2014年12月18日木曜日

民音音楽博物館「田邉尚雄」展に行ってきた

民音音楽博物館田邉尚雄展に行ってきた。

気晴らしに出かけたくて、彼を知らずに行ったが、すげえ面白かった。
音楽的な情報は皆無で、1,2枚、手書きの簡単なメロ譜がある程度だったが、明治から昭和末まで生きた知識人というのは、それだけで面白い。

いつから日記を書いてたか知らないが、展示品の最年少は13歳からで、A5かB6程度の大きさに縦書きでびっちりと書いてあった。判読できなかってけれどもw
関東大震災の時の日記も展示されていた。
同日の事は、1頁ごとを数枚に引用されてた田辺尚雄自叙伝 明治篇田辺尚雄自叙伝 大正・昭和篇にも書いてあり、外で妻と会う予定だったので妻を探して駆け回り偶然にも再会できたうんぬんという内容であった。

大学時代に大学の勉強とヴァイオリンの練習で3時間しか寝られずに蛇(蝮)を知人からもらいそれを部屋に多く干して、それを食べながらやり通したそうな。
ベルセルク(ロストチルドレン)のガッツみたいな事してたんだなあと笑ってしまった。
そして首席で終えた。
首席は蛇のおかげと半分笑い話として書いてあった。

戦時中、音楽的資料の歴史的価値から、資料を管理し守れと軍から言われた、という話には驚いた。
そういった保存について分野外の人間が考えて命令してくるなんて事があったのね。
ただし、疎開するには資料や楽器が多すぎて無理なので、この場で死守すると答えたが、結果的には資料も自身も無事だった。

文章が、客観的状況と主観的状態を区別して書いてあるので実に読みやすく、だからこそ主観的な要素の没入が半端ない。
自身の功績は、趣味の延長でたまたま社会的に評価されただで、友人から「趣味で良い目を見られるのは君くらいのものだ」みたいな事でからかわれたと、半分自負もあろうが、そう書いてあって、何となく上坂すみれを連想した。
好きこそうんぬん。
順序は逆だが、風立ちぬなやりとも言える。

展示されていた日記だが、本文は縦書きなのだが活字の日付は右横書きだった。
【日一月九】ということ。
年齢が書いていなかったが、手書きの絵と文が書いてあった観察記録では、本文は左横書きで、日記の活字日付も恐らくは右横書きではなく、右縦書きにあわせた1行という考えだろう。
横書き登場では左横書きは英語や仏語を読み書き慣れたインテリを中心に、1920年前後で新聞など一般的にも左横書きが多用されてきたようだが、そういった慣習の転換期も踏まえたインテリと考えると、更に面白い。

【交友関係】
担当教師が夏目漱石だった時もあり、指されて答えられない生徒「実は自分にもわからないのだ」と冗談を行って学生を笑わせ、その後にちゃんと丁寧に教えてくれた、という思い出話もぐっときた。
関係人の紹介に、折口信夫や嘉納治五郎もいたのに笑ってしまった。
当時からすると、東京のインテリ関係って凄く狭くて代表的な人間はいずれつながるものだったのだろうか?

彼の具体的な功績などは全く知らないが、展示されていた文章が明確で面白かったので、amazonで見たら2冊あるうちの1冊だけで1万もしやがって、たかだか30年前の本が稀少の古書として扱われている現実に苛。
英国公使夫人の見た明治日本とか。
ゲーテとある子供との往復書翰は1835年で邦訳すら50年前だから、まだしょうがないと思うけども。
しかし、日本の古本屋:「田辺尚雄 自叙伝」 検索結果一覧だと上下あわせて1万ちょいだったので、これは買っても良いかもしれない。

1年を1行で書いた経歴表だが、昭和12年の1行だけテープが貼られて全部黒塗として何が書かれていたかわからなかった。何だったんだろうあれは。

以下は民音音楽博物館への行き帰りに撮った写真。

この日は、とても良い空だった。
すげえ寒かったけど。