歌詞。例えば片田舎における友情と恋愛の両方を含んだ百合のようにも読めるし、1人称が「私」だから、花澤香菜という条件もあり女の歌だろうが、男の同性愛にも読もうと思えば読める程度の曖昧さをもっている。順等に女が男に歌っているのだろうけど。人生における前向きだがどうしようもない別れを確信し、既に過去になりかけてる歌。歌詞はあくまで進行形だが、自分は全体として「既に終わった事」として認識した。加藤登紀子「時には昔の話を」のように。
Flattery?の歌詞は前向きだし若さがある。しかし、歌詞の人物の再会はありえない。これを歌う女は健全で図々しい。この別れを大切にしているが、健全であるが故に、この別れが人生の幸福や不幸を決することはない。別れを惜しんでも縛られていない。そういう腹立たしさもある。
恋愛の歌ではあるが、純粋に恋愛と示すのは「この恋も」だけ。素晴らしい。恋愛を語るのに「恋愛」と言っては文学じゃない。
それにしても、実に曖昧だ。この歌詞からは性別も年齢も場所も何もわからない。何となく14歳から20歳くらいと考えられるが、あるいは親から問答無用の引っ越しで田舎村から東京に向かう小学生かも知れない。小学生と言うには過去を過去として強く認識しすぎと思うけどw
2行だけ英語の歌詞があるが、どうせなら日本語で統一してほしかった。聞いていて不自然さは無い。歌の決めどころじゃなく前振りだから。しかし、英語の歌詞を入れると個人的な事情が薄っぺらい自己陶酔になり、また商業作品であることを強く示すので、ここまでやるなら英語の歌詞はやめてほしかった。
楽器編成に関しては、これでも多すぎると思う。ドラム、ベース、ピアノくらいでも良い。スネアをブラシにして16分のリズムはそれだけに依存しても良い。編曲が駄目というよりは、編成が小さい程に個人的な思いが強くなるし、Strとかでもっと埋める大きな編成の場合には、奇麗にイベントを終わらせられる、メロはほとんどDから5度圏内と狭く単純な構造故にあらゆる形にしやすく、素人でも乗りやすい。コード進行自体はG,A,Bmとアニメ的な厨二進行だが、印象としては民謡に近い。1600年頃から伝わるアイルランド民謡The Parting Glassと同じ印象を持った。
切なさの1つとして、この曲はkey=Dだが、歌の着地はBm。メジャーKeyの中で歌として落ち着く間合いでマイナーコードを当てている。明るいのに悲しい要因の1つ。
花澤香菜にとって、花澤香菜を売る大人にとって、ファンにとってどういう位置にある曲かわからないが、例えばこれがアニメの最終回や映画のED曲だったら大爆発すると思う。
ドラえもん大長編のゲストにも通じる思想、1度きりだが強い印象と前向きな別れ。歌手や一部の属性を酔わせるのではなく、聞いている人の何かを想起させる程度に曖昧でキャッチィ。花澤香菜の歌手活動がどうやっていつまで続くかわからないが、歌詞の内容は若いが意味は過去に価値がある歳に通じる。何となくおしゃれな曲として流さず、花澤香菜が大事にすれば浸透し10年後にも残ってるかもしれない。そう思う。