2021年1月18日月曜日

双亡亭壊すべし(20) 藤田和日郎が無茶苦茶に怒っていて笑ってしまった

面白いか、つまらないか、で言ったら無茶苦茶面白かった。

これは作者と言うよりも読者である自分の状態だろうが、藤田和日郎も荒木飛呂彦と同じで老いたが故に作品が素晴らしい反面、戦闘になるとつまらない問題。

今回は、というか今回も徹底した旧世代批判、親批判。善意があろうと親は失敗し、悪意があるなら言語道断。藤田和日郎の立場からは少年漫画という事もあり子供を全肯定しているが、旧世代を批判した上で、それに不満を抱きながら甘んじる、または反面教師としても活用出来てない新世代にも苦言を呈している。

本作は、恐らく藤田和日郎の史上でもっとも批判精神があるのではないか。これまでも色々と言いたがる作家ではあったし、それが魅力ではあるが、今作はとにかく全方位に喧嘩を売ってるのが笑える。

上記の通り、旧世代を批判しながら、旧世代を超越出来ない新世代も批判に含み、芸術家という特殊性を撒き餌に、芸術家と書かれたら芸術家に限った話だと思い込む、反応だけで思考しない主体性を持たない人間を軽蔑している。

実際の歴史の断片を引用して、消費者が生まれる前の時代に目もくれず成功も失敗も等しく歴史から学ぶ姿勢に欠けている点に無茶苦茶に怒ってる。

特に男が描く女だと、愛情を根拠に、その満足から死を受け入れる、つまり慈愛に陥るが、後述する顔面も含めて、藤田和日郎は可能な限り男女を平等に扱おうとしている。その1つがこれで、死ぬ理由の受け入れ方とは別に、死ぬ状況の受け入れ方を描いている。誰に向けたものでもなく、最後によぎった事を自覚しながら、そこに過剰に何かを向けるのではなく、自身にとって絶対に断絶しない核心と、その核心が全くの無力である状況の両方から、あっさりと死を受け入れる。

この顔を描けるのは素晴らしい。しかし、絶対に助かる登場人物でこれをやらなければならないジレンマ。昭和初期の漫画ならともかく、もはや作者にも読者にも構成が見えるような時代に、こういう生き様を見せたいという情熱と、何があっても絶対に安全な展開という矛盾を彼も処理し切れていないのが浮き彫りに。

今作で藤田和日郎の挑戦は、クールキャラを描く。これまでの藤田和日郎にもクールはいたが、結局はヤンキー本性を晒してめでたしめでたし、というものばかりだった。漫画の登場人物は2種類あって、作者が見かけた他人の紹介と、作者の中から捻り出すもの。藤田和日郎は前者を駆使しながらも明らかに後者であり、彼の衝動が結局は登場人物全員の共通項になっている。

その点で、今回の泥努は凄く頑張っている。藤田和日郎*週刊連載の顔芸,リアクション芸人にならず、泥努にとっての肯定も否定も泥努なりの水準で幅があるだけで、藤田和日郎が自分じゃなく他人を描くのに徹底していて、それ故に凄く大事にしているのがわかる。読者には好かれたい。しかし、意地でも萌え消費には甘んじないぞ、という覚悟。

また、彼を通してしれっと人生の皮肉を描いてる。つまり、彼を肯定する人間から理解されず、彼を否定する人間から理解される。

男ほど醜くは無いが、それでも女、しかも人気を得るための美少女の顔面を容赦なく殴り描く。こういうところが受け入れがたい読者が一定数いる、世間も市場もそちらが多数派と芸歴の中で自覚してるだろうに、週刊連載の割り切った体裁の中でこれをやる。

と同時に、戦闘がつまらない問題。

幾つか理由はあるが、まず本作は思想の対立であり殴り合いは装飾に過ぎない。だから、絵自体は手抜きもなく使える手数の全てを使った迫力ある大ゴマで描いている。それはわかるが、どれだけ頑張っても段取りの消化にしかなっていないのが、恐らく描いてる当人こそが1番に思い知ってるだろうに、悲しい。

ただ、今回の戦闘は、泥努と紅の関係の変化、泥努の設定変更など、戦闘の要素以外の展開を含めた戦闘だったから、読んでいて全く苦にならなかった。

もう1つ、藤田和日郎の戦闘の問題。

それは、彼の作品は基本的に全て歌舞伎であり、実際に人間の運動の限界などではなく、1枚の平面の静止画としての印象が全てという描き方なので、間合いや姿勢といった流れが無く、どうしても人間同士の格闘戦が地味で退屈で展開に違和感がある。

逆に、大作主義的なので、非人間の怪物や超自然現象の発動や結果を見せ場にする戦闘では、視覚効果と意味展開の両立が出来ていて素晴らしい。

藤田和日郎は人間の内面にはちゃんと興味を持ってる作家だし、人間の肉体もちゃんと描こうとするのに、人間の運動となると途端に胡散臭くなる不思議な作家である。

本作の戦闘は凄くジョジョっぽい。というのも、恐らく当人も自身の苦手、または他作家の特技を研究して、歌舞伎の見栄を切るには、むしろ登場人物は動かずに周囲を激しくしたほうが良いという事に気づいたのだろう。

だから、戦闘の伏線や結果が間接的であり、決着の時には主役は激しく動かずに静止している、知性派への転向あるいは挑戦をしている。

今回は心臓を握る展開もあり、ジョジョにしか見えなかった。

順序が前後するが、この顔を描ける作家。当然ながら読者を泣かせるための展開であり描写だが、ただ名場面です泣けますよ、とは描いていない。

作品の展開自体は肯定的な涙であるが、この泣き顔から喜びだけを感じとるのは難しい。怒りや悲しみといった要素も見られて、人気取りの美少女であってもブチギレ醜悪顔芸を見せるのと同様に、ある1次元的な価値観だけで終わらせてなるものか、とお涙頂戴の記号に便乗しながら甘んじるのを拒否している。

今回は、藤田和日郎、彼自身の本音が商売の外に漏れていて面白かった。戦闘はプロレス故に自分には退屈だったが、展開の契機や結果としての戦闘だったので苛立たずに読めたし、藤田和日郎が相当に色色と怒ってるのがわかって、笑ってしまった。