2020年4月23日木曜日

TALES FROM THE LOOP - ノーランやテッドチャンと似て非なる決定的な違い「世界と感傷」の関係

1話を見た段階では、構図はノーラン内容はテッドチャンだと思った。
世界の構造が感傷を生み出すが、感傷は世界を変えられない。
それ自体は、2話以降も変わらないが、本作は感傷的に過ぎる。
SF設定が作品の決め手になっていない。
結局は、家族の喪失や自己の増長など、個人と過去に集約している。

テッドチャンとノーランとブックオブライフがやべえわけ

本作は、言うなれば、SFの癖して未来を描いていない
Googleの広告が、過去の統計から「これから買いたい商品じゃなく、既に購入してる商品」を羅列するが如く、過去を素材に過去(現代)を描いてるだけ。
視聴者の[時代/環境]からはありえない超常が常識になった時、社会や個人はどうなるのか。
そして、その断片を見た我々(視聴者)が、ありえない未知が一部限られてるとは言え既知になった時にどうするのか。

テッドチャンもノーランも感傷的である。
しかし、彼らが素晴らしく恐ろしいのは、[環境/状況]は主役と同等。
あるいは、それ超過の存在であると自覚している点。
神を求めて、あるいは神の如く可能になっても、それは常識になるだけで人類(個人)の幸福を保証するものではない。
ノーランやテッドチャンの感傷は「断片だと自覚したからこそ」の感傷であり、世界を見えてない「自己中心の感傷」ではない。


[環境/状況]は[個人/人間]に勝る問題は、リメンバーミーブックオブライフ問題にも通じる(前者に対して後者の視聴者が少なくて論じられてない)。
メキシコの死者の祭と音楽、同じ題材でありながら、根底は全く異なる。
ある時代以降の人間の道具(写真)が「あらゆる生物の魂のよりどころ」だと思い上がった個人(人間)のリメンバーミーと、メキシコは世界の中心であると冒頭で宣言しながら、魂は蝋燭の火、つまり宇宙の存在と同時にあり続ける熱的な[運動/存在]が人間であり、世界の断片に過ぎないという自覚ありきの中心宣言したブックオブライフ
本作は、明らかに前者(リメンバーミー)よりである。
結局は個人の感傷のために世界設定があり世界設定が無くても成り立ってしまう

言うなれば、本作はスタンドバイミーであって、物理法則の延長にある文化と社会に縛られた感傷の一部を示したウォッチメンArrivalでは無かった。


作品の優劣が論点ではない。
ただ、SF的な要素を作品の売りにしてるようで、主題は明確に1つでSF不要の感傷だった、というだけ。

感傷と世界は不可分だが不等である。
そこを自覚して思い上がらずに挑戦するのが[作品/人生/SF]である。
と認識してる身からすると、本作は雰囲気だけで終わってしまったように見えて、指向は好きなだけに残念だった。

そういう意味において、本作は題名がそのままTales
別に、社会とか世界の根底にまで向かったものではないと、最初から宣言しているから、勘違いして見た自分が間違ってたのだろう。