2015年8月25日火曜日

無能の自己弁護に「文系」を免罪符にする人達

私がミステリーが苦手なわけ
この記事が酷い。
論理性が強く好きになれない、というのはわかるが、理数系に対してあまりに無理解で、こういう人達が不要な文系的な要素を増長させ、結果国立大26校、文系学部の改廃を計画みたいな事を招くのではないか、何て事を考えたり。

論理に理文は関係が無い

例えば、漢字は部首など共通した部分の集合が多くあり、漢字はa+b=cである、とも言える。
日本語の文法だって論理だし。
数学は、各国語よりも文字数を少なくした単純化抽象化の極地であって、人間が理解して再構築した説明証明という論理性は理数系に限らず、もっと言えば文字と言葉を使う限りは論理性からは逃れられない。
何故なら、論理というのは、個人の思い込みで終わらせない共有しやすく整理した結果だからだ。

ミステリ小説にある程度の論理性があり、それを理系的というのもわかるが、理系と違い条件と結果が因果とは限らずどうとでもなる、という大雑把さがミステリであり、その厳格さの欠如こそが読者獲得の理由でもある。
で、これが、文系的には、話の想像する余地や話の広がりが限定されることに萎える。たとえば恋愛小説なら、終わり方は誰とくっつくか、どこまでいくか、なんなら結末を読者に想像させるような、あえて結果を書かないはっきりしない終わり方もある。(例:辻仁成『冷静と情熱のあいだ』より。最後の一行、主人公が「大きく深呼吸をしてからユーロスターのタラップに足をかける」)
曖昧さが文学の妙であるのは全く同意する。
しかし、起承転結や序破急、またはお約束といった定番、王道とも言われる論理(様式=公式)は文学にも多くあり、むしろ私小説でなければそれらの論理は無視されるどころか下地となっている。
正解が、本当の終わりがないのだ。
理数系、数学にだって正解が無い、値を断定できない解、という事だってあるし、無限という概念は理数系にもあり、無理数のような割り切れない概念もある。

例えば経済学の21世紀の資本は理文のどちらだろうか?
経済というのは人間がそれぞれ価値観の思い込みで成り立つもので文系だが、それに使う貨幣の運用、統計などは理系だ。
著者も理文をまたいだ学問とかもっと仲良く的な主張をしていたが。
例の記事は、読書好きを自認する人の定型文として幅広くと自称しているが、例えば21世紀の資本のような分厚く理文が混在した専門書的なものを小説や漫画と同じ配分で読んでいるのだろうか?
別に21世紀の資本を読んでる必要は無いし、書籍による優劣は無い。
ただ、読書=小説やエッセイ、など明確な暗記や把握を不要とする印象だけで成り立つ自己満足の増長だけを読書と言う人も多く、それも日本教育の失敗だと思っている。
別に、小説や漫画を娯楽だけで読むのは自由だ。
しかし、幅広く読む読書好きが分野など限定的な選書なんてよくある話で、ならば自称しなければ良いのに。
幅広く読む読書好き自称サバサバ女と同じものと認識してる。

例えば、音楽や将棋の1流は数学が出来なくても数学的(論理)な応用があって、それは印象など文系的感覚の否定では無い。
この記事の論旨は、ピーマンの味が嫌いだからピーマンの栄養素を認識せずに食べない子供と同じ。
ピーマンを嫌うのは自由だが、ピーマンが含む栄養素を無いと言ったり、ピーマン以外にもある栄養素がピーマンにしか無いと言うのは無知の誤解であり害悪だ。

それに、これは明確な統計が無いが、理数系は基本的にミステリを読まないだろう。
何故なら、前述の通り、条件と結果が因果とは限らず創作としてどうとでもなる、という大雑把さがミステリであり、それは推理(計算)の正否を確約するものではないから。

専門家じゃない文系と自認する人って自己満足を過大評価する癖に理数系の実態を誤解した過小評価が多過ぎる。
つまり頭が悪い。

知識が無いのは悪くない。
しかし、無知が体系を無視して、体系が含む、または含まない要素を誤解で断定してるのは害悪なので、これらを淘汰するのが教育である筈なのだが…。

これは偏見だが、こういう論理性を印象で判断する人が、論理的な言動を冷たいなどと評価するのだろうな。
前述したが、論理というのは、個人の思い込みで終わらせない共有しやすく整理した結果なのに。