2020年10月10日土曜日

テクノロジーは貧困を救わない

題名は経済だが、主題は教育。

著者が2004年から約10年間、インドでデジタル技術と職業や一般教育を実践してきた結果、経験を書いてる。

結論を書くと、教育に重要なのは、全体の傾向を把握しながら、個別の問題を認識し、年単位で持続可能な知識と行動力を持つ教育者(大人)であり、子供(生徒)の自主性は確率的な幸運に過ぎず、自主性がある場合と無い場合に両対応でき、規則と自由を容易に往復が可能な環境と人材に道具(科学技術)が便乗してるに過ぎない。

著者の具体例はともかく、本書の繰り返される主張そのものは誰もが知ってる極めて常識的で何の驚きもないが、結局は不可能を自覚しながら、あらゆる手を打つ。理想論であり不動の現実である。

問題はコスト。環境が劣悪なほど、初期費用が大きく、仮に教育者が有能でも道具や環境の維持する定期整備などが必須。つまり肩をすくめるアトラスが肯定した事は、経済格差を中心に教育、知能、幸福の協力や分配に寄与しない。

女が学力的に有能になると、仕事は無いのに結婚資金がだけが値上がるなど、インド地方など環境の問題も、教材や内容には関知できないが影響する要素。結局のところ教育は、人種や性別や世代を問わずに学習する要素と、現実に可能な物理的で文化的な状況を両立せねばならない。

理解力や論理性や判断速度は主に識字率に依存する。パソコンを使えるかどうかだけでなく、ゲームをするか勉強をするか、消費するか作成するか、その実現や傾向は基礎学力に依存する。と同時に個性も影響する。

富裕層の有能な教育とは、有能は教師が9箇月*12年ずっと進捗を把握し補佐して実現する。そして、それを経験してる生徒は人口の1割以下。

[PISA]格差を埋めない学力の平均と中央の罠。上層は世界の上位に入るが下層は低能のまま。全体の底上げに寄与していない国家単位の教育政策(アメリカの格差)。OECD生徒の学習到達度調査(PISA)

結局のところ、現実に可能で必要なのは万策であり万能ではない。

教育の融通性について思うのは、例えば、ある美女が教師で、テスト結果次第では性的な褒美を与える環境で能力を発揮する生徒(男や同性愛)もいるはずだが、この方法は教育や社会が安定してるほど許されない。

当然ながら、教師や教材ではなく、生徒が問題の場合もある。学校教育だけでなく、職業訓練や業務システムなど大枠で実現可能であり実行しても、怠惰や汚職を廃絶できない。地方農業などは、教材の内容が人種や方言が異なると理由で内容が無視され取り組まれない。

これらをやる気の有無と壱蹴するか、母国語と違い交換が必要な教材と判断するか。当然ながら低能に必要なのは後者であり前者ではない。仮に確率的に前者が該当しても、底上げのためには後者が必須。

本書は結局のところ道徳論であり、理想と行動と忍耐を万人に求める。読み書きソロバンからクーデターまで人知が及ぶ行動と結果に分野を限らず言及されてる。可能なのに実現されない提供者が損をしない形の共有や、長期的な利益より短期的な損害を優先する立場や善悪の戦い。

本書の具体的な記述に当てはまらない事はいくらでもあるが、有史から当てはまる様々な歴史的な出来事から、現在の日本不況と格差を意図して継続する政府など、代入は幾らでも可能な内容であり、本書から幾つか得られる点があるが、それ以上に、発展はしても改善されない人類に辟易する。