予想していたが、ほとんど原作は無関係で、あくまで原作に触発されたヨハンヨハンソンのコンセプトアルバムという体裁。
16mmフィルム撮影と宣伝されていたが、ヨハンヨハンソンが気ままに撮影したホームビデオ的な映像を予想していたが、撮影はプロがやっている。
原作は1930年に書かれた小説。当時からは予想に過ぎないが、第二次世界大戦的な世界戦争の再燃と、付随するヨーロッパの小競りあいから、アメリカと中国が2大国家となり、米中の統合で人類は地球連邦となる。その後、地球上のエネルギー枯渇により人類の戦争が再燃し、新発見された新エネルギーの暴発により人類はほぼ死滅。残ったわずかな人類が最終的には宇宙に飛び立ち、海王星に定着するも、太陽系自体の消滅が避けられないと判明し、20億年間の人類の反省が始まる。
映画は、現人類から地球連邦が生まれ絶滅寸前で宇宙にまでいく、といった話や設定は全く扱われない。原作の中盤以降の会話の断片だけが引用されている。
そういう意味では原作を未読でも全く問題ないが、原作を読んでおくと、何を省略したのか前提がわかるので、ひたすら風景映像と小説の引用が繰り返されるのを混乱せずに見られる。
本作を見る観客は、原作かヨハンヨハンソンのどちらかは既知だろうから、そういう意味で大衆娯楽ではないと既知で見に行くだろう。しかし、もしも原作も彼も知らないのならば、こういう見方をすれば混乱や退屈せずに済むのではないか。つまり、ある程度の価値観を共有可能な時間差しか無い過去の人類が作成した現存する物体を見ても、我々にはその形や意味がわからない。たかだか数10年でそういった隔たりがあるのなら、20億年という数字なぞ無意味で、20億年後からの交信もまた等しいのではないか。
本作は、結局のところ価値観を問う映画であり、普段から見かけるたわいない風景や物から歴史や文化や発想を見出せる人には凄く面白い。逆に、全て御膳立てされた商品にしか価値を見出せない消費者には全く向かない。
残念だったのは、オデッサという音響システムを活かしきれてない点。本編のミックスはほぼステレオで正面からしか音が聞こえなかった。もともと環境音と音楽の融合を目指してるところもあるのに、それが定位という点で棲み分けがなく、左右と背後にあるスピーカーが開店休業だった。
フランスの古代ローマ劇場でおこなわれたハンスジマーのライブを観に行った時、曲自体は穴埋めの退屈な時間だった箇所も、天井が無い石造りの古代ローマ劇場故に、演奏に触発されて周囲の鳥が飛び交い、鳥の泣き声が演奏場所とは違う箇所から共鳴するような、意図せぬ面白い演出、経験が出来た。
この映画を見ながら思ったのは、ヨハンヨハンソンが目指したのも、そういった事が1つあったのではないかと。
自分が映画を見た時には、作品の前提や乗りについていけなくて開始10分くらいで帰る観客が3人くらいいた。せめて音響面でも工夫していたら、生理的な退屈は避けられたのではなかろうか。そもそも作曲家が監督した映画なのだから、音響面でもっと凝って欲しかった。
本作の映像は白黒とはいえ充分に綺麗だし、白黒ゆえに粗がわかりにくい恩恵もあるが、プロが撮影したちゃんとした環境映像だっただけに、これIMAX撮影してフルカラーIMAXだったら、少なくとも視覚効果としては誰でも楽しめる映像になっていたのではないか、と残念にも思う。
ヨハンヨハンソンはドゥニヴィルヌーブと組む仕事が多かったが、ドゥニは暗いとか重いとかわかりにくいとか言われて大作をまかされるわりにノーランほど一般受けはしていない。しかし、今回のヨハンの映画を見て、ドゥニなんて物語や展開や設定はちゃんと作中で明らかにして説明してるし、充分に観客にすりよってるやんけ、としか思えなかった。