2015年1月8日木曜日

クロエ・グレース・モレッツ Photo Book - 表紙以外はどうしようもない

判型は茅野愛衣「LETTERS」と同じくB5。写真集としては最低限で、1頁に1枚が基本なら文句ないが、Photobook(写真集)というには文が多く既存の写真ばかりで、1頁に1/4程度の大きさの写真が多く、これで2000円は取り過ぎ。

表紙の写真は申し分ないのに。
出演作で日本未上映を紹介してあったのは良い。
これじゃネットで画像を探してたほうが堪能できるし、ここでしか見られない内容に乏しいなら、本が売れなくなるわけだ。
インタビュウもあるけど、写真は小さく、撮影環境を整えてないのでしょぼい。

2015年1月6日火曜日

【ドラゴンエイジ インクイジション】苦痛でしかなかった

全俺史上最高RPGとしてドラゴンエイジ インクイジションを借りたのだが、ただただ苦行でチュートリアルでやめてしまった。

広く奇麗に見える世界だが行動範囲と種類が限られている。
FF13が叩かれて久しく、チュートリアルを終えたら行動範囲がいっきに広がるのもわかっていたが、それでも、ただ歩いて、決められた対象を決められた場所でボタンを押してアイテムを得て、自分で見つけた感覚が無い。

既にクリアしてるデータで色色と見せてもらったが、景色は奇麗なのに奇麗なだけで泳げないし登れない。

戦闘も、歩いて、ボタンを押してる間はキャラが同じ動きを繰り返すだけの攻撃で、キャラが生きてる感じが無く、主人公がプレイヤの代替にしては個性があり、個人とするにはプレイヤに依存して、お前なんなんだよ、という感じ。

イベントの映像演出は格好いいが、モブなどにもこった演出がされ、そんなもの見せるくらいなら主要キャラだけしっかり見せてプレイヤのプレイ時間を奪うことは1秒でも短くするべきだと思ったし、映像演出がこってるわりに操作時のカメラ画角が固定で、常に引いた映像しか見られず没入を許さず無関係だと突き放された感覚がある。
とにかく、色色と出来そうで出来ないことばかり、ゲームの都合を押し付けられてる印象だけが強くなり、チュートリアルですら1度、途中でやめてしまった。
SkyrimMinecraftがあるのに、今更SFCのRPGをやる意味を見出せない。

映画や小説や音楽や娯楽作品において、その分野の様式に何となくひたって消費するのではなく、自分では考えつかなかった思想や経験しえない疑似体験など、仮想の域にまで達してるものを求めているので「よく出来たゲーム」では時間の無駄で「ゲームにしか出来ない」仮想の域じゃなければやる意味がない。
歳をとったのもあるけど、自分が必死に頭を使うこともなく、驚くほど世界を体感できるのでもない「よく出来たゲーム」は苦痛でしかなく、自分の許容が狭まったのを実感した。

フォーレ歌曲全集のヒスノイズが酷い

フォーレの歌曲全集を買ったが、ヒスノイズ(ホワイトノイズ)が酷かった。
-50から-60dBFS程度のノイズがなっていて、録音が1970年代後半と言えど、こんなに常時ノイズを感じるなんて録音自体が酷かったのかマスタリングが下手だったのか。
ひと通り聞いたが耳が痛くなって連続しては聞いていられなかった。


2015年1月5日月曜日

右肩がやばすぎるのでマウスとノートパソコンの高さをあわせた

冷却台に乗せ、打ちやすいようにかたむけてあるMacBook Proとマウスの高さがあわず右肩が蛇括神憑分が暴れる影王ばりにやばかったので、読まずに売ろうと思ってた本を幾らか重ねて高さをあわせた。

