気まぐれに購入して飲んだだけの生茶。
しかし、飲んでる最中にそこらに置いてるのを見かけたら、濃淡のバランスなど、極めて様式的なのに妙に感動してしまった。
個人的に、造花を造花として認識してる時点で、認知的な効果は無いだろうと考えていたが、ペットボトル1つで奇麗とか置いとくつもりになるのだから、充分に機能するのだろうと見直した。
最近だとDetroit: Become Humanがアンドロイドの売春を扱っていて考えた事。
個人的には火の鳥/手塚治虫が考える契機であったが、ボタン1つで自由に対応が変わる存在にどこまで愛着を抱けるのだろうか。
犬猫すら幾らかの反抗があるからこそ我々は安心するのに。
…と考えていたが、思ってた以上に人間の抱く幻想/宗教の認識は強く、ペットボトルで感動を出来るなら、そら高度な愛玩品など全く問題なく認知してしまうのだろう。
そもそも、仕事で愛想が良いだけの異性に簡単に惚れて事件を起こしてしまうような人種がいるのだから、人間の認知において事実/前提なぞ全く無意味なのだろうか。
生茶のペットボトルを見て、そんな事を考えた。