2018年7月20日金曜日

【ジョジョリオン(18)】読むのに1時間かかった荒木飛呂彦の最高傑作

180頁程度の漫画を読むのに1時間かかった。
絵、文字、背景、これらを把握した上での連続した描写を理解するのに。
読みづらいのではなく、単純に作品において不可欠な情報ばかりという事。
  • 荒木飛呂彦はノーランと同じ物を見て、同じ場所に立っている。
    人物以外の場所や状況を等しく扱い見せ場にするという点。
    たとえ「作品」の経済的な規模は違えど。
  • 1巻を読み返したら、最初に「場所は重要だ」と書いてあった。
  • 【表紙】1周して、奇抜なジョジョ立ちせずに、堂々と普通の姿勢。
    作品の内容や絵柄なども、1周して、
  • 【髪留め】最初は「矢」関連の「読者に一部だけ見せる超常的な物質」かと思ったが、岩人間系だった。
  • 【康穂の母親】これまでのジョジョ、荒木飛呂彦は、凡人は脇役だった。平凡の美学は描けど、特別な主人公達の装飾に過ぎなかった。しかし、ジョジョリオンにおいては、特別に至らない凡人。
    康穂の母親など、これまで悪くないのに雑に扱われ読者に何となく悪印象を与えていた脇役達の正当性を認める。
    初見では、康穂が外のゴミを探しにいく時に母親が言った「すごく傷つくからね」は実は敵で必死に止めてる伏線かと思ったが、娘に疑われて苦しんでる普通の母の発言であった。
    康穂と母親の関係は、これまでだと劇的な過失からの再起など簡単な演出であったが、康穂の過失は子供故の必然であり、母親の正当性は凡人故に証明できない、現実性と人生観を過剰な娯楽性に走らずに描写していて、実に大人。
  • 今更ながら、ジョジョは吹き出しのフォント恩恵が大きい。
    【定助と定助の仲間】このように同じ文字が連続した場合に…
    定助と定助の仲間】単語と連語などでフォントが異なると、意味を理解する文字の前に、絵として見やすく読みやすい。
    吹き出し事にフォントが異なるのはよくあるが、1吹き出しの中で単語によってフォントを変えるというのは、ジョジョを読み慣れてると無意識に流してしまうが、実用書的な工夫がある。
  • 背景の写真トレスが増えてるのは悲しい。
  • 【スタンドの常識化】英雄譚でありながら、英雄の条件がベイブに近い。
    漫画の娯楽性から、偉業は特別な行動から成される、という作品が多く、ジョジョもこれまでそうだった。
    しかし、本作は、偉業の手段は、スタンドのような特別から、誰かに頼むという誰でも出来る事まで、等しく描かれている。ストーンオーシャンの頃に描かれたスタンドに強弱は無く個性が異なるだけ、という主張は、残念ながら当時の荒木飛呂彦には空論だった。
    しかし、ついに、スタンドを自然現象的に捉えて、自分の手を動かし指をまげる程度の感覚でスタンドを描写する事に成功している。
    常敏のスタンドなど、例えば作風によってマッチやライタでも成り立つ。そういった小道具の延長としてスタンドがあり、スタンドと等しく、環境を観察して知識を駆使して状況を切り抜けるという、極めて常識的な事が描かれてるに過ぎない。
    そして、今の荒木飛呂彦には、それがどれだけ格好よくて素晴らしいかを説教でも退屈でもなく描けるようになっている。
  • 18巻を読んで、タイの13人救出を連想した。
    荒木飛呂彦は奇抜な演出が売りのように扱われるが、歴史や偉人などに興味をもち、それらの作品も描いているように、ある現実に根ざした事を描こうという思想は常に持っていた。
    本作のような、超能力ありきの作品で描かれてる事は、ある状況かで人間が四苦八苦する実際の事件や努力と全く同じであり、荒木飛呂彦がこれまでずっと言っていた人間讃歌が、今になって全く違和感なく現実の問題を容易に連想出来るレヴェルにまでなっている。
  • 【魚肉ソーセージ】こういう話を作品の伏線でも何でもなく描いてしまう。そして、それが作品の説得力に貢献しているという、全く奇妙な漫画。こういう積み重ねが、登場人物の多様性や、日常性と非日常の対比と連続を維持している。