不格好だが、実に快適。

【内田真礼】写真集「まあや」本人の願望と需要と事務所の許容が全て噛み合ってる写真集

表紙が艶消。
光沢と艶消で、どの程度の差額があるのか。
水着あり、室内でのセックス前を思わせる状況もあり、男に好かれるために逡巡せず潔い。
写真集としては平凡とも言えるが、本人に無関係な背景だけの写真はないし、薄顔を心得て活かす化粧で、水着なのに顔だけ最強装備、みたいな落差もなく、写真は均質でありながら仕上がりに幅がある。
あえて言うなら茅野愛衣「LETTERS」みたいにしっかりと着飾ったものがない。
丈が長い着飾りのほうが足をごまかせると思うのだが、メディア的には太く短足とも言える身体を隠す気もなく商品として堂々と売っているのに感心。

ホーンブロワーDVD-BOX1を見終わった


戦争や帆船というよりも、毎回ホーンブロワーが無能に反発されて苦労する、という様式。
2で飽きて、3はもう無理くり。
ただし、作品自体は3からどんどん面白くなる。
状況の深刻さが増すから。
打ち合い斬り合いだけじゃなく、ただ静かにやりすごす状況に幅がある。

準レギュラっぽいキャラが次次に死んでいくのが容赦なくて良い。
奇襲のために、発作をおこした仲間を殴って失神させたり、ドラマ(予算)の都合で構図が限られているが、それぞれ行動の意味を見せつけることで緊張感を維持している。

4でも、予算の都合で敵側の兵器や戦術を見せられないのを、主人公側からは見えない、という演出によって作品に利点としている。

「6匹だぞ」や「機密公文書の落ち」は実に、らしい。

4の町娘ならともかく、美人だろうがキャラが立ってようが40程度のおばさんが保身のために敵側の男と寝た程度で動揺しすぎ。
目的のために男と寝るのをためらわないビッチはいい。

毎回2本トップスルスクーナに乗る(4では乗らなかったか)。

段々と合成が目立つようになってきたが、背景に限っているのと、画質の悪さが合成の粗を隠してる。
最近の映画みたいに1秒に満たないカットでも、ここだけ合成だ、と気づいて萎えることがない。古い恩恵。

3の戦場以外での敵同士の関係や、4での様式が先の戦術を見るに、そら機関銃の社会史になるのも当然だよなと。

4は産廃映画レ・ミゼラブルよりも、ちゃんとフランス革命の悲惨を描いていた。
レ・ミゼラブルを意識したのか、メロなどは当然異なるが、長調でドシラソファミレドとOne Day moreと同じベース展開をする曲があった。
あれは確か、フランスの作品だがイギリス主導だっけか?

傲慢な貴族や底辺兵士の挙動を見せながら町娘を陵辱しないの明らかにおかしい。
描写の程度はともかく、そういう行動自体はしっかり作品で扱うべきだと思うが、ギロチンだけだった。
ベルセルクも今じゃすっかりてぬるいし。

4の陸軍隊長がイケメンすぎる。
最初は傲慢なボンボンと思わせて、政治的な配慮も出来るし軽口も叩くし仲間を気遣うし戦場で有能。
この作品で1番のイケメンじゃなかろうか。

帆船の映像が少なく地味。
この時代の帆船は順風の最大速度でも10ノット程度だったから、映像だと停滞してるように見えるのも当然で、現実的とも言えるが、やはり地味だ。
アサシンクリード4海皇紀の機動が異常なのだけどW
1の最後で、映像の見栄えを優先するために、真横風なのに開きが正横になってたり、実物を使った弊害もあるが、段々と風向きと帆の開きにも気を使うようになってきて、状況説明の遠景で見える船などでは風向きと帆が一致していた。
米が海水を含んで膨張し船を沈める、というのは地味ながら海洋ものらしい素晴らしい状況演出。
帆船が出てくる娯楽作品だと、戦闘や天災で刻々と変わる地味な要因による困難、は描かれない。
無風だからボートで曳航というのも、作品においては尺稼ぎにすぎないが、素人に容赦ない説明せずに帆の開きや帆船の部分名称のがしがし言ってく世界観と作風の維持。

音楽は低音が無い。
予算の都合か、コンバスとバスドラムを使っていないのか、単にミックスとマスキングで感じないのか。

4の町娘との恋愛がやっつけすぎて酷い。
メディア的美人じゃなく、ちゃんと町娘っぽい女優を使ったのはえらい。
しかも、閉じたまま押し付けるだけじゃなく、ちゃんとしたキスをしていてえらい。


