2017年9月23日土曜日

【沈黙】マーティン・スコセッシの映画を見た感想

  • 1633年から1682年。
  • 窪塚の妹が可愛い。佐藤玲石坂友里らしいが、吾我が認識したのは1人で、写真を見る限り恐らく石坂友里
  • 映画としては珍しくもないが、それでも極端に俯瞰の構図が多かった。神視点という事だろう。
  • スコセッシが70過ぎてこれをやれるなら、ノーランが老成したらどうなるだろうかと楽しみになった。
  • 宇宙、空、海を見ると悩み(人生)がどうでもよくなる、宗教とはそれに具体名(固有名詞)をつけたもの。無関係な出来事に連続性を見出して自身を孤立させない。あるいは実際に連続している事に意図して入る。自分の死を無駄にしない代償として自分以外の死を過大評価する。
  • 花鳥風月とは、納得いく死に場所を見出す思想なのではないか。
  • 通訳が渡辺謙から浅野忠信に変更されたらしいが、これが大正解。今回、実においしい役をやりきっていた。これまで日米いずれも彼のわざとらしく抑えてる感じが凄く嫌いだったが、今回に至り、無骨さと冗談をうまく織り交ぜた弁えた強さを持って素晴らしい仕事だった。日本語台詞になると途端に嘘くさくなってるのも笑った。
  • 個人的にはキリスト教の問題というよりも、ヨーロッパの傲慢の結果だと思っている。布教する国の言葉も学ばずに真理だとほざいてる連中。
  • ロヒンギャや北朝鮮に対してイギリスは何をしているのだろうか。
  • そもそも生まれ育った環境と事柄と無関係な普遍宗教は宗教なのだろうか?
  • その無関係さこそが真理と錯覚する理由ではあるのだが。
  • 本作でも言われているが、暑ければ薄着、寒ければ厚着、必要に応じて変えられるのが人類の知恵であり、なぜ宗教はそれが許されないのか。
  • ある程度の厳格性こそが宗教の条件であるし、キリスト教の問題は、聖書が存在する限り新世代が旧世代になった時の更新が無い。
  • そもそも英語が無かった時代の出来事を英語で有り難がってる時点で、すでに歪んでいて、その柔軟さは文化の強さであるが、その変化を認識せずに普遍性を説いてるあたり実に愚か。
  • 本作でゼウスも出てくるが、すでにギリシア神話の断片を無理にキリスト教にはめこんだり、作中で言われる通り、日本に教えるために大日に代替したり、日本に限らず、結局は既知に代替するしか身近にはならない。
  • 海磔刑の後の火葬。あれも場面の連続性を無視すれば、複数人がしっかりと準備して実行した立派な葬儀であるし、あそこだけ見れば、あれだけで宗教である。作中でも言われるとおり、ある場所である集団が共有したものが宗教であり有意義である。存在を否定しているのではなく、ある場所においては不要あるいは有害であるというだけだ。武力が日常的な時代の不幸。
  • リーアム・ニーソンの逆さ吊り。ラーズがジョーカーと同じ逆さ吊りされてる!とメタに笑ってしまった。
  • そして、構成や意図からダークナイトが思ってた以上に宗教映画であったのだなと。アメリカであそこまで受けた理由が今更ながらまた1つわかった。当時から宗教的な引用や参照は指摘されてたし明確だったが、なるほど殉教者の境遇と葛藤をキャッチィにするとダークナイトになるのかと。実際にヒース・レジャーが死んで宗教的(カルト的)盛り上がりもあり、あれはあれでどうなのかとも思ったが。
  • 死に際に苦しまず幸せでいられるのが宗教の存在意義である。現代でもそうだが、苦しむための、苦しませるための宗教の問題点を宗教自体が解決しないといけないのに、そもそも自己肯定の増長であるから、それもまた無理な話。なぜ白人にキリスト教が浸透してしまったのだろうか。宗派を問わずにキリスト教と1つの集合を浸透させたのは偉大ではあるが、その大きさ大雑把ゆえに結局は宗教の動機と目的が失われて機能していないというのも。
  • 現代でも幾らか残っている文化ではあるが、それでも近年で欧米文化を強く受け入れて、当時反発していたが故に残っていた環境、景色が今ではすっかり日本から失われて、作品で肯定されている日本風景が他国(台湾)で撮影されているのも皮肉である。