてきた。
ところで、ビデオゲームに限れば、この3要素と同等に並び立つ事があると自分は考えている。それはUI操作性。
どれだけ先の3要素が満たされようとも、第4のUI操作性が劣悪だと自分は全くプレイ出来ない。今思えば、ゲームバランスが無茶苦茶でも長く遊べたビデオゲームは、これに優れていた。それは視認性や画面やボタンの配置から読み込み速度まで、様々な要素を含む。
ビデオゲームに限れば、そもそも3要素すら不要なのではないかと思う。行動の内容と結果の反映、これが満たされればビデオゲームとしては名作で、むしろ慣例としての3要素など不要どころか邪魔ですらある。
OverwatchやDooMやケツイ絆地獄やWizardry 戦闘の監獄やObra Dinnやフィンチ家やBeat CopやPlease,Papersを自分が名作だと判断してる理由はそこにある。
これらに3大要素は大きくあるが、それらが操作、プレイヤの判断と行動を増長する事はあっても一切阻害しない。
そもそも映画や小説や漫画に登場人物と物語展開よりも世界設定、人格や自己愛よりも、未知の世界を求めてる消費者として、ビデオゲームにも極端にそこを求めてるのはある。
それにしても、RPGと称しながらプレイヤの判断や行動を無視した強制的な三文芝居が多すぎる分野において、以上のような点を踏まえた作品は乏しい。そもそも、ビデオゲームにおける操作性というのは、多大な経験と実験が必要だからだ。そこまでの情熱とコストをかけられない現実問題がある。
だからこそ、もはやランキングなどに入るのは不可能な過去の作品から、それらを踏まえた現代の作品まで、この記事の論旨を見たした作品を見つけた時に感動がある。自分の知らない人が知らない所で頑張っている事実に希望が持てる。
これまで年に100本は映画を見るような人間だったが、今年に入り10本も見なくなった。自分としてはCGに溢れ、文化や意味や人生の行動に影響するまでの作品は少なくなったので、自分なりの映画まとめとして、また年末らしい企画として今回記事にした。
順不同。かつ無理矢理20本に限定して、同監督や同分野で作品が変わる場合もある。マルホランドドライブや草原の実験やナイトクローラーなども好きだが、無意識にぱっと思いついて、かつ話題にあがらない作品の両立した方針として以下のようになった。
ここ10年くらい考えている事。
1990年代半ばまでインターネットは特権だった。何とか利用出来る人間は、自分で考え調べ、安易に助けを求めようものなら叩かれた。最後のそれは果たして必要なのかという疑問はあって当然だが、利用者には能動や意欲の類が求められた。
現在でも検索するために何を検索すれば良いか聞いてくる人間がいる事に驚く。聞いてる暇があったら検索しろ。下記リンクにも示されるが、動くくらいならやらない、という人間が多すぎる。その癖、他人の時間(資産)だけは食い潰そうというゴミが。
セネカは2000年前に物体としての資産に固執する癖に時間という資産の運用に全く無頓着な人間が多すぎると指摘してるが、2000年前に言われてる事を現代に反映出来ない人間は人類として何を学んで生きてきたのだろうか?
先日カナダの実験で人間は難問に取り組むぐらいなら「肉体的苦痛の方がマシ」と考えていることが判明という事があった。金をもらって条件が全て明らかで不正解だろうと何も罰則が無い能力テストにおいて、最後まで知性を選んだのは1/40に過ぎない。分母が小さいので、これを世界人口や各国人口に採用は出来ないが、これを多く見積もり4倍にしてもようやく1割。
動かずに必要な情報が入手可能なのは快適であり、それに異論は無い。しかし、演繹と帰納は互いに補完しあうものであって、卵しかないから卵焼きを作るのと同等に、卵焼きのために卵を用意するのを何故そこまで拒むのだろうか。
上記リンクにもある通りインターネットはもはやテレビの代替になってしまっている。そもそも、テレビから離れた開拓民が頻繁に使う道具や場所であったものが、餌を待つだけの家畜農場となってしまった。
開拓を望む民族は今インターネットを捨てきれずにどこへ向かってるのだろうか?
資本主義的にも専門的な情報がおおよそインターネットでは入手しづらくなっている。情報に能動や意欲を持つ開拓者が、結局はインターネットを捨てかけて本を選んでる歴史の皮肉。
Googleは2年間ログインが無いアカウントは削除する方針を発表して、それではデジタルデータの不変性や永続性も、物理的な容積やコストに支配されてる倉庫などと変わらないではないかと。
人類は言葉を獲得して実現可能性が広がったが、同時に言語に縛られ、異なる言語を無視したり、程度を間違えて敵対するにまで至った。更に、非言語情報の処理が劣り自身の肉体すら満足に扱えなくなってきている。
猿はある点で人類に劣る。しかし、身体能力において基本的には猿のほうが上であり、その猿に劣る点がありながら、知性、情報の管理すら受動で怠惰で応用力の無い人間に、人類という称号を与えて良いものなのだろうか?
インターネットはいつから受動的で怠惰で軽薄なメディアになったのか?
ブルーライトはそれ自体が有害なのではなく、本来は太陽の時間だけ強く得るものを、太陽が沈んだ夜ですら真昼並に感知する道具や環境が有害だという事。
ブルーライトカット眼鏡を使い始めてから、画面の時間は常用してるが、画面以外の時間にも使ってないと落ち着かない時がある。これはこれで問題ではなかろうか?
選ばれた美女には、ある意味で興味が無い。順位や人種など細かい点を無視してもおおよそ美女が並んでるのもわかる。しかし、それらとは異なる疑問がある。なぜポルノ女優(AV女優)が選ばれないのだろうか?
美女である事に人種も世代も性別も、そして職業も関係ない。選外の女は幾らでもいようが、The Last of US 2のエリーという架空人物すら選んでる割に、明らかに美女という枠とは別の理由で選ばなかった女が多すぎるでのはないか?
枕営業の女はよくても、職業として男と寝るのは駄目で、つまり美女かどうかは職業で決まるのだろうか?
世界の美女Top100と世界の男が寝たい女Top100の差異にも興味がある。それこそPornhubはYoutubeに次ぐ世界2位の動画共有サイトらしいし、そこまで提携して「美女」という枠で貴賎を排除するほうが「美女」に対して誠実ではなかろうか?