購入から、7年。パッドに穴があったりバンドが潰れていたので、両者を交換した。
パッドの交換は容易だが、ヘッドバンドの交換は以下の動画を参考にした。
人類の既知宇宙のみを肯定して、人間の限界を少し拡張した上で題材はオカルトであり、常識的な歴史と空想を舞台にしたヨーロッパ的な古典的演劇。
超能力は、筋力などの延長に過ぎない。
オカルトも未知を扱うという点では科学と同義、あるいは科学で扱えるのではないか。超能力があるなら同様に宇宙人もいて当然である。
超能力と宇宙人と科学が同等に扱われる。
宇宙人、空間に対して超越的な存在の次にくるのは当然時間。
そこで時間を止める能力が発現。
ただし、ザワールドは時間を止めるというよりも物質の運動を止める。
時間に対する可逆性を持たないという意味で、時間と空間(物質)を操作するのがスタンド能力という意味において、実は前者ではなく後者の能力。
なぜ爆弾の能力が時間を超越出来るのか。
爆発、熱エネルギー運動とは宇宙の根源であり、これはつまりビッグバン。
宇宙の膨張がある限界に達した時に、次に起きるのは外側ではなく内側に向かう引力(重力)。これは6部で直接に扱われた題材だが、原理を同じくしてバイツァダストになったのが4部。そういう意味で、ジョジョ作品の中で最も神に近い能力を持つのは条件付きとはいえ時間を可逆にした吉良。
物語自体は世界をかけた戦いじゃないから小さく狭くなったように見えるが、スタンド能力を見れば、むしろ1部から続く発想と連想が拡張してるのがわかる。
ジョジョ作品のスタンドは大別して2種類ある。
時間と空間の変化を自在にする。そして主に後者が一般的なスタンドで、前者が主役やラスボスになる。
4部では生命の一部を操作可能になった(治療)。その延長で、物質を組み換える能力、生命を作る能力に発展したのがゴールドエクスペリエンス。
ゴールドエクスペリエンス自体が神のような能力に見えるが、無機質も有機質も平等であり、その内の有機質しか作れない、あるいは変換しか出来ないという意味では、言うほど理不尽な能力でもない。作中でも気温次第で生命が生まれないという地球環境に依存した能力である事が説明されている。
最終的な神のように見えるレクイエムすら、ジョルノの寿命をのばしたり過去移動や未来移動のような時間超越は不可能。演出としてボスの時間が無限に繰り返してるように見えるが、ボスの物質を可逆にして繰り返してるという意味で、レクイエムはまだ空間(物質)に甘んじて時間にかすっているだけ。
ボスにせよジョルノにせよ、時間の可逆性を得ていない。
これまで時間にかすりながら空間(物質)に関与するだけだったスタンドが、ついに空間の認知最大である地球と、宇宙のループに到達した。
これまで呑気なオカルトを科学で解体し、そして科学的な事実から超能力や宇宙人など現実の断片に過ぎない、と段々と未知を明らかにしながら、既知そのものが実は全くわからない現実の集積であると、荒木飛呂彦の興味と描写はどんどん拡張している。
更に、本作になり、初めてジョジョ以外の人物による決着。
そういう意味でも、もしかして荒木飛呂彦は引退作品のつもりで描いたのかもしれない。
多次元宇宙を肯定した上で、宇宙の資源は有限であり、物質的に同一でも微妙な誤差による個体差は唯一無二で、どれだけ無限に等しい選択肢があろうとも人生は不可逆にはなりえない。つまり、運命を受け入れるしかない。
無限の選択肢すら時間に不可逆という意味で決定論的である。
それを自覚した上で人生を全うする。
決定論の肯定的な解釈はテッドチャンにも似ていて、神の如き能力を得ても当人の幸福を何も保証しないという点も同じ。
現在のジョジョリオン。
スタンド能力はもはや特権でも何でもないし、同様に宇宙人や異種属もまた特別な存在ではない。
7部大統領と同じ運命操作的な能力。既に多次元宇宙を肯定してるので、運命に対抗するのは操作不能の上位次元の物質。
シャボン玉は康穂の助力が無いと空間を超越出来ないという点では量子もつれに劣る。そういう意味で作者や読者の現実よりも劣る空想能力とも言える。
無限0は、光が質量0なので、それに類する未知の素粒子で、少なくとも量子もつれは無いが、定助世界よりは上位次元の物質なので、空間は超越出来ないが、物質変化の因果は超越して存在していられる。
多次元宇宙、並行世界を肯定した作品なので、3次元空間における超越的な4次元の存在、シャボン玉や、便宜上「運命」と称する運動の対戦。
決定論的な運命と、意思の反映は全く保証されないが確率的には起こり得るシャボン玉(量子)の対戦。6部と7部でも扱った運命の具体的な可視化、7部で既に多次元宇宙も扱われていたが、ジョジョリオンの描写は多次元宇宙を並行世界として描かずに、ある既知宇宙1つだけでそれが起きたらどうなるのか、という事を描いている。
