関係者も観客もマーティン・スコセッシ作品が元ネタだと話してる。
自分はスコセッシのヒャッハーが合わず、長らくまともに見てこなかった。
それはマッドマックス(ジョージミラー)にも言える。
彼らをまともに見始めたのは、ダークナイト(2008年)以降で、ああいった作品に直接的な引用や影響を与えた作品を資料的に見るつもりで見始めた。
そして彼らに言えるのは……
ごめんなさい。
ベイブはディズニー的なゴミかと思っていたが、食料問題や差別問題が扱われる。
しかも、突然にどこからか現れた英雄がすべき事は偉業を見せつける事ではなく、現地の人間に協力を頼む事であると。
極めて現実的で大人な提示で笑ってしまった。
ウルフ・オブ・ウォールストリートは欲望を原動力として肯定しながら、破綻も必然的な1部として扱ってる。
ラリって喚きながらハイずりまわる場面はあまりに酷い状況を冷静に描写してて笑うしかない。
そして、主要人物は批判の対象なのに、結局はそれら行動に便乗したがる庶民がいる。
順序は逆だが、自分の見た順として、キングオブコメディがやってる事はウルフ・オブ・ウォールストリートと同じ。
つまり、撮影方法などは時代に合わせて変化しても、根本の動機は変わっていない。
キングオブコメディを見ながらナイトクローラーやリチャード・ニクソン暗殺を企てた男を連想した。
主要人物の悪行を間違っていると批判しながら、批判するための消費が彼らに便乗し利益になっている。
それにしても話が違うぞ。
キングオブコメディは、それこそベイブのように、わかる人には重くしんどい映画。
しかし、わからない人には上っ面の装飾に満足して軽薄で愉快な映画。
そういう商品だと予想して見始めたら、最初から全員サイコパスだった。
しかし、キングオブコメディ自体が最初から観客を騙す気がなく狂った前提を全て見せている。
だったら、ジョーカーいらないのでは?
マリオを参考にロックマンを作ったのかと思ってたら、ストリートファイター2を参考にストリートファイター2ダッシュを作ったみたいな。
例えばダークナイトもウィンターソルジャーもHEAT参考は明らかだが、それでも3作品ともに共有しながら別の作品に仕上がっている。
キングオブコメディ自体がデニーロだけじゃなくSandra Bernhardも狂った共犯としてハーレクインを全うしているし、これをジョーカーと題しても違和感がないくらい。
1点不満を言うなら、Sandra Bernhard脱げよ。
そんだけ狂った人間ですとか見せびらかしといて下着姿で終わりかよ!
芸能人に惚れる狂った庶民
芸能人を見て、その芸能人を好きになる…これはわかる。彼らは人に好かれるのが仕事なのだから。
しかし、話がうまい、腕力がある、歌がうまい、金もち…などなど芸能人の能力も様々。
絵がうまい人の絵と言動に惚れて、その人の描き方や使ってる道具や生活習慣を知りたくなる…これはわかる。
しかし、なぜ芸能人の能力評価が自分の恋愛や結婚に結びつくのか?
キングオブコメディはわかりやすく劣悪な家庭環境/親の愛とした。
しかも、貧富両方とも平等に起こる事なのだと。
例えば、自分だったら菅野よう子である。
彼女が1日何時間ピアノ練習をして、作曲の際にどういう場所でどういう道具でどうやって書いてるのか、リハーサルの現場でどのように指揮してるのか、彼女の仕事ぶりを数日密着で見てみたいと思う。
しかし、彼女と付き合いとかセックスしたいとか結婚したいなんて全く考えた事がない。
単純に、顔が良い女芸能人を見てセックスしたいと考える事はあるが、それも所詮はそこらを歩いてる女に抱くのと同じ浅ましい欲望で実現不能の些細な発想に過ぎない。
しかし、実際にはこれら動機で事件を起こす人間が常にいる。
どうしてこういう人種は絶滅しないのか。
結局のところ、宗教を見いだした時点で、現実と乖離した思い込み肯定が人類全体の貢献につながる以上、断絶できない事なのだろうか?
