2021年1月14日木曜日

労働は個人の意欲ではどうにもならないと証明された

まず1つ疑問なのが、分野を問わず仕事は一切やりたくないという人種はどの程度いるのだろうか?

例えばアイドルだったらやりたい、飲食店経営だったらやりたい、海外の事件や文化を取材したい、大きな畑を持ちたい、ビデオゲームを1日12時間やっていたい、などなど願望を無限とした場合に、その延長で労働は可能だが、そもそもそういった意欲が無い人間が人類の中で何割か知りたい。

さて、根本的に思うのは、労働の問題は需要であり意欲ではない。労働意欲があろうと、これまでの仕事を許されない時代になった。それも全世界共通で。

どんな時代、どんな状況でも労働意欲が無い人種はひとまず放っておいて、これまで労働を当然とし、これからも続けたいのに続けられない状況が到来し、労働は個人の意欲ではどうにもならない事が証明された。

無脳症という病気がある。これを呪われた子供として即座に殺すが、医学的な研究に利用し、当事者を助けられなくても人類に有益な情報として活用するか、それを出来るかは無脳症当事者ではなく周囲の人間、環境に依存する。

労働も同じで、人類の多様性を肯定するなら、仕事は多様であり運営もまた柔軟かつ幅広くなければ成り立たない。人物Aにとって苦痛な仕事が人物Bにとって快適な場合は幾らでもある。

問題は人物Bを基準に労働を人物Aに強制する事。

適材適所は1つは個人の自主性に依存する。それは間違いないが、無脳症の例の通り、個人ではどにもならない問題も並存する。

国という枠は、1つには統壱的な実現を可能にするために作られたが、同時に、個人ではどうにもならない問題を解決するための有効な集団として作られた。

共同幻想の管理が容易になったのが文字とした場合に、人類は6000年ほどの歴史があるが、いまだに無意識の幻想に振り回されるだけで、意図した管理が実現出来ていない。

テンプルグランディンは全ての自閉症に肯定的な可能性があると、行き過ぎた願望を提示してるが、少なくともそれは当事者ではなく、周囲の人間こそが考えるべき事だ。

仕事をしたいのに仕事が無い時代というのは、今回に限らず人類史上いくらでもった。個人主義と巨大政府は対立するものではなく、珈琲を飲むか紅茶を飲むかくらいの選択肢を維持出来るかが人類の豊かさに直結する。その点で、今回の労働問題は、ありとあらゆる国、全人類が放置してきた問題を明確に提示し、そして恐らく人類は反応しても改善は出来ずに終わりそうに見える。