- イチイは猛毒1位
- ホリー豆銑…喰らえ…のくだりは、パパ…ママ…おじいちゃん…みんな…エッグなんかに負けないで!を連想した。
- 荒木飛呂彦がずっと言及しているが、ジョジョを読み直したりアニメで見ると改めて思い知る、西部劇の決着感。
- 荒木飛呂彦の優先順位が不明だが、スタンドは基本的に「触る」必要がある。しかし、西部劇の銃は対象を触らずに使えるのが最大の利点。この肉体的な強さや根源性を主題にしながら、子供が間違って触るだけで大人を簡単に殺せてしまう銃との乖離を、今更ながら、荒木飛呂彦はどう捉えているのだろうか。
- これまで、銃は小道具として扱われ、スタンドの装飾に過ぎなかったが、しかし、常に銃の存在は扱われてきた。
- 定助とオゾンベイビの最後のやりとりは、少年漫画的な極端に過ぎる演出だが、善悪の戦いというより「生きるのが目的」か「残すのが目的か」の対比。
- Sもり 3-11
- この車の番号は、東日本大震災を意図したものなのか。
- 常敏がつるぎに向けた言動。常敏と憲助は少年漫画的な敵対をしていない。常敏は憲助の立場を理解しながら、
- 豆銑…生きてるんかいw
- 荒木飛呂彦は少年漫画をやめて、SBRの終盤からそうなってきたが、今回の豆銑の崩れ方に、「読者に好かれようとする主要人物」という感じが一切無い。機動戦士ガンダム ラストシューティングのような、それこそ荒木飛呂彦が好きな古代ギリシャ、ローマ彫刻のような崩れ方をしていない。単純に、醜く描いている。
- ジョジョリオンがそれほど好評を得られないのもわかる。特に、今はアニメを中心に若年が美化を喜んでいるのだから、もはや60歳にして、派手な花鳥風月という矛盾に挑戦してる荒木飛呂彦を理解できないのは、しかたない。
- 作者も読者も若い頃は、理不尽への挑戦こそジョジョであったが、ジョジョリオンでは、理不尽と挑戦を区別しながら、挑戦を続けるという事になっている。
- 西尾維新が、大人と子供の違いを、ナウシカの漫画を読んでるか否か、とネタにしていたが、今の自分にとって大人と子供の違いは、ジョジョをSBR以降を読んでいて肯定できるか否か。
- ジョジョはこれまで、死別を容赦なく描いてきた。キャラによって演出の格差はあれど、主要人物すら、死を認識する間もなく死んだり、結果を知らずに半ばの死だったり、容赦が無い。あの花京院すら、演出では大事にされたが、劣勢の中で自身の判断がどうなったかもわからずに死んでいる。
- その点で、ジョジョリオンはどうなるかと思っていたが、少なくとも現段階で豆銑はそういう存在では無いらしい。
- これまでジョジョは、敵の能力は姿が謎でも、関係は自明であった。しかし、ジョジョリオンに至っては、能力や姿が明らかでも、最後まで関係が不明であり、そこに安心して読めない層はなじまないのもあろうか。
- それでいて、謎というよりは、それぞれの生き様こそが主題であり、だからこそ、実は関係の謎を無視しても読めるように配慮されているのだが。
- 前巻の魚肉ソーセージといい、今回は松茸のくだり。こういう描写が、本筋に無意味でありながら、作品の幅をもたせて、結局は個性になっている。それにしても、読者にとって、こういう意味があるのか無いのかわからない描写を許される漫画。
- 自分はジョジョリオン全肯定なので、気にしていなかったが、ここにきて、まだ花都の展開はせずに、まさか密葉を持ってくるとは。
- しかも、これまた無条件で読者に愛されるような女ではなかったw
- 最近では、ジョジョリオンは落語のようにも見える。もはやネタで笑わせるのではなく、登場して座布団に座って客を見渡す様子で笑わせるような。
- 豆銑崩壊なんてのは、主要人物の美化を捨てた深刻さを含んだ一種のギャグに見えて、自分は笑ってしまった。
- ハロウィン(1978)の最終展開で、恐ろしき異常性と演出の工夫が、偉大なる古典的な様式になったが故に、愉快でしかないのと同じ感覚である。
- しかし、そこには、芸人の成熟と、消費者の信頼が無いと成り立たない。
- 今の荒木飛呂彦を全肯定してる自分には、6部以前ほど大衆娯楽に徹しきらずに売れないのもわかるし、ジョジョリオンはそれで良いと思っている。
- かといって、一部の閉鎖村人が喜ぶようなモノにはなっていないし、それは荒木飛呂彦自身が、そうする気がないのもわかる。
- ジョジョリオン単体で見たら、評価はいまいちかもしれないが、今更本気のアニメ化、そして荒木飛呂彦の原画展完売による好評。もはや、個人の好みなど問題にならない領域にいる作家なので、ただただ新刊を待つだけである。