2015年1月4日日曜日

「ホーンブロワー 海の勇者」DVD-BOXを購入

ホーンブロワー 海の勇者を買った。
原作は未読。

まだ1巻しか見ていない。
米が海水で膨張し船(トップスルスクーナ)が沈没するってのは海洋作品ならでは。
帆船の扱いの度合いがどうあれ、戦闘や天災による沈没ばかりで、積み荷による実際的な影響というのは娯楽作品では省かれる。
本作でも沈没は、戦闘で船底に穴があいたからなのだが、その後の積み荷の変化と船の損傷までをしっかりと見せる作品はそうない。

奇襲前に発作を起こした仲間を黙らせるために殴って失神させるなど、かなり辛辣な描写もあり、時代か予算か構図が限られ映像はたいしたことないが、所所の世界観を示す場面が有効でしっかりしてる。

全部じゃないが、ちゃんとロケで撮影している。
そのために厳密には動いてるが映像的には船が静止してる映像ばかりで地味。
当時の船は追い風の最大速度でも10ノット程度だったから、現実的とも言えるが映像としては地味。

ドラマの都合か、人間関係の展開が、特に懐柔が早すぎると思ったが、原作からなのかドラマ故かはわからない。

「6匹だぞ」は絶対に来ると思った。
というか会話が長くて、そこを突っ込まないのかよ、と思ったがちゃんとあった。
こういう会話は非常にヨーロッパ的というか、洒落ている。


付属の解説書には、ちゃんとフリゲートと帆装をわけて紹介してあった。
本作より、およそ100年前が舞台のゲームアサシンクリード4ではスクーナーやブリッグという帆装とフリゲートという軍艦の種類を同じ「名称」として扱っていて残念だった。
実際の呼称という意味じゃ間違ってはいないし、扱いはそんなものなのかもしれないが。

音楽は木管が中心。
管弦楽で派手な場面での
時代か予算か、低音はまるでない。
フランスの宣戦布告で短調の重い感じじゃなく明るい曲だったのはどうなんだろうか?w


2014年12月28日日曜日

10年間のドキュメンタリ「みんなのアムステルダム国立美術館へ」を見てきた

みんなのアムステルダム国立美術館へを見てきた。

前作のDVDパッケージは黄色ヘルメットをかぶっていたが、今回はそれを外しているの、しゃれてるね。

今年の9月。漠然とドキュメンタリを見たくなって、100,000年後の安全ようこそ、アムステルダム国立美術館へを借りて見た。オランダでは2008年に上映されるも、日本は2年後の2010年であったらしい。

前作は2004年から2008年まで。現実には2013年に再開館したので、DVDを見た段階では終わってなく、笑った。前作DVDを見たのは今年9月なので、見終わってからググったら、2013年に再開館したと知って、完全版が無いものかと思っていたら、今月に続編の予告が公開された。

個人的にタイムリだったので、前作と同じ上映館ユーロスペースで見てきた。時間で言えば、前作が4年間、今回が5年間と、前作で撮影できなかった期間のほうが長いのだが、内容は、前作と重複した内容が半分で、新しいのが半分の合計90分程度だった。

前作と同じ内容だが、偉大な美術館は遠い過去の作品ばかりじゃなく自分達の時代の作品も残すべきと20世紀の作品も展示するという議論や、作品の修正作業員の作業姿や、電気をつけて美術品の保管庫を遠景で全部見られたり、そういった美術館の抽象じゃなく場所としての裏側や、やっと手続きの申請が終わったが着工する業者のオークションが2社の予定が1社になり予想よりも高くついてもめた、など前作と重複しながら、前作の総尺117分より短いので、続編でこれらは省略されていた。

今回のBD,DVDが発売には、2本を見なくても1本で新旧全部が見られる完全版にしてほしい。特に、前館長が現役だった頃に、あらゆる組織から不満を言われて作業が進まない状態に「やる事があればどんなに難しくても頑張れるが、やることが無く待つだけの何年は苦しいだけ」というのが今回は省略されていて残念。

