2019年2月19日火曜日

大石昌良 - クリシェと禁断のコード進行の嘘を解説

関ジャムという番組で大石昌良という音楽人が話した禁断のコード進行が素人と玄人の間で話題になり、クリシェ、禁断と検索すると、素人は当人を感情的に持ち上げるだけで、玄人は内容の誤りに憤ってた対比が面白かったので、今回こういう記事を書いた。

注意として、素人批判でもなく、彼の作品批判でもない。番組内での言動が、音楽理論的な要素の解説なのに、間違い、あるいは嘘をついていた、という指摘を記した記事である。

まず、彼はクリシェを禁断とは言っていない。その上で、彼がその後に見せた任意コードから半音進行は禁断ではない

「クリシェ」と「禁断のコード進行」

以下の画像を見るとクリシェと禁断のコード進行の違いは一目瞭然。4小節の中で、最初から3小節まではクリシェ。4小節目が禁断のコード進行。

各小節の概要
  1. 低音がクリシェ
  2. 高音がクリシェ
  3. 内声がクリシェ
  4. 禁断のコード進行

見てわかる通り、そもそも1小節毎に動きが違う。つまり、機能や目的が違う。別に、禁断のコード進行を使うのが間違いという話ではない「禁断のコード」と称するただの「平行移動」クリシェの機能を担っていないし、コードという概念が無かった時代の音楽が手始めに使った手段の1つに過ぎない。つまり、古典的であって、新しい事でも特別な事でも忌避されるべき禁断の手段でもない

それを理解した上で、この動きを好きで使おうが聞こうが、それは自由である。

浮遊感

浮遊感に関しては、用語ではなく主観なので、彼が間違えているという話ではない。しかし、クリシェの浮遊感というのはベース(低音=地面)は動かず、その上にある高音(メロなど)だけが動いてるから(飛び回る)、あるいは高音(メロなど)が動かずベース(低音=地面)が離れて上が浮いてくるから浮遊感がある。

彼および番組は、平行移動やdimなど、全体が動くような動きを浮遊感と言っていて、一部半音進行という点で共通していても、前述の通りに何も浮遊していない。それこそ、坂道と階段くらい違うものである。階段だと車椅子は移動できないし運べないものがある。坂道だと転がって危なく足への負担が大きい。

この2つは異なるもので、これら2つを同じ物と考える人はそういないだろう。始点と終点の間で、目的にそった道を選べば良いだけで、優劣ではない。ただし、彼と番組は、坂道と階段を同一視して同じであると、素人に嘘をついた。それを素人に鵜呑みされて坂道のつもりで無根拠に階段が増えたら、車椅子や運送会社は困ってしまう。そういう話。

菅野よう子

奇しくも、同番組で菅野よう子のVoicesが紹介された。ここで、彼女のクリシェ的な工夫と浮遊感について解説する。

Cm調で、Cm Am7-5 と動く。これを、簡単に分割して把握すると以下になる。

【高音】の動きCmCm
【低音】の動きCm(ド)A(ラ)

クリシェ(半音進行)ではないが、コードが含む3つの音(厳密には4つの音)の内で1つの音だけを動かして、異質さや浮遊感を与えている。更に、Aという音(ドレミファソシド)だが、Cm調の外にある音で、本来Cm調のラはラb(Ab)で半音下の音である。それをCm調の中心であるCmというコードを崩さずに違和感を作るためCmを含む調外の音を、歌いだし最初の小節でぶっこんでいる。これは、クリシェではないが、クリシェ的な意図でやられてる。

続いてBメロ。コード進行はEb Bb/Eb(EbM79)

