2020年10月16日金曜日

ジョジョリオン 24巻 - これまで崩壊を避けてきた荒木飛呂彦が描いた崩壊からの再生

  • 家族の崩壊
  • 古典的な父殺し
  • この顔が描ける荒木飛呂彦
  • スキャン臭くない背景
  • 院長=レクイエム。擬人化された運命。
  • スタンドの都合の良さ。見える見えない格差。ホラー映画。
  • 戦闘は装飾。決断と行動と損失と獲得
  • 石仮面とエンヤ婆。弓矢。

家族の崩壊。これまでのジョジョは、家族愛が絶対的だった。脇役や主題としての不幸な境遇は幾らでもあったが、少年漫画という事もあり主役の家族には絶対的な信頼があった。しかし、ジョジョリオンには既存と同じ荒木飛呂彦流の肯定的な要素がありながら、これまで最初から再生を描いていたのが、その前の崩壊を描いている。主役の不都合な家族愛に少し踏み込んだストーンオーシャンすら1話で既に崩壊が終わって再生から開始されている。

これまでのジョジョは、どれだけ問題児だという設定があろうと、血筋や立場が保証され愛され歓迎されてる環境の中で存在した。つまり、いい気になってる子供と同じであった。精神年齢があがったSBRすら立場は確約されたものだった。今回は、常に謎を維持する娯楽作品としての都合があるにせよ、誰にも何も確信を持てないジョジョを初めて描いてる。

古典的な父殺し。互いに愛し合いながらも核心の違いで殺し合う展開までいくのかと思ったが、流石に憲助は殺せなかったようだ。荒木飛呂彦はベタベタをやりながら主要人物を殺すのをためらわない作家なので、その点でもやりきるかと思ったが、生存を含めて家族の再生という、結果だけなら単純なハーピーエンドに向かってるようだ。

ジョジョリオンが若者(子供)に受けない理由も、多少は納得出来る。なぜ憲助ではなく常敏なのか。荒木飛呂彦は洋画好きでも知られるが、ブレードランナー2049の影響なのか、それとも別の古典なのかわからないが、新世代が旧世代の犠牲になるのは、基本的に娯楽作品には望まれない。ジョジョリオンの場合には、立場の対立と目的の同意が両立し、そこに世代や性別や人種の問題が絡んでくる。そこには属性が正義とされ諸悪ともされる、その両方が描かれる。そういった複雑さが戦闘にもあらわれていて、本作のスタンド能力の優劣は戦闘の魅力でも決定打でもない。ある条件の中で条件内の目的、あるいは条件を超過した目的を果たせるか。ジョジョリオンが描いてるのは比喩としての戦闘であって、もうドラゴンボールをやめたと言うこと。そこがわからない子供につまらないと言われるのは、納得は出来る。

この顔が描ける荒木飛呂彦。荒木飛呂彦の作画だけに限れば、全盛時はSBR最終決戦だと思う。そして、ジョジョリオンは後述するデジタル背景など、老いや効率から手書きを放棄している箇所が目立つようになり、素晴らしい作家であり面白い作品だが、どうしても細かい変化あるいは手抜きが気になってしまう。しかし、肝心な場面で肝心な絵を描けるという点で彼はまだまだやる気がある証明。

スキャン臭くない背景。少なくとも、東方家のあれこれは手書き背景、写真加工が目立たない漫画らしい絵で良かった。荒木飛呂彦は厚い人物絵と同じくらい、空間や状況や場所にまで気がいってる、つまり人物萌えではなく出来事の総体を描ける、扱う作家だからこそ凄いのであり、いい歳した人間が読む価値がある。

他方で、コンセントやキーボードなど明らかなスキャンがあると、浮いてて気持ち悪い。もともと濃い絵の作家なので、スキャンの現実的な陰影があると読みづらいという事もある。定助と豆銑の恐らく最終決戦だろう描写で、写真の医療器具の濃淡が登場人物と重なってつらかった。

