2018年6月13日水曜日

田辺剛のクトゥルフを読んだ感想


背景、場所や状況が、登場人物と等しく扱われている。
洋画の魅力は撮影場所で、海外旅行気分を味わえるから。
それをちゃんと漫画で挑戦した作品。
個人的に、ハガレンが稚拙で期待はずれだったのが、一見人種や文化が違う世界が描かれてるようでいて、色や形が違うだけで、それぞれが異なる根拠や理由、成り立ちも機能も変わらない、見せかけだけで終わっていたから。
異文化を知らない人間が異文化を想像してるだけ。
若い作品を、ある程度の歳で読んでしまったのも悪かった。

その点で本作は、いかに異質な歴史を描けるかが勝負であり、実際にそれをやり通してる。
田辺剛が人に興味が無い、という感じはしない。
The Outsiderを読む限り、人間の本性というか、人間の寓話を描いているから。
しかし、人間がそうあるのは場所や環境、つまり歴史に依存している、というのが田辺剛の前提にあるようだ。
それなのに、へうげものあれよ星屑のような特定の歴史を強調せず、歴史という大枠に興味があるように思える。
それでいて、その断片なんからちゃんとやらな、という感じ。
水木しげるや石ノ森章太郎の系譜か。

自分が幸いにも海外旅行をできるようになり、ゲームにせよ映画にせよ漫画にせよ、何となく味わえたら良かったものが、話せぬ言葉に見知らぬ土地での経験に勝る、並ぶものを求めるようになり、おおよその娯楽作品が自分にとって価値が無くなってしまった。
だからこそ、今回これを読んで、空を飛ぶ飛行機、海を走る船、そしてそこから見える風景、これらは神的宇宙人を見たらびびるのと同様に、神的宇宙人すげえ、そのすげえ変なのがいる世界、山や海や空がすげえ。
そのすげえ世界に対応するために我々が作ったもろもろもすげえ。
そして、それを垣間みられて、やべえ!

君の名は批判の1つに、ある人物Aの魅力を描くのに、人物Aの友人達が人物Aをどう語り、そう接するか、それが皆無だった、というのがあるが、本作は、まさに、すげえやべえのを目の当たりにする以上、そこに至る行動に関わる道具、衣服や船なども等しくなければならない、という執着を感じる。
荒木飛呂彦の漫画術で、ある分野に精通した読者が、ある分野が描かれた漫画の間違いを見つけると、もう作品の現実感を失ってしまう、だから作家はそういった環境などの背景的要素もしっかり描かなければならない、といった事を書いていた。
田辺剛がやったる事はまさしくそれではないか。
自分が軽く気づいたとこでは、状況説明のための小さなコマで、帆船の帆のひらきと風向きとマスト旗の動きが、ちゃんと一致していて、トレスなのか意図なのかわからないが、少なくとも資料をしっかり扱ってるようだった。
作家個人の分野への興味というより、作品への興味の延長として、資料を掘り下げるタイプなのかも知れない。

小説は1冊だけで、あとは漫画しか知らないが、クトゥルフがラヴクラフト存命時に売れない理由もよくわかる。
煽るだけ煽って落ちがない。
漫画では断片とはいえ、神的な宇宙人を見せられるが、これを文字で読んだところで、どうなんだろうか。
故に、これらが押井守的に盛り上がったのも、わかる。
鬼平犯科帳の原作と同じで、よくわからんから幾らでもいじれる素材である。

ラヴクラフトの時代。
科学と精神の折り合い。
娯楽作家として扱ったのか、彼自身が時代の精神に依存していたのか、それは知らない。

漫画家として女に興味が無い。
例えば、藤田和日郎なんてのは、男の生き様にしか興味が無いような作家だが、男にふさわしい女という点で、ちゃんと美少女を描けてる。
男の報酬として第一に女、少年漫画ゆえにそこをやりきれないと成り立たなかった、という事もあるだろう。
短編を読む限り、それなりに美女も描けるのに、その方面で全くやる気を感じられず、笑ってしまう。

サイイド・クトゥブは反欧米の思想を持ちながら、クラシック音楽を好んだが、本作を読んで、その一部がなんとなくわかった。
思い上がりながらも、世界を捉えようとした挑戦。
かつ、それが人間以外に何かに向いている。
そして、それが人間を感動させる。

クトゥルフはどうしたって神的宇宙人の姿と、厨二的人間崩壊が中心に扱われるが、環境をしっかり捉えて描けてこそ、それが前提であるのだなと。