読み始めた頃は、これは学校じゃなくて荒廃した世界の生活として色色と描くべきじゃないか、と思っていたが、それは3巻以降で覆された。
なるほど、これは学校じゃないと出来ない、学校を描いた作品だ。
これはLEGOムービーなのだな。
- 個性を主張して社会からあぶれる未熟さ
- 集団に甘んじて個性の無い愚かさ
現在ドラマをやってるすべてがFになるがどうしてゴミカスかと言えば、その点なのだ。
ドラマの第1話では冷たい密室と博士たちが放送されたが、ドラマでまるまるカットされたが原作は以下のようなやりとりから始まる。
「犀川先生のお考えになった微積の問題ですが、ここの微分方程式の一般解を求める部分が、高校生の教科書には載っていない。力任せに計算すると、ちょっと三十分では解けないのではないでしょうか」このシリーズの魅力は、事件や犯人じゃなく、こういった常識とされるものへのちょっとした疑問と論理展開なのだが、ドラマはそういった社会哲学的な要素を無くして、更に構成やキャラ設定も変更して、とにかく何のためのドラマ化わからないゴミを作り出した。
「僕もそう思っています。でも、yを左辺に移行して微分することに気がつけば、五分で答えにたどり着くでしょう」
「それに気がつくひとが何人いると思いますか?」
「たぶん、一割か、二割でしょうね。いけませんか? それが試験というものではありませんか? 少なくとも、この問題で人間をフルイにかけようというのですからね、全員が解ける問題を作ったって仕方ないでしょう」
「そういった閃きが必要な問題は、敬遠されますよ。そういう問題が出ると評価されることは、イメージ的にマイナスです。やはり、平均点が六十から七十くらいにはしてほしい」
「わかりました。では、僕の問題は取り下げてください」
「いや、この問題が優れているのは確かなんですよ。何か、もう少し、エレガントでシンプルなものに工夫できないでしょうか?」
「エレガントというのは、閃きが必要だという意味ではないのですか?」
ビッチ最高。
しっかりと自分があるビッチ。
生き方の1つとしてビッチがある。
そうでない女を否定しないし、ビッチを肯定しているわけでもなく、自身の利害としてビッチがある。
作品自体がセックスから逃げず、欲望や利用価値としてセックスを描き、コマや頁量としては少なく、あくまで作中の必然としての描写だけで娯楽作品として問題になる、喜ばれる程度に過剰には描かれていない。
男に惚れても、男への好意は本心であり、立場上男と対立すれば男への好意と男からの好意も利用して男から奪う。
ビッチに限らず、
仲間ではあるが、互いに核心は異なり、
核心は異なるが、互いに仲間である。
この距離感が素晴らしい。
コダマの谷にも通じる仲間と個別の距離感。短編ながら生き様(ハードボイルド)作品として、これも素晴らしい。
L.A.CONFIDENTIALも利害関係と仲間意識が異なりながら結びつく感じが同じ要素と言える。
義理の親子感も素晴らしい。
互いに遠慮し距離を感じながら、互いに愛し合っている義理の親子最高。
ここはグリーン・ウッドの池田光流やマン・オブ・スティールとかね。
主人公は、COWBOY BEBOPのスパイクのようであり、海皇紀のファンのようであり、序盤では前作主人公的な万能さを見せるが、設定と物語はしっかりと主人公の問題も描き、天才と凡人の優劣とは異なる対立もある。
この点も、全肯定であり全否定でもある点。
主人公が切れるのを必死に耐えるところは、マン・オブ・スティールの幼少期ともかぶる。
演出は似てるが、意図は異なるが。
極東学園天国の場合は、よく笑顔を見せる主人公の狂気のため。
マン・オブ・スティールは将来覚醒するも幼少期において未熟ゆえに我慢しなければならない環境を。
修羅の門のレオン編の陸奥や、アーカム・シティのバットマンに比べると、主人公の感情を全部描いてしまったのが残念だとも思うが、天才(主人公)もまた未熟の1つに過ぎないという教育論も本作の核心なので、これは好みと合わなかっただけで作品としてはやりきっている。
後半のお祭り感はぼくらの七日間戦争を連想した。
あの作品は主義主張はなく、ただ反発と、勢いで若者を釣り上げた今見るとかなり酷いのだが、それでも子供心に子供の冒険的な楽しみがあった作品だが。
自由を投げた石に例えたり、哲学的な台詞も良いのに、それらの意味を全部説明してしまうのが、少年誌なんだか青年誌なんだかよくわからない、もったいないところではあった。
色色な作品と共通し、それでいてやりきった作品が少ないなかで短くもやりきったという点で、素晴らしい作品だった。