では前作に無く、今回の続編にあるのは何か。それは、前館長辞任後の新館長の活動。結局、個人が変われば仕様も変わるということか。既に終わっていた出入り口を、また前館長がもめてた時のものに戻し重複した問題を起こしたり、時間が無いのに試すのは簡単だと主張は無いが不満はあったり、かなり酷い印象だった。旧案と重複しながら少し違う新案では車椅子など障碍者むけの通路が無くなったのを叩かれていたり。会議の決定が末端に伝わってなくて仕様が微妙に変わっていたのが見つかりもめたり。

前作で「展示すべき」と議論しながら具体的な行動があまり見られなかった20世紀作品の入手は、今回オークションの映像があって(前作にあった?)、予算は30万ユーロだったが45万ユーロで他に取られたのが見られる。

このオークションは鑑定士と顔のない依頼人を見てるようだった。逆なのだが。

計画というのが、いかに人数が多くなり金額が大きくなるともめるのか、という反面教師に良い。10人がそれぞれ異なる不満を言えば、負担は10倍になるのだ。創作ではないので、何をもって完成もこぎつけたか決定的な場面はなかったので、もめてるわりに何故かいつの間にか完成してた、みたいな印象があった。美術館員や建築家や内装家など、再開館前に終わった仕事を振りかって、救われたかはわからないが報われた感じの答えで良かった。内装家の女、そら6年も泥沼に引きずり込まれたら最後のインタビュウに泣いてしまうのもわかるわ。

晩飯は、KOKIA - Falling in love with the orchestraを見に行った帰りにドネルケバブの露店を見かけ、食べたかったが結局は無視して帰ったので渋谷でさくっと食べられる店ないかとググったら見つけたケバブカフェ。値段は950円。うまかったが量が足りず、生地と米が少なく肉と野菜を持て余したので、値段を1000円で量を1割2割か増やしてほしい。米がもちもちしてたのは、素材なのか調理の問題か。露店のようなサンドイッチ型は無いようだった。露店でも600円で量2割増とかあると良いのだが。

日本人客は自分1人だけで、あとは入店するたびに「Hey, Brother」など店員と挨拶して英語だかどこ語だかわからん言語で親しく会話していて、客の姉ちゃんが無関係の客と店員の会話に笑って1こと2こと会話に参加していたり、なんか面白い状況だった。しかも、たまに「そうそう」とか「ええっと」とか「おまたせしました」とか日本語が混ざるのが面白い。ちょっとした孤独のグルメMASTERキートン気分だった。

2014年12月24日水曜日

ライヴやコンサートから客じゃない底辺を締め出そう

開演前に注意を無視して場内撮影している底辺を見つけ次第、携帯電話などの画像データを確認した上で撮影が発覚したら即払い戻し無しの退場にすべき。
携帯電話の確認を拒否しても即退場。
「"遠慮"ください」じゃなく「禁止」と明言し、それでも無視する底辺を見つけ次第、払い戻し無しの即退場。
その主催側の対応を法律で保障し即退場を合法化しよう。

開演前のもめごとを避けるための婉曲な対応なのだろうが、わきまえてる客とわきまえない底辺で後者のほうが結局は獲得しているのおかしいだろう。

【KOKIA】管弦楽の生伴奏「Falling in love with the orchestra」に行ってきた







編成人数
【Strings】【41】
*1st,2nd22
*Vio8
*Cello6
*Conb5
【Brass】【10】
*Trp2
*Horn4
*Trb3
*Tuba1
【Wood】【8】
*各2本ずつ
Piano1
Harp1
Timpani1(4個)
Bass Drum1
Percussion3