院長=レクイエム。擬人化された運命。これまで荒木飛呂彦が散々やってきたことで、人類に死が不可避で時間が不可逆である以上は、こうなるのはどうしようもない。これは東方家の家族間戦闘にも言えるが、荒木飛呂彦が描きたい作品の核心は、ある不幸に直面した時の決断と行動なので、人物の造形や人格や能力のしょぼさなど言及するだけ無駄登場人物を好きになる必要はないし、ラスボスが誰でどんな能力かもどうでもいい。盲目や難聴が健常者とは違う道具や能力をもって生活するのが難しく凄い事であるように、ジョジョではスタンドという比喩になってるに過ぎない。スタンドが見える見えない、わかるわからない、など同じ状況下での個体差を描くのに、古典的ホラー(呪い,幽霊)の手法を踏襲して違和感なく摩擦や差異を簡潔に描いている。しかも、お互いに気遣っているのに、互いの核心に気づけない人間関係をスタンド攻撃の派手さに潜り込ませてる。そして、スタンドが特権ではなくなったからこそ、より「人生」という問題に踏み込んだ作品、作家になりジョジョリオンは素晴らしい。

ただし、本作に限らないが、それでも登場人物が特権的であるのは事実であり、刑務所や留置場があまりにどうとでもなるような問題や状況として描かれるのは、個人的には抵抗がある。メンタリストの刑務所侵入とか酷かった。留置場すら厳しい規律の中で結構な理不尽が存在する場所なのに(経験談)。

石仮面とエンヤ婆と弓矢。単行本の予告で掲載されていた。特にSBR以降は、題材が優先でジョジョは名目に過ぎない荒木飛呂彦の新作という認識だったが、思ってた以上に既存の設定あるいは名前をいかそうという気があるようだ。ジョジョ自体が、もはや確認不能な過去や未来まで含めた世代間の問題、つまり歴史を描いてる作品なので再登場自体は当然ではあるが、それがファンサービス以外に意味のある事ならば、楽しみ。荒木飛呂彦は、過去の肯定をあっさり否定したり、現在の至上を切り捨てたり、凄く明るく容赦ない作家なので、その点で、彼が何を選び、そして何を切り捨てるのか、ジョジョリオンの見所はそこだと思っている。誰萌えとか誰強いとかで騒ぎたい子供は少年ジャンプ時代のジョジョを読めば良い。

これまでのジョジョは、特に2部から6部までは世界系の側面があった。それは、週刊連載と年単位の長期連載を両立するために必要な娯楽性のために商品として世界をかけた戦いを描かなければならなかったから。

*厳密にはジョジョは主役や読者の自己愛や自己増長ではなく、自己肯定しながら自己犠牲をする、利己主義と利他主義の両立は可能なのか、それは動物の本能として当然であるのと同時に、人間が抱く思想にもつながる、という事をやり続けていて、思春期の自己陶酔が根本である世界系とは全く異なるのだが。

と同時に、1部,4部は家族や世界の局所に限った内輪話を描写や意味において大きくした作品も描いている。本作ジョジョリオンがつまらないと言われる理由は4部が3部や5部よりも(当時)不人気だったのと同じだろう。子供には名目や具体的な問題が小さすぎる。しかし、大人には小さな1つの問題から複数の問題を連想できて、身につまされる事に溢れながらも面白い。

ジョジョはそれぞれに好みや浮き沈みがあろうとも、終わり方だけは全て素晴らしかった。そこには、人生の喪失が前提にありながら、何か1つ納得できる形の獲得があれば幸福と言えるのではないか、という人生観が集約しているから。そこには、誰もが幸せなんて甘えた考えは無い。損失を思い知った上で幸福を見出せという、厳しいもの。それを視覚的にグロいのに全体的に溢れる陽気さと、肝心なところでしっかり思い知る喪失感を両立できてるのだから、今更ながら荒木飛呂彦がなぜそれを実現できてるのか、それが不思議だし、うらやましい。