和音や音程や音色のゴリ押しで、歌並の表情が無い。
坂本真綾 独白を聞いた時に、酷い典型例で聞いていられなかった。
上記の動画は映画や舞台の音楽を管弦楽でやったもので純粋なクラシックではない。曲に関しては何の思い入れも無く気紛れに聞いたに過ぎないが、それでも4分10秒の素晴らしさと言ったらない。
ポップスで言うところのサビ、曲の主題を演奏してるが、演奏の強弱が一定ではなく、フレーズ内、1小節内で大きく揺れ動いて、波がありつつ充分な体感音量もある。
坂本真綾 独白に限らず、歌手や曲調や演奏や編曲など肯定的な興味を持っても4小節と聞いていられない理由の1つがそれ。
最低でも4人(弦カル)のプロを呼んどいてシンセパッドやエレピと同じコードを埋める程度の感覚でしか無いストリングスが多すぎる。繰り返すが、和音や音程や音色のゴリ押しで、歌並の表情が無い。
この楽器や演奏の表情は多彩で、また所所が弱くても旋律として成り立つくらいの音量は演奏またはミックスで維持できる。
そして、シンセのシーケンスにも言える。凝ったものは1つの楽器のようでいて3種類くらいの音色が入れ替わり立ち代わり様々な強弱表情の波があり単調なのに複雑。それがリズムや音程が単純なのに豊かになる1因なのに、1音色(楽器)につき表情は1つ(フォルテのみ)という怠慢が多すぎる。
演奏者は何も悪く無い。そもそも編曲や指揮が演奏者に指示を出してないのがおかしい。あるいは無頓着なP。
曲によって意図するものは異なるが、そもそもストリングスの強弱の波が曲の何を阻害するというのだろうか?
クラシックは代々編曲とミックスを兼ねていて、だから強弱記号が生命線の1つであった。その様式を採用しながら、その原理を無視してゴリ押してる曲は比喩ではなく事実として吐き気がする。
折角予算かけてストリングスの表情が豊かなら何回でも聞いていられたのに、それが欠如してるから4小節も聞けない曲が溢れてるのは悲しい。