そういう意味で鳥玄坊の神と並行世界にも近い。宇宙自体は多次元だが、主観的には常に1つの世界としてしか認知が出来ない。
こうして見ると、まず人類が簡単に認識可能な既知と未知の要素から、時間と空間に至り、そもそも人類が認知不可能な要素へと順調に拡張している。
荒木飛呂彦は以前に科学雑誌か何かでウィルスか何かをスタンド的に描いて表紙になった事があるが、つまり既知と未知の物質は次元を変換して提示しているという点で、彼のファッション雑誌引用から多次元宇宙まで等しいという価値観も、全く変わっていないし納得が出来るものである。
漫画をどう読んでどう楽しもうが消費者の自由だが、作品に扱われてる題材に無知でつまらないとか言ってる暇があったら、作者が選んだ題材などを学ぶほうが読者自身にとってのためになるし、そもそもジョジョは未知に対する覚悟と行動を描いてきた作品なのだから、それこそがジョジョの読者にふさわしいのではなかろうか。
ジョジョリオン意味不明という読者は、こういう動画を見るべき。荒木飛呂彦の興味は、何と無く格好いいと思ってた欧米文化から、欧米中心に明かされた科学的な事実や歴史に以降して、人類そのものが題材となり、もはや人類すら世界の断片に過ぎず宇宙や、あるいは認識すら出来ない世界に至っている。彼のやってる事はピカソと同じで、既知情報から未知を描く事であり、既知に甘んじる事ではない。
透は決定論。定助は量子論。これまでジョジョは少年漫画として主役が運命を切り開く決定論を否定してきた古典的な英雄主義だったが、ジョジョリオンは作品としてのご都合主義で主役の勝利は約束されてるとはいえ、決定論を否定する代わりに主役も多次元の物質の確率的な存在に過ぎず、それを自覚した上で戦い抜き勝利する、人生を全うする、世界に対する諦めを含んだ自己肯定。
シャボン玉は量子(未知の素粒子)だと発覚したが、康穂を利用しないと遠距離攻撃が出来ないという点で、量子もつれなど空間を超越していないし、当然ながら時間も超越していない。そういう意味では全く地味でチートや神などに及ばない能力。プッチすら時間の加速による再構築であって逆行では無く、時間に対して可逆という点ではバイツァダストのほうが神に近かった。
シャボン玉は水、爆弾は火。これは生命の根源でもあるから、物質の変換という点でゴールドエクスペリエンス、ビッグバンという点ではバイツァダストを継いでいる。その割に、決定論に対する、また物理法則という絶対的な規則の中で、そこからの逸脱が不可能な能力だし、それを自覚しながらも限界と思われる既知を突破する事から始める、ただ生き残るために抗い進化する生命そのもの、あるいは人類史の再現。
こうして書くと、1部から描いている事は全く変わっていない。ただ、その比重が各部で大きく変わり、ジョジョリオンに至っては、1周してスタンドの特権的な英雄すら、読者の現実の未知に比べれば世界の断片に過ぎないという形になっている。
そもそも、スタンド能力の基本は「触る」事であり、例えば、うなってる犬に手を差し出すような、毒かもしれない植物を避けなければならない、あるいは毒とわかってて取らなければならない、そういった未知や障害に対して覚悟が無いと出来ない行動なので、スタンドという超能力に全く特権が無い。能力を発現しても、それは読者の現実に存在する物質に干渉する事しか出来ないという点で、また、視認や接触する距離に限られる行動という点で、全く超越性が無く、もはや超能力という設定が不要と言えるくらいに現実的。
だからこそ、面白い。
例えば、サッカー漫画だと、サッカーの試合そのものが見せ場であり、試合を邪魔するものはない。しかし、現実だとサッカーの試合中に雷が落ちて選手が怪我をしたり、テロや暴動が起きて死傷者が出たり、サッカーとは無関係な出来事でサッカーそのものを無効にする事が幾らでもある。現実のほうが未知で不思議で理解不能で多くの事が同時に起こっている。
そういう意味において、ジョジョリオンは戦闘と無関係な事がスタンド能力によって誘導されて焦点を合わせて描写されるからご都合主義に見えるが、ある集団にとって重要な事が、何の因果もなく人類の都合を問わない物理現象が一方的に不可逆に関係するなんて事は幾らでもあり、ジョジョリオンは見事にそれを描いてる。その題材を自覚的に選んで描いてるからこそ、荒木飛呂彦の作品は、登場人物と同様に空間や場所も可能な限り大きく扱われ、その場所や空間の登場人物への影響が突飛であるほど、1周して幸運や不運としか言いようがない人類の不可逆性の限界を思い知る現実そのものが作品になる。
その具体的な描写として、まさか2021年の最新作の最終局面でドニーダーコを持ち出すとは思わず笑ってしまった。
荒木飛呂彦はオカルトを描いてるようでいて、時間、歴史、宇宙、未知との遭遇、と実は古典的SFをやり続けてる。
完全に登場人物の主観で見る構図は荒木飛呂彦史上初じゃなかろうか?
