生の柳家喬太郎を見たのは2度目で、最初は一龍斎貞水の立体怪談2008年。
あれも文京シビックホールであった。
都内の独演会は即日完売で、何かの拍子に行こうと思っても行けずじまい。
今回は、たまたま柳家喬太郎の何かが都内で無いかな、と思ったら独演会を見つけて、しかも何故かチケット入手が容易であったので、実に7年ぶりに生の柳家喬太郎。
1 | 三遊亭わん丈 | 強情灸 |
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2 | 柳家喬太郎 | 稲葉さんの大冒険 |
休 | 憩 | |
3 | 桂文三 | 青菜 |
4 | 柳家喬太郎 | 鬼背参り |
【三遊亭わん丈】強情灸
何故に柳家喬太郎を自分が三遊亭か?尊敬する柳家喬太郎が尊敬する三遊亭円丈は師匠の師匠みたいなもの、神のような存在で故人かと思ってたら健在で弟子入り。
若いから当然だが、声が爽やか。
柳家喬太郎の指向もあるが、現代の名詞で笑わせる機会が多かった。
- 年金手帳
- オスプレイ
- バーベキュー
自分は見なくなったテレビでやってる若者の漫才やコントと何が違うのかと。
衣服や舞台などの装飾、様式だけで分野と認識するのも間違ってはいないが、
4つ打ちの伴奏に伝統楽器を演奏するのにどれだけの意味があるのか?
に近い違和感と抵抗がある。
実際には逆で、ある題材を1人の言動で実行してきたものが、複数の人数や舞台装置を使うようになったので、様式としての間違いもなく、何が悪いという話でもないのだが。
和音コードで成り立つポップスから音楽に入ると、コード外の音も内包しながら、ある程度の厳密性も保持している和声や、少ない音2声だけで成り立たせるために発展してきた対位法を理解しづらいのと同じようなものか。
【柳家喬太郎】稲葉さんの大冒険
だるそうというか鈍いというか、登場からして乗り切れない感じだった。枕で自白していたが、桂文三と弟子だか3人で怪獣酒場で飲んでいて2日酔いである、と言っても大事な独演会なので、この独演会前に浅草と某所どこか忘れたで適当に酒を抜いてきたと。
実際に酒か疲れか不明だが、しんどそうには見えた。
自分柳家喬太郎のやる気が感じられない人、と客に挙手を求めていたが誰もあげていなかった。実はあげたかったのだがw
こういった客いじりは如何にも。
落研なのに和服着流しで兎跳び。
それを見ながら先輩が思いこんだら試練の道を巨人の星を歌う。
など若い頃の話。
稲葉さんの大冒険最初に柳家喬太郎を見た時は2008年離婚した元妻が久しぶりに家にきて料理を作ってくれた。また2人でどうか、と言ったら、別人と再婚する報告のための訪問であった、という話だったが、これも現代ものだった。といって昭和的。
古典を見たいと思ったら柳家喬太郎の現代ものこんなものでがっかりしたと客は思っているだろうか。
噛んだのをごまかすために流暢に古典を話せれば優れた落語と思ってる馬鹿な連中め。
そもそも自分柳家喬太郎を既知で来ている客なのだろうか? 不断と違う場所文京シビックホールなんで客層が読めない。
……等等を演じながら。
犬散歩の爺さん声でよく笑わせていたが、声質の力技で好きじゃない。
退場の際にも、松の木を担いだ演技で幕がおりきるまで歩いていた。
10分休憩
ホットココアを飲んだ。
【桂文三】青菜
関西出身で、基本的には関西を中心に活動。ウルトラマンと格闘技が好き。
東京で趣味のものを見て歩いて……
- 力道山のパスポートが150万円
- タイガーマスクが被ってたマスクが50万円
- 名前を忘れたボクシンググローブ
趣味人の話は、対象の価値が自分には不明でも面白い。
青菜素朴で馬鹿な演技が超うまい。
植木屋の酒や魚に対する過剰反応。
某と言えば昔は大名なんたらと言う大層なもの、を酒や魚のたびに言う天丼だが、この浮かれ具合がたまらない。
また、言葉ではなく、うひゃorあひゃ、など文字で書くと擬態語にしかならない、発音だが言葉にならない浮かれた感じというのが、それはもうたまらなく出ていた。
現代名詞など言葉よりも、表情や声色で笑わせるものであったが、人工的な箸転がし状態とでも言おうか。
【柳家喬太郎】鬼背参り
夢枕獏が柳家喬太郎のために書いたものであるらしい。落語というよりは怪談に近いもので、最初の15分くらい全く笑わせる要素が無い。
多少は噛むところもあったが、前稲葉さんの大冒険とは違い噛んだのをネタにせずに、ひたすらに続けていた。
途中で芸人が実は陰陽師という所で客が笑っていたが、自分には京極夏彦的京極堂と又市で自然で特におかしいとは思わなかった。
陰陽師のくだりでの笑いが意図的なのか不明だが、客が笑ったからそこだけ少し陰陽師の挙動を面白おかしくしたような感じだった。
内容は死んだ女が男を恨んでいるかと思ったら……というメロドラマ。
やはり柳家喬太郎の指向が揶揄恋愛なのか。
稲葉さんの大冒険、これも恋愛要素は皆無だったが夫婦であったし。
自分には女の真実のくだりがくどくて退屈だった。
こういう類は、言葉ではなく、意味不明な挙動の観察で発覚した無言の真実。
という演出ならば好みだが、死んだ女は人語を介して相互理解が可能であるし、どうもホラー的な恐怖も無くなり、馴染めなかった。
しかし、落語の基準や前提を知らないが、こういう笑う必要のないもの自体は好みなので、15分くらいで皮肉めいたものを見てみたいと思った。
知識なくして現代名詞に依存せずに楽しませるのは無理なのだろうか。
自分としては、無知を迎合しすぎたように思う。
自分には知識はないが、もう少し選民思想を見せても良かったのではないか。
ただし、そういった強さを見せたらここまでの評価は得ていなかったであろう人物なので、そこは居直っているのかもしれないが。
設定的に現代的と古典的にわけたのは明確な意図だろうから、その点である程度の幅を許容するための配慮は充分にあったのだろう。