あくまで自主的に。
自分自身が非社会的である事は自覚していたが、ついに精神科に通う事にした。
親への殺意と、自殺未遂。担当医曰く、自分の場合は自殺未遂ではなく自傷にあてはまるとの事。
6月8日が最悪だった。
30分間、頭を壁に打ち付けて、壁はじんわりと血に染まっていた。
自分自身、自殺願望はあっても、自傷は嫌悪して、リスカの友人などの腕を見ても不快感と吐き気しかしなかったのに、自分の行動に驚いた。
当時の認識としては、目を閉じて頭を打つと、目を閉じた視界に一瞬真っ白なフラッシュが走るのが面白かった。こんな風になるのだな、と半ば実験感覚もあった。
その後、恐らく緘黙になった。
なぜ恐らくなのかは、まだ診断されていなからだ。
自分の声を聞くと吐き気がする。発音せずに、言葉を言うまねごとでクチを動かすだけで吐き気やめまいがする。場合によって他人の声自体が不愉快。
言葉はわかるし、文字も読める。
緘黙前は、文字を読んでも、単語や文章を統合する事が出来ずに、読めるのに記憶や把握が出来なかった。
緘黙後は、文字や音楽に対する反応は、むしろ向上してる気がする。
そういう意味において、環境とは別に、自分は無意識に自分の声を嫌悪していたのだろうか?と今更ながら思考している。
音楽で音程をとる必要があるのに、自分で歌っても脳内の音程が定着しない。これは、自分が音楽的能力が劣悪という可能性もあるが、自分の好きな音色や声色では暗記や定着が可能なので、自虐するほど無能ではなかったと信じたい。と同時に、自分が確信を持てる情報処理は、自分が望む最高品質ではないと無理、という事なのだろう。
緘黙に関しては直したいと思わない。
自分が発言を止める事で、自分の思考や反応がここまで向上するとは思わなかった。
もともと文章を書くのは好きだし、必要性もあり漢字の記憶力や、すぐに書くという行動も明らかに増えた。
担当医は、長期的に治療と訓練で社会性を復帰させる事を目的と話したが、自分はそれには疑問である。
コンビニ店員をやって80歳まで生きるより、自分が尊敬する天才や偉人の一部でも自分のモノにして、最終的にホームレスで野垂れ死ぬほうが、自分には安らかだ。
これが、自分が反社会ではないが非社会である理由。
自分が生まれる前を踏まえ、自分が死んだ後も考えていない人間との雑談が、とにかく不愉快でしょうがない。
看護師からは、哲学的なタイプだと言われたが、そもそも、文字などを中心に、世代を超越した情報を残そうとしてる、残せるのは人間だけなのに、それを前提としていない人間がそもそも人類に含まれるのか?という疑問がある。
医者からは、診断に最低半年は必要と明確な情報をもらったので、ひとまずそれまでは通院する。
いずれ、自分でまずいと思うから病院に行ったのだし。