  • 【花と果物】憲と敏の会話には、もう笑ってしまった。
    凄くまっとうな老若の議論であり、どちらも人類が続けてきた必須な事。
    廃れて不要とされてる事が、幸福と不幸の両方にも適用される普遍的な強さを含んでいるという主張。それがよくある愛や平和という尊大じゃなく、日常生活におけるちょっとした要素と環境をキーワードに展開する、地に足ついた荒木飛呂彦。
  • 【見せ場の見開きが人物じゃなく場所と状況】過去編のキラークイーン船爆破もだが、作品の派手さと意味を両立した見せ場に、人物の技や感動ではなく、ただの物理現象として起こっている環境、場所を本作において凄く重要であり、そこにガンガン見開きを使っていってる。
    こういうところも、ノーランのIMAX広角的な考えと同じ。
    人間を偉大とするならば、人間がいる場所、人間が扱いきれない事も等しく偉大である、という事。
    人間の過信に説教するのではなく、人類の一部としての環境と、状況の一部である人類。過信も説教もない自然な認識を描写として維持している。
  • 【クール】ジョジョはクールな作品である。
    これは単純に格好いい意味ではなく、大事なことは静かに厳かに語られる。
    オラ無駄やジョジョ立ちも特徴であるのは間違いないが、ジョジョは1部の頃からずっと、叫んだり喚いたりするよりも、パニクって騒いでしまうような未知に、核心を抱いて挑戦して確実に果たしていこう、という堅実な強さを描いてきたし、穏やかな描写こそが見せ場であった。
    自分がジョジョのアニメを全く楽しめなかったのはそこで、ジョジョは打ち上げ花火じゃなく線香花火だという事。
    穏やかな核心を演出/演技できる人がやるような作品なのである。
    今のジョジョの盛り上がりは商売上で大成功ではあるが、作品の核心が無視されてるようで、そして今にして荒木飛呂彦が最高傑作を仕上げようとしているジョジョリオンが現在進行では盛り上がっていない現実が悲しい。
【追記】
  • 【藤田和日郎】同時に双亡亭壊すべし(9)を読んだが、藤田和日郎は現代の作品に欠けてる古典的な作風と画風を意図して強調して描いているが、荒木飛呂彦とやってる事は同じである。
    歴史、環境、世界、覚悟、挑戦、肉体、温故知新、正義のための汚さ。
    藤田和日郎は大人であるが故に派手な場面と美少女でどれだけ子供にサービスしてるか。
    荒木飛呂彦が大人であるが故にどれだけ子供にわからぬ事を描いているか。
  • 藤田和日郎は2D。
    1コマの絵と意味を1目でわかるように、背景や演出で奥行きを描いてあるが、基本的に見せたい人物などを等しい大きさで、読者の焦点距離が変わらぬように描いて平面的である。
  • 荒木飛呂彦は3D。
    洋画の影響もあり、そして何故ノーランと同列かと言えば、奥行きがある。
    人物と出来事を1コマで描く場合に大きさや焦点距離が異なる。
    あくまで読者の注目を複数のコマ、時間の連続で見せるために、注目対象を小さく遠く描かれる。
  • 【死別】ジョジョリオンを読んだあとに双亡亭を読んで、ちょっと物足りない点があった。
  • それは、登場人物の死である。
    藤田和日郎も荒木飛呂彦も古典的な自己犠牲的な英雄を描いているが、藤田和日郎は大人で優しく少年漫画の様式を徹底的に貫いてるので誰が死なずに終わるかわかってしまう。
    今回、主役達が覚悟と自己犠牲を見せて、それは描写と意味において素晴らしく説得力もあるが、作品において彼らが死なない立場と役割であるとわかってるので、最後の最後で読者を騙せてない。
    その点で、ジョジョを1部から知ってると、荒木飛呂彦は必ず死別を描いていて、そして、世代交代が題材の1点であり、主役と脇役が等しく死別する。
    だから物語としてハッピーエンドだとわかっていながら、誰がどうなるのか読者にわからない一線が必ずある。
    これだけ様式を徹底しながら1芸的な作風でありながら、感動とは別の未知を常に読者に残してる凄さ。