2019年8月23日金曜日

愛の調べ Song of Love - 嘘を突き通す真面目さと、隆盛から失うという経験を獲得するのが人生


【動機】

寝る時にランダムで流す音楽。
偶然にSchumann: 4. Sinfonieが流れて良かったので、ロベルト・シューマンを読む。
すると、凄いのは妻クララとわかる。
そこで彼女に関する色色を探す中で、今作に到着。

1947年

今年見た映画で満点の1つ赤い河の前年。
そのせいか、ブラームスがベルタを仲介する場面など西部劇ガンマンの機転でありヨーロッパ音楽家には見えなかった。

【ベルタ】

理想論のロベルトをあしらう、反論するなど、過剰な友情もなければ単純な主従関係でもない、素晴らしい脇役。

【子沢山】

クララは8人を産んで7人を育てた(1人は死んだ)。
その子供の描写が素晴らしい。
ディズニ的というか無声映画的というか、場面転換の意味をわからずに赤子が出てくる。
その赤子を拾うと別の子供が出てくる。
それがまるで無限に続くかのように次次と登場する子供の演出。
その後、子供が起こす些細だが苛立つ事をしれっと笑いとばすクララ。
映画は理想像であるが、彼女の歴史を知るに嘘とも言い切れない程度の人格者ではあったようだ。
自分としてはメアリー・クロフォード・フレイザーを連想した。
実際には幾らでも問題があったろうが、大枠で些事にとらわれず知的に真面目に生きたであろう人だったのだと。

【女権】

絹のドレスもダイアの靴もいらない。
言葉だけだと男の望む女に過ぎないが、それとは別に、無駄な装飾に走らず核心を選ぶ女の自立でもある。
男女の望む結果は異なれど、必要な結論は同じ。

【ピアノ】

キャサリン・ヘプバーンのピアノ演奏が素晴らしい。
16分で動いてるのに4分しか弾いてないなど細かい問題はあるが、ピアノを弾けないなりに、弾いてるように見せる努力をしてる。
大枠で音程とリズムは合っている。
逆にロベルト役は酷かった。
クララに捧げる曲の頭1小節で指と音が違って笑ってしまった。
クララに対する興味で見た映画で彼女の本も読もうとしているが、嘘を嘘と自覚しながら全うするキャサリン・ヘプバーンにも興味をもったので、クララとあわせて彼女の自伝も読もうと思う。

【AとG】

ロベルトはA(ラ)音の耳鳴りに苦しんだらしいが、映画ではG(ソ)音だった。
佐村河内守A音の耳鳴りを演出していたが、これはシューマン的な伝説に便乗したのと、何故A音かと言えばピアノを中心とした12平均率の基音で楽器演奏者が聞く頻度が高い男だから。

【余談】

*余談だが、彼(佐村河内守)の手話は嘘である。
佐村河内守
自分は、単語を全て指摘できるほどの知識は無いが、The WEST WINGマーリーマトリンに惚れて幾つかの手話(単語)をおぼえて実際の手話を学んだ時期があった。
日常的な手話者は単語の形と意味を理解して文章にするので、動きが早くても手話(単語)の動き/始終が明確である。
白黒白黒という感じ。
しかし彼は、必要な文章を手続記憶の輪郭だけで短期的に記憶してるので、白灰灰黒と単語の区切りが無い。
彼は間違いなく日常的に手話を使っていない。
坂本真綾
彼とは別の話だが、坂本真綾 20周年記念LIVE“FOLLOW ME" at さいたまスーパーアリーナにおいて彼女はDb/Keyの最初のコードDbを間違えてDbmを弾いた。
これはKeyとコード(和音)の意味記憶とピアノ演奏の手続記憶の両方で長期記憶になってる人間にはありえない。
つまり彼女は、Key/コードの長短や触るべき鍵盤の色や形を既知でも無視して、だいたいの指の位置だけで手続記憶した結果、コードを間違えたのである。
天才の逸話にせよ、それに便乗した者にせよ、真面目に天才を追った結果にせよ、それなりの根拠が原因となっているという話。
その後、坂本真綾は最初のコード以外を間違えずに演奏しているので、演技など長年音楽以外の仕事で得た能力(記憶)が彼女のピアノを支えてるのも事実である。
実際に彼女はミスした瞬間に舞台的な機転と愛嬌で、むしろ彼女の評価をあげるような対応だった。

【528hz】

ところで、人間を安定させる音程に528hz説がある。
これはピアノで言うと高いド
余程の高音を売りにしない限り、女性の中央値的な高音域はD(レ)554hz前後なので、440hzが基音になった理由と同じで、女と子供の中央値的な音程を優先した結果の感覚なのだろう。
ちなみに、528hzの鎮静音楽を聞いたら、これ最初の音は528hz(ド)だけどKeyは全音下の466hz(シb)なのだが、題名の音程とKey(開始と着地の音程)が違うのは良いのだろうか。

【最初と最後】

映画の冒頭、フルオケを背景にピアノを演奏する彼女のロングショット。
そこから1カットで彼女にドリィで寄っていく。
映画の最後、舞台にフルオケは無く夫も父もいない舞台に1人の彼女のアップからドリィで離れていくカット。
隆盛から色色なものが無くなり失われていき離れていくばかり。
しかし、それを知るという獲得が人生である。
なんてのを最初と最後の2カットで見事にしあげてる素晴らしい演出。
これだけでも見る価値があった。