個人名義は2,3曲しかしらず、管弦楽というので勢いだけで行った。
MCの気持ち悪さが梶浦由記といい勝負。
MC1発目から「今日はオーケストラに恋をして帰ってもらいたい」www
40にもなろうかという者が1万円弱の管弦楽に来た客に対して恋www
次のアルバムではアームストロングに関する歌があり、どこそこにいてなにそれを見かけてアームストロングの歌みたいだな、と思って作った、と説明したあとに、歌詞がどこそこにいてなにそれを見かけてアームストロングの歌みたい、とそのまんまで酷くて笑ってしまった。
MCの口調も「なにそれがありました。その時にうんぬん」と物語調の口調で聞いていられなかった。
KOKIA名義の曲は2,3曲しか知らず、やとわれ歌手のほうが既知は多いのだが、個人だと曲や歌詞や態度はこういうもんなのね。
歌詞に「Aみたいな(のような)B」が多い気がする。
比喩としてAを出しておきながら対象がBであると宣言すると比喩であるAが無意味になるからやめてほしい。
限定版ステッカーが売れずに宣伝しろと言われたので買って帰ってくれというのは面白かった。

指揮者の紹介と念願の生管弦楽には触れたが、編曲には何も触れなかった。
パンフによると編曲は江口貴勅。
10年くらい前のゲームしから知らないが、今はこんな事をやっているのね。
たしかクラシック畑では無かった気がするが…。

木管による静かな埋めや、ポップスの様式とちゃんと区別して低音無しの間や、ブラスのsfzや全体のブレイクなど、しっかりと抑揚があって疲れずに乗れた。
それだけに、歌詞と曲調の「とにかく世界礼賛と見せかけた自己陶酔」の均質が退屈。
全曲Let it Goみたいな…。

欲を言えば、ピアノはいらなかった。
ピアノが万能なので、静かに細かく間を埋めるのを、管弦だけでどう攻めるか聞きたかった。
その割には、ちゃんと弁えていて、ピアノが伴奏の中心にはならず、あくまで添え物としての役割を全うしていた。
ベンヤミンヌスの生演奏を聞いた時にも思ったが、やっぱ生のグランドピアノって飽和が凄くて響くけど籠って聞こえてしまう。

1曲目からして、管弦楽の音がマイク,スピーカ感が無く聞こえたのに驚いた。
ティム・バートン&ダニー・エルフマン映画音楽コンサートでは編成は申し分ないのに1発目からマイク,スピーカ丸出しの音で見た目よりも迫力に欠けたけど、東京国際フォーラムと違い東京芸術劇場は初めてだったが、生が響いた上で機材を通す感じで良かった。
2階の左端という底辺席だったが、歌の埋まり以外は何も違和感なく曲に乗れた。
しかも、自動販売機は紙コップだったが、購入後の取り出し口がなんと自動開閉!
1人だったけど「それ町かよ(アニメのオリジナル話)」と興奮してしまった。

歌は申し分ない。良い声だしブレない。
しかし、息継ぎはともかく、リップノイズが酷かったw
歌はあまりEQを通さずかスピーカか自分の席の影響か、高次倍音をいじっていないのか伴奏のマスキング関係なく少しこもって聞こえた。
上が無いな、と感じるのにディエッサーを噛ませていないサ行のつんざきやリップノイズの目立ち。
そして、マイクを使ってるのだがら当然だが伴奏に対してマイク使ってる飽和と誇張と減衰の機材感が半端ない。
正直なところ歌の音質はカラオケかと思った。
歌のせいか機材のせいか席のせいか、歌詞を聞き取れないことも多かった。
ウィンドチャイムやシンバルなど金物も、よく響いてるけど上が無い感じで6khzくらいで切れてる感じがした。自分の席との距離で消えてしまったのかもしれないが、9khz前後を少し持ち上げたかった。

バスドラすげえ響いて、いい音してた。
響きすぎて浮いてたくらいで、叩かれるたびに笑ってしまった。
この低音を聞けるだけで生演奏に来る意味がある。
映画はIMAXみたいな。