本作を見て、そんな事を考えた。
謎の男
本作を見て凄く気になった場面がある。デニーロがリタにサイン帳を見せびらかす場面。
喫茶店で食事をしてるデニーロとリタ。
デニーロに焦点合致して後ろは背景としてピンボケしている。
しかし、後ろの座席にいる男がずっとカメラ(デニーロ)を見ている。
カットがリタからデニーロに変わるたびに後ろの男がこっちを見てる。
場面の終わり際には、ついにデニーロの身振り手振りを真似して、そして離席して後ろで電話を始めた。
自分は、これをデニーロが加害者から被害者、成功の代償として受ける被害の伏線かと考えていたが、この後、この男が作品で扱われる事は全くなかった。
あれなんなの!?
当時の有名人のカメオなのか、スコセッシとは無関係な事故的なネタなのか、自分には全くわからなかった。
町山智浩あたりが解説してくれないだろうか?
スコセッシ vs MCU
ところで、スコセッシがMCUにわざわざ喧嘩(プロレス)を売った。MCUは映画ではなく遊園地だと。
楽しいけれど人生に残るほどの意味や繰り返すほどの行動ではない、と言った意味。
これは、フィルムとデジタルの損得を現場の人間にインタビュウしたドキュメンタリサイドバイサイドでクリストファーノーランが語ったCGにも通じる。
食べた瞬間はおいしいが時間がたつとパサパサで食べられたものじゃないケーキのようなものだ。
実際に、スコセッシとノーランはフィルム絶滅を阻止するために自腹でフィルム購入している。
実写ライオンキング。
あれを実現するだけの資本があるのは凄い。
しかし、あれにどれほどの意味があるのか。
映画の基本は、作り物だとわかっててもどうやって作ってるかわからない、錯覚だとわかってても騙される、そういう商品ではないのか。
その点で、スコセッシには全く同意する。
ウィンターソルジャーやシヴィルウォーは娯楽性と思想の両立が出来た素晴らしい作品だ。
それはほとんどルッソ兄弟の功績なのだろうが。
そこで、好評のブラックパンサーも見たが、あまりに酷すぎた。
アフリカという舞台、故郷が題材なのに、主要人物が成長する儀式の場所や、終盤に礼賛する故郷の風景がスタジオ合成丸出し。
それを隠す気もない。
白人と黒人の文化、事情の棲み分けがない。
結局は金持ちであるかどうかだけ。
というか白人金持ちキャラとやってる事が変わらない。
音楽もテンプレ伴奏に目立つ民族楽器を1つ2つ差し込むだけ。
演出で現地語に気をつかったと言いながら、ワカンダフォーエヴァーは英語。
そもそも、アフリカ系アメリカ人、アフリカ在住アフリカ人では抱えてる問題が違う。
それを同1にする雑さ。
当時、映画館で見たのを後悔した。
文化/生活をなめ腐った酷い映画だった。
クリストファーノーランのバットマンビギンズでこういう裏話がある。
バットマンが脱出着地する場面をCGでやろうと実写とCGを関係者でブラインドテストした。
するとノーランは実写を当ててCGを没にした。
つまり、ノーランやスコセッシのように見極める能力を持って最高の環境にいる人達が、品質の区別がつく前提で話をしても、区別がつかない凡人には無意味なのだ。
自分も、MCUは先述のブラックパンサーからガントレットの合成と段取りで何も展開も提示もしない酷いものでエンドゲームを見るのをやめて、今後MCUには1円も出さないと決めた。
しかし、目の前で砂糖や生クリームをかけないと味を感じられない人間が思っていた以上に多い現実に対して、1つまみの味の変化に気づける人間が何を言っても無駄なのだ。
1秒程度のカットでも人物と背景の露出が異なる合成でうんざりする人間は、言うほど多くない。
自分はスコセッシの思想も行動にも全く同意するが、売り上げで明らかなように沈黙とMCUを等しく見られる観客など1割どころか1%未満。
自分はペルソナ5を嫌悪している。
強姦や虐待など、人生に取り返しのつかない物事をキャラ萌えの装飾に使い捨てた下劣な商品だと思っている。
しかし、それを切ないとか感動とか喜ぶ消費者もいる。
購入した結果どのような感想を抱こうと互いに自由だ。
そもそも資本主義的には感想など無意味。
買った時点で肯定も否定も加担してるという点で同じ。
先述の通り、スコセッシの影響を隠していないジョーカーだが、こんな記事があった。
『タクシードライバー』マーティン・スコセッシ監督、『ジョーカー』に協力していたことが明らかに
程度はどうあれ直接関係してるなら、論旨には全く同意するけどおまえそれポジショントークじゃねえか!
HA-HA-HA