2015年10月21日水曜日

【京アニ】素晴らしい描写と評価に見る日本アニメ消費者の限界とフェミニズム

京アニが毎度丁寧なのは見事だが、作品や描写が絶賛される理由が、美少女(ホモ)だからこそ、というのは如何なものか。評論も描写も悪くはない。しかし、評価する理由や描写される対象の限定を見るに、生演奏や反響を含む部屋とスピーカではなく、MP3の128kbpsと320kbpsの音質を高級ヘッドフォンで吟味するような馬鹿らしさ、あるいは1000円のラーメンよりも300円のカップラーメンを語るような、本末転倒に見える。

京アニを評価してるふうな消費者は、いい加減に未成年の美少女(ホモ)以外の商品価値を認めて、京アニの多様さに貢献したらどうか? 美少女はこれまでもこれからも需要はあるのだから、それ以外を評価して土台の多様と底上げを認識できないものか。

欧米ほど未熟嫌悪する必要はないのだが、日本の未熟礼賛はもう少しなんとかならんのか。

多様で挑戦的なマングローブが破産して、作品を買わず無責任に惜しむ声が多く、京アニの丁寧な仕事が絶賛されても、評価される理由は、作品にとって世代も性別も不要の、美少女の挙動。気が強くて仕事自炊して経済的精神的に自立してる女より、従順な専業主婦が礼賛されるような。いずれが悪いわけではない。甘いものしか置いていない店で、甘いものしか食べない客というのは、糖尿病になるよ、あるいはもうなっているよ、という話。大人の定義にもよるし、大人が見られるアニメもあるが、こういった偏食を煽ったり望むのが大人なのだろうか。アニメは子供だけのものじゃないが、言うほど大人には至っていない。