2018年10月23日火曜日

【ブレードランナー2049】当時まとめきれなかった感想

本作を見たのは2017年10月
見たあとに、幾らか感想を書いたのだが、まとめ切れずにブログは下書き放置していた。
最近、複製された男を見た人と話して、わけわからんと言われた。
あれは原作未読だが、邦題さえ無視すれば、男同士(自分)の戦いだった筈が、目的であった女が恐ろしい敵であり勝利者だった。
それだけの話だ。
そもそも、ドゥニは原作の有無に関わらず、母や女を主題の1つにしていて、そこが映像的な指向が同じでありながらノーランと異なる点。
作者の意図はともかく、見られる情報から色んな事を断定できる程度には、ドゥニの作品は配慮されている。

完全に実写カウボーイビバップだった。

本作関連のアニメを渡辺信一郎が作っているが、もともと洋画の影響を公言していて、かつてアニマトリックスを監督した流れで彼がやったのかと思ったが、本作を見たらとんでもない。
ドゥニ(Denis Villeneuve)渡辺信一郎は歳が近いが、同じ作品に影響をうけた世代として、そしてアニメを1商品として偏見なく見られる世代としてドゥニ(Denis Villeneuve)が直接渡辺信一郎を指名したのか!?
…と思えるほどに同じ道を行っていた。
渡辺信一郎&荒牧伸志、「ブレードランナー 2049」の舞台裏を激白を読む限り、実際にはプロデューサ達の決定っぽいが。
それにしても、今回もブルースリーキックをしてたのは、やりすぎではないか。

神々のたそがれ

……に近いものを感じた。
あれほど難解ではなく、少なくとも場面と描写は連続していて、単語や物体の意味はわからなくとも、物語はわかるように整理されている。

現在連載中のジョジョリオンも、ドゥニ的、ノーラン的、キリスト的な要素が重なる。
荒木飛呂彦はヨーロッパ芸術好きであり、その延長で日本文化に帰ってきた作家であるが、ブレードランナーは日本に来たヨーロッパが帰っていった話だし、その点で同じ事をやっている。

色彩の起承転結

白→→黒→白
後半の黒と白の間に青が入ってくる。
しかも、その青を担うのは女である。
巨大な裸の女。
人間が抱く色の印象
光/純粋/肯定
血/攻撃性/危険
闇/恐怖/否定
空/海/やすらぎ
白と黒は色の究極。
赤は人間。
青は場所や状況。

最後の戦いは海辺だった。
海は母(女)に比喩されるし、人類を含めた生物の始点。
海から出てきた人外が人類となり、そして人類がまた人外となったときに海に戻ってきたが、戻っただけで帰れなかった。
レプリカントも海の中では死んでしまう。

同じ環境に存在してる以上、生物として優劣があっても、環境による破綻は逃れられない。
ジョジョリオンもスタンドがもはや特別な能力ではなく、箸をつかったり絵を描いたり数学の公式を覚える延長でしかなくなった。
超能力は超越者の特権ではなく、能力の延長であり、我々人類が実現してきた事も同義であり、個人から見れば歴史の実現はスタンド程にありえない事でもある。
本作を見て、レプリカントという設定、キャラに固執しながら見るというのが、自分には理解できない。
そもそも原作にも映画1にも思い入れが無いからだが、そもそも映画のカルト的な人気は映像的な装飾にあり、言葉ではない。
レプリカントは代替可能な変数だし、人間と区別がつかない時点で、もはや比喩ですらない。

サピエンス全史を読むと、突然変異とは設定的に便利すぎるが、現実ってそんなものね。
と納得してしまう。
特に、インターネットの始まりから現在までを知っていると、人類の0から1の遅さと、1からnの加速が桁違い。

ハーレムもの

本作がほぼ赤字特に若者に売れなかったのも納得した。
例えば「みんな聞いてくれちょっと面白い話があるんだ」となんだなんだわいわいと人が集まったところで、聖書を取り出して朗読をし始める。
そんなのすぐになんだこれって離れてく若者が多いのが当然。
今更カラマーゾフの兄弟を気合い充分で映画化しても、長期で評価されても当時の短期で馬鹿売れってのはありえないのと同じ。
…とは言っても、近年では以下2作品(予算はそれぞれ1億ドル程度)と並ぶ明確でやりきった作品だと思うのだが、なぜ本作だけが売れなかったのか。
ダンケルク1億5400万ドル
マッドマックス1億8700万ドル
20498100万ドル
Arrivel(メッセージ)のメイキングでプロデューサが「ドゥニ(Denis Villeneuve)は寡作で作品の吟味が厳しいから依頼を受けてもらえるかわからなかった」と言っていたが、つまり、引き受けた作品はいずれも仕上がっている。
それにしても1脇役に過ぎない記憶博士(Carla Juri)の顔や挙動が萌えすぎだろと思っていたら、ちゃんと落ちがあった。

ハリソン・フォード

もしも本作をやるのが25年前にわかっていたら、彼を主役にしなかっただろう。
正直、25年間の重さだとか意味とか彼には無かったw
もっと売れなくとも文学系に出演してどっしりとした人がやってたら、また違ったのではないか。
前作では若さが売りだったから良かったが、今作のほうが老成に達していないアメリカの軽さが彼に集中していたように思う。
前作主人公ってほぼ確実に今作主人公よりおいしいものなのに、もちろん設定や展開ではおいしかったが、彼自身の説得力には欠けてた。
最後のいざこざで1人船内に座ってたとこ、完全にインディジョーンズのギャグ場面でしかなくて笑った。
というより、あの場面は何だったのだろうか。
ヨセフは存在にこそ価値があり、行動は無意味という事か。
あの、ただ座ってる場面は無くても、いざこざの果てに助けられた、で映画は成り立っていたと思うが。

観客への線引き

凄く感心したのは、ライアンゴズリング記憶博士(Carla Juri)にSF分析させる場面で、ライアンゴズリングの記憶を、観客に映像で見せない。
SFなら物語の核心と映像演出で見せ場の筈なのに、SFらしいトランジションやHUDなども無く、2人の無言バストショットが静かに交互にあるだけ。

字幕が小さい

日本語字幕ではなく、作中の序文やらクレジットがとにかく小さい。
もはや読ませる気がない。
模様として扱っている。
最初から、文字、言葉の存在を軽視してる。

白人の映画

基本的に白人の映画である。
ただし、別に人種差別ではなく、主導者の人種がそのまま反映されてるだけだ。
しかし、商業的に売れなかったのも、この点があるのではないか。
小説を統計で見る「数字が明かす小説の秘密」で2014年前後の小説は、作者の性別と作風が単純化されて誤差が無い。
消費者が、ある1属性のみを求めて、異属性を拒否してる。
同族の分野は広がったが、実際には先鋭化してる。
自分はブラックパンサーの盛り上がりには否定的である。
黒人とくくってるが、アフリカ系アメリカ人とアフリカ人は環境が異なる。
環境が異なれば思想も異なる。
2国間を容易に移動できるのは、人種じゃなく経済の問題であり、黒人要素は無関係である。
それなのに、土台を無視した肌の色だけの疑似統一性に酔って売れたのであれば、実に馬鹿らしい。
それと、同様に、白人の映画だから売れなかったのであれば、実に馬鹿らしい。

ドゥニにはもう少し商業的に報われてほしいと思う。
しかし、彼がディズニーマーヴェル層を相手にしない誠実さを持つ限り、それは無理なのだろう。