当時David E Kelley復帰作というので1を見て面白かった。
しかも、Ally Mcbealやボストンリーガルではなく重く暗いプラクティス系。
これまでの1話完結ではなく、1シーズンで1話という長編。
1は個人的な事柄と社会的な問題を絡めて、大枠で解決した奇麗な展開と、それでも救われない自虐性などのバランスも良かった。
しかし、2があまりに酷すぎた。
2はキャラ萌え(人間関係)など、本来は作品の装飾程度の価値観が主題となってしまい、これまでDavid E Kelley作品を知ってる視聴者からすると、いつもの崩れ方でもあり悲劇。
そもそも、GOLIATHという題名通り巨大な利権に対するのが主題なのに2は脇道が多すぎた。
そして今回の3だが、面白かった。
薬物関係の幻覚があまりに長くて、それが主題に何も寄与しない。
しかし、敵味方ともに内部で思惑が微妙に異なり、ビリー側も順調ではないが物語の始末としてかろうじて奇麗という形。
2があまりに酷かった設定や展開も今回で全てかたづけ。
舞台が都会を離れたのも良かった。
米カリフォルニア州の水利用規制と世界の動きやカリフォルニア 水管理:流域変更と水取引など利権とは別に深刻な現実問題。
自分は本作を見るまでカリフォルニアの記録的大干ばつ:2011 – 2017など全く知らなかった。
そういう意味において、本作を見た価値はあった。
2の問題は、そういう発見や教訓が無かった。
ただ過激であれば良いという軽薄さ。
貧富の比較も、蛇口はあれど水がでず、食器を洗う水すら外から買って長距離移動しなければならないという描写。
そして、物語の発端である主要人物との関係は放置。
つまり、動機と原因と行動と結果は、それぞれに関係しても直結ではないという極めて現実的な扱いも素晴らしい。
必要なのは考える契機であって翌日にはおぼえていない感動ではない。
ただ、水関係だとテンプレだが最後に水浴び。
マッドマックスだと同じ問題。
というかマッドマックスは自覚的にやっていて、本作はただのテンプレのつもりだったろうからこそ問題は深刻なのだが…
権力者が水を独占している許せない。
しかし、その独裁者を倒したあとに勝利した民衆がやったことは、水の合理的な管理や利用ではなく、無知無策の過剰消費。
本作では雨も含むので、単純なテンプレに過ぎないのだが、対戦中にあらゆる事を深刻に描いたわりに、同じ問題を、ある1点の争いが終わっただけで解決、問題が無くなったかのような扱いは果たして良いのだろうか。
聾唖が主題でもないのに手話の場面が多かったのは良かった。
しかし、手話関係者は全員善人というのはポリコレ的に気持ち悪かった。
ERのピーターベントンが父親という単語を手話する場面があるが、本作では同じ形で母とやってるように見えたが、それは自分の勘違いかもしれない。
手の形は同じで、顎が母、額が父だったかも。
Maria Bello
ERで売れた後に映画に転向するも売れず。
映画/ドラマ好きには顔も名前も知れてるので、彼女が突っ込み役でそれなりに大きな役だったのも良かった。
1を楽しめたのは彼女の経歴を既知なのも理由だったが、2以降は出番無し。
3の問題はそこにもある。
別に彼女の出番がないのは構わないが、彼女を無視して後付け設定で彼女以外の要素を無理に持ち上げて、しかもそれは作品のためではなく、単純に契約などの都合にすぎない。
つまり、消費者には無関係な理由でそれなのだから。
元娼婦のお姉ちゃんが全く脱がなくなってつまらん。
娘も役としては必要だが、もはや作品に必須ではなくなった。
階段をあがるときの尻は良かった。
クレジットを見る限り、もはやDavid E Kelleyは名前だけで関係なくなってる感じ。
今回は面白かったので自分は良いが、それでも、題材から作品ではなく、作品のために題材という、本作もよくある逆転におちいっているので、もう終わっても良いのではなかろうか。
メンタリストにも言えるが、どんなに続けても終わりが決まってのつなぎならともかく、終わりを決めずに設定と展開を続けると、結局は初期の思想や前提は無駄になり、結局は見た時間が無駄になる。
どれだけ衝撃的な事が起きようが、結局は撒き餌に過ぎないとわかってしまった時点で、そういう場面は時間の無駄にしかならない。
それなら、今回のカリフォルニア水問題など、現実問題そのものに着目して、それを全世界に周知するための商品としたほうが、商品価値があるのではないか。
終盤、元娼婦関連の話でThe West WingのEd役だったPeter James Smithが出てきたのは全く予想外で嬉しかった。