聞いていて思ったのだが、坂本真綾は4年に1度くらいで良いから、伴奏は管弦楽だけのライヴをやるべきだ。もちろん菅野よう子が全曲を編曲して。

地味に良かったのは、アンコールが無かった。
伴奏が続くなかでこれが最後と明言して挨拶して、伴奏終わってすっきり退場。
潔くて良かった。

場内の撮影はご遠慮ください、をガン無視して撮ってた底辺は、見つけて携帯電話を確認したら1発退場にしろ。
携帯電話の確認を拒否しても即退場。
そして、その規制を法律で保障し合法化しろ。
遠慮とか言ってねえで「禁止」と明言し、当然それでも無視する底辺は幾らでもいるから、見つけ次第、払い戻し無しの1発退場。
注意を無視して撮影してた客が終わって感動したとか最高だったとか言いながら帰ってる中で、場所や内容を問わずにそういう底辺はいるが「(私のいる)世界って素晴らしい」自己陶酔の商品に対する客層ってこんなもんなのかと、印象が悪かった。

1830に開演
1910に20分の休憩。
1930から再演。
2015に終了。


2014年12月22日月曜日

【花澤香菜】2nd写真集「遠い口笛」に見る花澤香菜パッケージの限界

流石は売れっこというか、トルコ(海外)撮影だったらしいが、ミラクルジャンプ 2015年 1/30号の時にも思い、これまでの写真、静止画と変わらない。本人は動いて話すと、割り切った全力の愛嬌があり、男に好かれる粗と女に嫌われない粗を両立した実にしたたかな挙動を楽しめる。つまり、花澤香菜は笑顔以外の表情(行動)に優れているので、同じ角度と同じ表情では売りにならない。背景も服装もそれなりに変化しているのに、写真集を見終わると多様性に欠けた退屈な印象が残る。

今回、1番良いと思った頁。

この、商品として問題にならず、しかし個人的な小さな不満もありながら、それは本音ではなく見せ物として、だけど見せ物にしては少し崩れている、という感じ。花澤香菜、当人というよりも、周囲のスタッフによるパッケージの均質が問題だろうと思う。化粧をかっちりすると、奔放とは相反するし、花澤香菜のいつもの角度と表情では、背景や服装の多様性は意味が無い。この辺り、画一的であり、明らかに作られたパッケージでありながら、どこか自然な感じ、あるいは武装を感じさせない坂本真綾のパッケージ力というのはたいしたもので、美人じゃないけど凄い美人感のやりかた、顔や狙いなど傾向は似ていると思うし、花澤香菜(と悠木碧)のスタッフは坂本真綾の武装、パッケージから色色と学ぶことが多いんじゃないかと。

坂本真綾は率先してるようでいて周囲の手の上なのだが、本人がそんなの気にせず乗ってる感じで、花澤香菜は周囲の要求こそを第1として結果的に奔放な振りをしている、という感じの差なのか。

同日に届いた茅野愛衣「LETTERS」

文通という痛い設定はともかく、写真集としてはよく出来ている。室内と屋外と、明るさも色も異なる状況で、焦点はあってない、色が飛んでるなと色色と、うげっと思うところもあるが、同じ場所と同じ服装でも陰影が異なったり構図が異なったり、それから、あたかも個人的な要素が発露しているかのように見せているものもある。

この2枚。左は屋内の影や、雰囲気ある背景とあわない無表情など、商品としては決まったものではなく、問題ないからのせたという感じ。右は構図と光源と表情ばっちり。同じようなものでも、結果として幅が出来てる。

1冊目の写真集花澤香菜 写真集「KANA」を見ていないので知らないが、これまでの花澤香菜を見る限り、いつもの奴なのだろう。

そろそろ、中堅として名前と行動が表向き自由になってきたのだから「個人」が見える感じの商品が欲しいと思うのだが、それとも堀江由衣を目指しているのだろうか?

裸足や、髪かきあげなど、こういう商品でないと見られない要素はあるが、前者はえらく守られた中でも決まった段取り感で、後者はいつもの顔といつもの構図といつもの陰影で、消費者にとって見られる特別な感じがしない。当人に色気が無い、そういう商品ではないと言えばそれまでだが、どうにも花澤香菜という商品の振り切れなさがもったいないと感じる。