2018年10月31日水曜日

【あれよ星屑】完結したので最後まで読んだ

あれよ星屑 7巻 (ビームコミックス)
4巻(2016年)で1度読むのをやめて、久しぶりに5巻以降を読んだ。
人間関係は記憶してつもりだが、改めて1巻を読み直したら、中盤から出てきたと思ってたキャラも序盤からいたし、最後の露骨でやりすぎだと思ってた死神も、1巻に出ていた。

序盤では、どちらにも取れるような演出なので、その程度と流して読んでいたが、全7巻と長いわけではないが、連載独特のブレも無く、最初から最後まで決めてから描かれたようだった。


どれほどの連続性があるかわからないし、それこそ縄文物からも見いだせるが、アジアの中で日本の過剰な潔癖さは、やはり、この時代の反動なのだろうか。
日常的に食べるものが、食べ物ですら無い物も入った料理を食べざるをえない時代の。
もっとも、どこの国でどう加工されたかわからないものを毎日食べてる我々も、そう言うほど変わらない状況とも言えるが。
我々人類は、生死に関わる飲食物に案外無頓着であるのだなと。

序盤は、もっと漫画的な謎解きがあるような作品かと思ったが、違った。
一応、彼らの戦中の行動や事情が、最後に明かされるが。
5巻の冒頭など、大概の漫画では許されぬほどに、退屈である。
1話丸丸かけて舞台の内容と観客の反応を描いただけ。
漫画の娯楽性なんぞ知ったことかと、あくまで見やすい媒体での紹介なのだと。
作者にとっては何の疑念も無かったのだろう。
序盤こそ登場人物のやりとりが多いから、そこまで思っていなかったが、後半で、登場人物の核心とは異なる当時の描写のみに気にかける姿勢は、作家はともかく、よく娯楽媒体として許されたなと。

本作は、とにかくセックスが多い。
戦後の不安定な環境で女の被害を描くのは当然だが、そうではない日常場面においても、知り合い同士の同部屋での乱交など、娯楽作品に不要な汚い男も描かれる。
男はセックスできるなら死んでもいいし、女は生きるためならセックスする。
バブルのようなあきれるほど奔放な時代には簡単にやるし、戦後のような厳しい時代にはそれしか出来ずにやる。
いずれ、肉体に縛られて、その単純さを合理的にこなすか、不条理と反発するか、その価値観から逸脱できない。
だが、女は当然ながら、男に避妊意識があり、本作はそれがどう終えるかも忘れていない。

終盤は、急に現代的な価値観による解釈と希望が語られて、違和感があった。
特に、この後に現代があるのではなく、バブルの後に現代なのだ。
つまり、戦後復興から現代の再起ではなく、戦後復興から大成したと思ったら破綻した上で現代の再起なのだ。
何が失敗だったのか、結論は出せずとも意識はあった筈なのに、どうしてこうなった。

日本人の主観で描かれているが、戦争の善悪や、日本人正義とも扱われない。
ここが現代的で、Nhristopher Nolanダンケルクも、ナチス批判をしていない。
あくまで、状況を作り出す環境の要素として、各国の人物と行動が描かれるのみ。
だから、日本人の犯罪的な行為もあるし、鬼畜もいる。
碁を打つ女もそうだったが、ある善人がいて、同じ人種の悪人、あるいは凡人の軽挙妄動がり、例えば、それが日本人であった場合に、我々は意外と前者だけにのめり込まず、後者の存在を含んだ上で読める。
つまり、登場人物の異なる立場を認識してる、という至極当然の事なのだが、戦争や恋愛の作品類は、当事者で無いにも関わらず、なぜか属性の意識が強く、仮に少数派であっても悪の存在を否定する傾向が強く発現する。
他人事だからと知識や危機感を持たないのは愚かだが、宗教と物語が密接なのは、自己肯定と共に客観的理解をするためではないのか。

実際に、我々は、もはや戦争の原因や目的すら、よくわかっていない世代である。
あるいは、当時の国民多数派ですら、そうであった。
だからこそ、日米衝突の根源 1858-1908のように、それぞれの当時世代が認識できなかった連続性を見いだせるし、学ばないといけない。
ピーマンを嫌いなのは自由だが、ピーマンの栄養を知らず、料理もできず、代替もわからず、ただ嫌いだから食べないのは、子供の1時期しか許されない。

ユダヤ人の起源: 歴史はどのように創作されたのかを読んでも、普遍宗教の利点は、環境/人種/場所に依存しない点なのに、その普遍宗教を口実に、当時その場所にいた人種とは遺伝的に無関係な人種が場所を奪うという本末転倒が起こっている。
これを書きながら、今思いついた事だが、なるほど塗仏の宴 宴の支度の登場人物の当事者性とは、こういう事だったのか。
たしかに絡新婦の理では日本人ユダヤ人説の1部を扱っていたなと。

最終巻は、きつかった。
この日本人像は、今でも残っている。
敗戦による集団的な絶望は無いが、環境や関係による失望の自殺は、益々増えているのではないか。
封印再度では奇麗な景色を見て、奇麗だから死のうと思うのが日本人と解釈している。
Mr.ホームズ 名探偵最後の事件でも似たような価値観が見られるが、生きようとした上で死ぬのならこういう景色が望ましい、というもので、封印再度とは土着的な価値観が似ていながらプラスとマイナスくらいに真逆であるように感じる。
レイリとも通じるが柳田格之進的な精神、義務感。
それが日本の平和を支えているし、異常性でもある。