今回は写真加工の背景も少なく、漫画らしい背景と、最終決戦での気合い絵と、そして、荒木飛呂彦がまとめたSF的な人生観、ジョジョリオンなりのまとめ巻だった。
ロバート・ヒース。1950年代から1970年代まで活動していた。
マイケル・クライトンのターミナル・マンは実話を元にしていて、映画化後に本作の主役は自分たちの家族だと訴訟に発展。その流れで当時の脳深部刺激が非人道的だと煽りをうけヒース以外の実験や手術が中止される場合もあった。
マスターズ・オブ・セックスのモデルとなった2人は、ヒースと同じく同性愛者を異性愛者にする実験を7割で成功させている。しかし、この件はドラマでは扱われていない。
ヒースの失墜は、1970年代の非専門家の詐欺師を組織に入れてしまい、その実験の再現性の無さと披露の失敗による。
ヒースの著作も、彼の関係者が書いた小説も市販はされず、この断片をまとめた本でしか学べない。
いつか食事の料理を選ぶように脳の状態を変えられるようになったら、人類同士どころか異種族との交流も可能という発想は富野由悠季のニュータイプそのもの。
猿の親子を3集団にわけた実験はホモデウスでも紹介されている。ヒースはそういった実験結果で逸脱した猿を治療実験に利用していた。
2014年に市販された、体外からの電気刺激で脳を刺激するとされるFocus V3|刺激で集中力/パフォーマンスを改善する脳刺激デバイス「フォーカスV3」も紹介されてるが、これ日本でもいちおう買えるのは知らなかった。価格次第では自分で実験してみたいが。
最近のマクガイヤー 2020年8月号 会員限定を見て知った作品竜女戦記。
動画ではオオカミライズと比較していて、既知の作品との比較という点でも興味を持って読んだ。
両作の優劣ではないが、明らかにオオカミライズでがっかりして竜女戦記で嬉しかった点がある。
それが背景を手描きで、しかも主役並に描きこんでいる。
両作ともパソコンを利用してるのは明らかで、竜女戦記も明確にデジタル加工とわかる絵もある。それにしても、ちゃんと線や構図を自分で操作して描いている。
オオカミライズも背景を手描きでやってるコマも存在するが、特に4巻なんかは写真に軽くフィルタを通しただけの粗末なもので、遠近感が掴めなかったり、単純に絵としてしょぼく見える場面が多い。
漫画の面白さに定義は不能だが、1コマ1コマちゃんと描いてるな、とわかる漫画はそれだけで面白い、あるいは嬉しいものではないだろうか?
模写や参考に線や道具の使い分けなどを自分でやってみようという教材的な触発も生まれる。つまり、読むだけで終わらない、読者の行動をうながす商品。
その点で、今回の2作を比較した場合に、作品の面白さとは別に、読んでいて嬉しいと竜女戦記に対しては思った。
最近は荒木飛呂彦も背景をデジタル合成だけで片付けてる場面も多くて、作品を全て買ってるファンとしては悲しい。
映画にも漫画にも音楽にも、何事にも言えるが、効率のためにパソコンのデジタル処理を使うのは全く異論は無いし使いこなすべきだが、デジタル処理以外の色や味がしないものを見るのは、ただただ悲しいのでやめてほしい。
作家や作品を素晴らしいと思うからこそ。
蛇足だが、両作とも架空の日本の歴史を描いているが、男が求める女の定型と、女が求める男の定型は、明らかに前者が狭く少なく、後者が広く多いなと思った。
文章や絵画は帰納。
同じく、音楽における歌唱や演奏やピアノロール(DAW)は帰納が可能。
しかし、楽譜は演繹。
文章や絵画は、単語や線など、何も考えずに羅列した結果として完成させる事が出来る。構想から逆算(演繹)も可能。
歌唱や演奏も、音程も音価も全く考えず、あるいは偶然の結果として任意時間内の音楽として認知が可能。
つまり、これらは帰納と演繹の両方に対応が可能。
しかし、楽譜はそうはいかない。音程や音価と同時に分解能を定義して、無意識の情報も含めて自覚して意図して整理し提示しなければならない。楽譜に解釈は可能であっても誤解は許されない。その点では数学とも同じで、音楽内での演奏と楽譜というのは、帰納と演繹という点では原理上まったく真逆のものである。
DAWのピアノロールが容易なのも同じ理由で、音符1つ1つを入力した上で、それらの修正も容易。
楽譜は、まず調と拍を決めて、更にそれに対する音程と音価を決めないと書けない。16分音符を4個書いた後に、実はそれは全音符だった、という事が出来ない。
無論、消しゴムやパソコンでの編集は物理的に可能だ。しかし、入力前の理解と把握が、演奏やピアノロールに対して楽譜は扱う要素が多すぎる。
ある対象に異なる方法を両立するからこそ、より強く応用が可能だとも言えるが、楽譜の利鈍や難易度に関して基本的には経験(根性論)でしか扱われないので、それに対してふと考えついたのが以上である。