2018年10月30日火曜日

手塚治虫の美少女ゲームはオリジナルにあった要素を装飾じゃなく意味として継続しているのだろうか「ブラックジャックの顔問題」



自分の手元にあったのは秋田書店の新装版で7巻に収録「友よいずこ


手塚プロが許可してる時点で、少なくとも公式にとって、取るに足らない事。
消費者(ファン)のほうが認識が激しいのは、よくある事だが、商売と思想を両立できずに崩れていく様は、悲しい。

手塚治虫それ自身が幅広く、無茶苦茶な作品だってある。
アニメ的な萌え第一世代であるし、こういった商品展開が悪いのではない。
しかし、例えばかたわ少女のような展開のほうが、いかにも手塚治虫らしいのではないか。
受け入れがたい事を容易に受け入れてしまう描写と演出。
それが手塚治虫が異常に秀でていた1つであるのに。

池波正太郎の遺族は柔軟で有名だが、それでも相手をそれなり選んでいる。
例えば、任天堂も2次にはかなり寛容だが、いざ自社商品にする時には慎重だ。
手塚治虫の作品が、言うほど語られる機会が無い、減っているのは、作品の質ではなく、会社の方針の結果ではないか。

例えば、個人的に1番好きな手塚治虫の作品は陽だまりの樹だが、市場格差がそのまま手塚プロの扱いよ直結して扱われているように思う。

時代にあわせた軽薄な展開は、何にでもあるし、しかたない。
というより、こういったオリジナルにあった要素が、視覚的ではなく、意味として継続しているかどうか。

評価の長寿は、そこにあるのではないか。
手塚治虫の作品的な血統の1人である荒木飛呂彦が連載してるジョジョリオンを読んでると、そう思う。