2017年10月24日火曜日

【双亡亭壊すべし】6巻の感想 - これは漫画ではなく藤田和日郎の自伝である

面白すぎる。もう頁をめくるたび1頁ごとに笑ってしまうくらいに、時代錯誤で破天荒で明確で情熱に溢れてる。

■萌えを萌え描写せずに萌えさせる

群像劇とはいえ、凡人枠での主役である凧葉の演説に同意して戦場に踏み出すのが、ダブルヒロインの紅とフロル。

本作自体に、凧葉の親友枠が無いのもあるが、本来こういった場面では、いがみ合っていた男同士の不本意ながら後につながる関係の同意や、くちで反発しても友情ある同意や、戦友的な関係の核心を描くような展開である筈なのだが、男の決意に真っ先に同意して危険に踏み込むのが女である、という点に、勇気や仲間といった男的な価値観に無理なく女を展開させて、嫌味なく異性過大評価せずにヒロインそれぞれに萌えさせるという、熱血ながらさりげなくしたたかな藤田和日郎。

テレパシに初めて感応する描写を、小さいコマながら、それぞれ女キャラでやってるのも、作品を下品にしない程度に女を忘れずにさしこんでいく老獪さに笑いが止まらなかった。

既に価値観や絵柄が時代錯誤である藤田和日郎だが、それでもあえて言おう。藤田和日郎の描く女は、文句なく今でも通じる美少女。

上2コマは今でもよくある萌え描写だが、左下の1コマが藤田和日郎節というか、古い作家と感じる。美少女に萌えさせた上で、その行動はある程度意図した好かれるための行動であると女が自覚的で、更に、それらを冗談として納得しながら、あきれながらも優しさや覚悟がある笑顔。つまり、母性。

今ではバブみと呼ばれ、あまえちゃんなんてものが出てきたが、萌えという点で同じ指向なのに、この両作品は明らかに違う。歳下の女に無条件で全肯定させる男の甘えと、母性を含んだ大人びた少女を自立した女神として崇拝するのは、全く別ものである。

その点で、藤田和日郎は富野由悠季がやったように、後者をしていて、現在バブみと言われるものは前者に当たる。良くも悪くも藤田和日郎が古いのは、どうしても意味や価値を求めてしまう事であり、だからこそ主流ではなくとも長きに渡り漫画家を続けられ、今でも読む価値がある。

このフロルは、敵でもなく闇堕ちでもなく、危機的状況を打破するために主人公を求めるテレパシ、奇跡展開なのに、そこでこういう風に描写する不思議。

■その他に思った事。

  • 絵に奥行きがある。
  • 挑む、向かう、という描写で、人物と場所を等しく描いて、人物の背中と遠景の対比をしっかりしてる。
  • 強さが精神論じゃなく、超常的な敵も、現在の人類の知識、科学の範疇であり対抗できるが、科学が至上なのではなく、科学もまた世界の1部に過ぎない。
  • ランゴリアーズに続いて、今回は惑星ソラリス。パクリとかではなく、もう見向きもされてない古い作品の強さを、どうにかして面白く残していこうという感じ。
  • 謎だった敵の目的が、しょぼいが、意味としては実に大きい。敵が生き残るのに必要であり、かつ人類にとって必須ながら不断は全く意識されない、海川。
  • 紅は凧葉にデレすぎw もう弟と同等になってるじゃねえか。
  • 配達の兄ちゃんに笑いが止まらなかった。醜くも必死な人間の生き様と、それに触発される熱い人、というのは古典的であり藤田節だが、今回は全くのモブで主役との人間関係もないのに、前振りなくいきなり弟のアレでぶちぬき2コマってw
  • ジョジョのタスクもだが、今回、聖剣的なものがなく身体がドリルなのって、かろうじてだが「自分の身体で戦え」ということなのだろう。
  • ジョジョも超能力の作品ながら、能力の発動は基本的に「自分の手で触れる、掴みとる」といった、行動と接触の危険を含んでいる。
  • 荒木飛呂彦にせよ藤田和日郎にせよ、描写だけ見れば突飛でも、根本的には「まず自分で見て触れて痛い目を見ながら学び進む」点で全く同じである。

思うに、もはや登場人物や物語とかではなく、今では失われ、かつても稀少ながら存在していた優しさや勇気や、なりふり構わぬ行動や人間関係、それらをいかに残し伝えるか。旧世代の意地や主張やら、この俺…藤田和日郎はこれまでこういう事を学び、今まさにこう考えて生きているが、もしかしたらおまえたちだって実は同じモノを感じてるんじゃないのかどうなんだ!?…と言わんばかりの漫画というより自伝。設定や描写の細かいとこは気にならなくなったが、もう娯楽漫画としては読めなくなった。それだけに、すっげえ面白い。