2019年10月12日土曜日

運び屋 - クリント・イーストウッドが作ったディズニー映画

Amazonで100円だったので運び屋を見た。2019年に見た映画で満点をつけたのは4本だけ。

その内の1本にクリントイーストウッドの15時17分、パリ行きがある。これは間違いなく名作。人生に失敗も成功も等しく、ただ些細な何1つも無駄にせずに生きる事で奇跡につながる場合がある。それを撒き餌もなく過剰な演出もなくやりきった名作。本作がこれを簡単に飛び越えた名作だったらどうしようかと思って見たら杞憂だった。

作品自体は面白いし、極めてまとも。しかし、作品内の登場人物は、全員が立場と役割が明確で、描かれる善行も悪行も、誰もがわかる価値観で、観客が何かを見いだす余地が全くない。そういう意味で、何も得るものがなかった。

たしかにイーストウッドらしい価値観もあった。例えば、ニグロ。急げと組織に脅迫されてるのに、麻薬輸送の途中でパンクに困ってる人を見かけて助ける。パンクの人は黒人だったからニグロと呼んだら、我々は黒人だニグロと呼ぶなと怒られる。しかし、黒人はイーストウッドを追い払わないし、イーストウッドもニグロと呼んだだけで、それ以外に彼らに差別的な言動をするでもなくパンクをなおす。そもそも、パンクで困ってる人種が黒人だとわかった上で助けている。

つまり、差別意識と差別行為は異なると言うこと。自分の属性、白人だったり男性だったりを至上という認識は誰でもある。その上で、それを基準に、それ以外の属性の行動を阻害するのは話が別。男は女を馬鹿にするし、女は男を馬鹿にする。それでいいのだ。

肝心なのは、男だから女だからという理由で何かを禁じるのが間違いなのであり、男女共通で厳格な基準で禁じれば良いだけ。

本作では、自覚的に主役が古く差別的な人物だと描いてる。それを正しいと見せていない。と同時に、インターネットなど、ある1部の不備で何1つ出来なくなる現代の依存や不備も批判している。結局のところ、いずれも万能ではない。それを自覚した上で選択する能力が必要だという話。

車を運転してる時に歌う場面が凄く多いが、これ完全に仕事のつもりなくて趣味でやってるだろイーストウッドw 彼はピアノも軽く弾けるが、8分の細かいリズムは右手で4分や弱拍は左手だった。

本作はパーフェクトワールドに対する自らの復讐にも見えた。 葬式後の車から逮捕までのくだり。 パーフェクトワールドの時イーストウッドは脇役だが極めておいしい善人役だったのに、本作はパーフェクトワールドと立場を逆転して、自らが悪行も引き受ける形になっている。 見せ場など、ほとんど全編ロケで、音楽で煽る事もせず、人物と環境(場所)は等しいのだとわかってる演出。 最終決戦的な場面すら音楽を使わない演出はナイトクローラーにも通じる素晴らしさ。

その他、些細な事だが…

  • ジゴロって日本語じゃなかったのかw
  • 麻薬組織も絶対悪ではなく、犯罪者だが悪人とは限らないという描写が多くある。

退役軍人会のパーティでF長調のカントリー曲が演奏されてる場面がある。最後にCからF、所謂ドミナントモーションで歌が終わる、教科書通りの展開なのだが、なぜかFに着地したあと最後の小節だけGに転調して曲が終わった。転調する理由が全くないのに最後の最後だけFからGに展開して凄く気持ち悪かった。なんであんな事をしたのだろうか?

本作はミスティック・リバーの後のグラントリノのように思えた。 価値観そのものを問う作品から、誰でもわかる同じ価値観の話。 そういう意味で自分は前者を肯定して、ミスティック・リバーは素晴らしくグラントリノはつまらないと思っている。 なんだよあの最後のキリスト踏襲とかふざけてんのか、とか。

そういう意味で、15時17分、パリ行きを大絶賛で本作を退屈と判断したのも納得してる。そもそも脚本がグラントリノの人だったのも見終わってから確認して納得した。1作家としての幅、前作と異なる基準の作品をやる姿勢自体は素晴らしい。長期的には、そちらのほうが長く見られるし評価される。

ただし、本作はイーストウッド映画を好んで見るような層には、全く思いつかず考えつかない価値観の提示が何1つ無くて、そういう意味で退屈だった。イーストウッドがディズニー映画を作ったらこうなる、という感じの作品。