2022年6月11日土曜日

自分の声を嫌悪していたと自覚した話

劣悪な環境で、自分の発言が反映されないという絶望から、擬似緘黙となった。

擬似と書いたのは、まだ診断結果がないのと、自分の声を聞くと気持ち悪くて吐きそうになるが、その無意識か、もう無駄な発言はやめようと決めてからそうなったのか、自分の認識が曖昧だからだ。

発言は出来るのだ。

発言後に気持ち悪くて、場合によって吐いてしまうだけで。

さて、その件とは別に、自分の声に軽い劣等感があったのは事実。

本の音読や、音程を取るための歌声に、自分の声では感動せず暗記を出来無い、という認識はあった。

誰それの声だったらもっと繰り返し聞けるのになあと。

しかし、別に自分を吐くほど気持ち悪い声だとは思っていないし、一般的に酷い声だとも思っていなかった。

あくまで、声優などの天才的商品となる声と比較した上での劣等感に過ぎない。

本来、文章にしろ音楽にしろ暗記の類は音読や発声が有効とされているし、自分もそれに納得してる。

しかし、理想とする声ではないという淡い劣等感だけで、別に自虐の認識など全くなかったのに、擬似緘黙、もう2度と話さないと決めてから、文章や音程の記憶力、脳内での言葉や音程や音色が明瞭になった。

これまで、自分の声で掻き消されていた脳内音色が、発言をやめてから明確になった。

自分の声が、自分の思考や発想を邪魔してるなんて、全く考えもつかなかった。

筆談のほうが頭が回る。

書けない漢字もあるので、発言よりは明らかに速度や感情的な伝達には劣る。

しかし、自分の思考は、脳内で認識してる自覚は、何も話さないほうが明瞭になった。

もともと文章を書くのは好きだったが、もう文章しかないと自覚(覚悟)したら、程度を考えずに何かを書く億劫さが消えた。

面白いのは、話すのを当然としていた時の黙読では覚えられなかった事が、話すのをやめた後の黙読では、覚えやすい、明らかに脳が発火してる感覚がある。

自分はある意味で、会話という常識、自分の声を使うという甘えで、自縄自縛していたのかもしれない。

非常に面白い経験で感動している。

今後、精神科がどういう診断をくだすかは不明だが、この擬似緘黙だけはやめる気がない。

治療する気がない。

これに関しては、無論損害もあるが、自分の思考、脳の発火という点で恩恵しか感じてない。