【高音】の動きEbBb
【低音】の動きEbEb

今度はベース(低音)を動かさずに、高音、内声(最高音と最低音の間の音)をクリシェ的に動かしている。Aメロと似た理屈だが、Aメロは低音、Bメロは高音を動かすという対比をおこなっている。更に2小節目のBb/Eb(EbM79)はメロディがBb(シb)を歌っているので、1小節目のBbの感覚が維持されながら、Bbでは出せない音が内声で出ているので、継続と違和感の同居を狙っておこなわれている。この理屈自体は、彼女が特別なのではなく、ジャズにせよクラシックにせよ、過剰に動かさずに、まるで動いてない様子なのに少し動いて確実に事前よりも異なる工夫として、古典的であり音楽理論の原理の1つ。

しかし、彼女の場合は、これが過剰であるのが特徴。彼女はコードだけで音楽を考えていない。連続した動きの延長に偶然コードが当てはまるという感じ。それがCやFという基本的なコードだったり、CdimやGsus4/Cだったりするだけ。それは、彼女のルーツがクラシック(特にフランス系)だからなのだが、それだけで1時間かかる話なので省略する。

彼女の過剰なサービス精神については菅野よう子「星と翼のパラドクス」どれだけやる気と気遣いに溢れた曲なのかと感動したで書いた。

ついでに、菅野よう子が得意な浮遊感を紹介する。

見ての通り、低音は動かず、高音は下りてる。そして内声だけが上がってる。つまり、2/3音が不動か下行、1/3音だけが上行してるだけで、まるで昇ってるような感覚がある。更に、Dの長3度(ドミソのミ)を含まないのに、D(ドミソ)に近い奇麗でメジャーな響きがあるのに、なんかちょっと違う。

理由は主に2つあり、1つは、音1個ずつに倍音という性質があり、これを色で例えると、赤い布を見て赤1色のように見えるが、厳密には光の反射や染めのムラで1色ではないが、人間は赤1色と判断する。その光の反射や染めムラなどの厳密な色の幅が、倍音。

そして、1つの音、例えばドにはミとソが倍音に含まれる。だから人間は基本的にドミソ(メジャ)を奇麗と感じるし、西洋音楽の調律である12平均律や音楽理論の土台の1つとなっている。Gsus4/DはDにおけるドミソのミが存在しない。それなのにDに近い音を感じるのは、Dがドだけでミソを含んでいるから。

そして、もう1つ。これは、今回のクリシェにも繋がるが、人間は、上という文字を見たら下を見る、連想するし、1を見たら23456と連想する。つまり、連続した集合として理解するし連想するのが習性である。

音楽理論もこれを利用している。ある1つの音を聞いたら、次に1つ上か1下に行くのではないか、と無意識に連想する。今回の画像で言う上下2段以内の間隔。全音あるいは半音の進行。特に狭い半音進行こそが、音楽理論の原理の1つで、それをどこかに入れてなめらかな連続体を構築しながら、毎回全部がそれだと退屈だから、いかにその規則を残しつつ、それに当てはまらない音と組み合わせていくか、という苦労が音楽理論の歴史。

結論

  • 彼はクリシェを禁断とは言ってない
  • 禁断のコード進行はクリシェと機能も目的も異なるもの
  • そして、禁断どころか、何も特別な事はないクリシェと同様に古典的な手法
  • それを理解した上で、弾くのも聞くのも自由
  • ただし、玄人の顔して、その分野の前提や知識や常識の嘘を素人に広めるな

情熱大陸ときど回の時に、SF5の豪鬼というキャラが、90年代から海外ではアクマという名前だっただけなのに、ときどが使うとゴウキがアクマに変わると嘘のナレーションがあった。ある人物を持ち上げるために、その分野、商品の仕様や理論に関して平気で嘘をついて無知な素人を騙すのがテレビ。

菅野よう子を目的に見たが、彼女の工夫にも言及されないし、今回のクリシェ禁断コード進行問題もあり、作家のファンとしても、音楽理論の1部を知る者にとっても、何も得られるものがなかった。テレビは所詮その程度なのだと、改めて思い知った。

その分野を学ぶ者にとっては嘘だとすぐにわかるし、裏をとらない素人は、その嘘を鵜呑みにして、両者は隔絶する。少なくとも、彼や番組は、それを望んでいるようだ。