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2019年9月2日月曜日

Disobedience - レイチェルワイズの惜しみないレズプレイと同性愛のロマン主義ポルノと差別

2分30秒。
レイチェルワイズマクアダムスのキスはそれなりに多くあるが、性交は1度だけで、尺は2分30秒。
Youtubeで2分程度の動画が見られるが、それを踏まえても既知の省略よりも長く感じられた。
レズ性交で思ったのは、男女だと男次第で終わるのに対して、女女だと互いの任意で終わらせなければならない。
だから能動的に激しくなりやすいのかと。

本作は同性愛以外にも、メタで芸術のために脱ぐ女問題がある。
Chloe Moretzも同性愛ミスエデュケーションでは性的描写をこれまで以上にやってるが、勘違いしてはならないのは、同性愛は異性愛と等しく尊いものでもなく純愛でもない。
そして、美貌で成り立つポルノ要素は無視できないという事。

柔らかな肌などにも言えるが、本作の素晴らしさを支えているのは、間違いなくレイチェルワイズマクアダムスの美貌であって、言うなればユダヤ差別や同性愛よりも長く根深い美醜差別の肯定である。

Aを肯定するのはBの否定にならない
しかし、Aを肯定するためのCはBの否定になりうる
本作は、ディズニーと同じ問題を抱えている。
  1. 大衆が肯定した時点で不利な少数派ではない。
  2. 新しい価値観のようでいて古い価値観と同じ差別に根ざしている。
大衆が権利を得てから便乗してるに過ぎない。
美女2人がポルノを含んで真面目に取り組んだ商品を楽しむという点で、本作は間違いない。
しかし、少数派や同性愛や宗教や伝統といった問題を論ずるには、あまりに私的で狭い。
例えば、Whiplushは逸脱者の損得という点において素晴らしい映画。
作品の主張に同意できなくとも採用されてる音楽を否定できないほど。
しかし、これをジャズやドラムの一般論に通じるかと言えば、ありえない。
天才に限らず能力を発揮するのに必要なのは感情の衝突ではなく、長く続けられる環境なのが現実。

本作は同性愛を看板にしているが、実際には以下の3点が等しくある。
  • 同性愛
  • 親子の確執
  • 自由に固執する不自由
特に、本作では自由を最終的には肯定しているが、本作の核心はマクアダムスにあると感じた。
  • 同性愛者が異性愛者と結婚/性交するのは必ずしも不幸ではない
    • 作品の冒頭で、気晴らしの肉体的快感(自虐も含む)を求めてレイチェルワイズは男と寝る。
    • そもそも異性愛すら相手1人に断定したところで破綻するのが現実。
    • 人間関係の妥協は人類の共通手段。
    • 例えば、むんこ著作がんばれメメ子ちゃんでは、ヒロインAを好きな男と結婚したヒロインBが、自分(ヒロインB)を1番に思っていないのに結婚した男を責めずに、幸福の手段は1つではないと諭す場面がある。女的な考えであるが柔軟で現実的な事実。
  • 同性愛以外の価値観で環境(ユダヤ教)に不満はない。
  • ある環境(ユダヤ教)に則した仕事(教師)にやりがい(子供の教育)を見いだしている。
    • 人生/環境を自身のあらゆる価値基準から損得を確認して黒字に満足する。
伝統は時代がくだるにつれて不合理になる。
しかし、その不合理を幾らか維持することで、不可避の問題に耐性をつけている。
イスラム教にも言える事だが、仮に、女にとって不都合な事ばかりなら、これらはとっくに滅びている。
ある環境において男女ともに利益があるから継続していられる。
当然、そこに反意の大小はある。
その反意を自覚しながら問題を起こさぬように生きるというのが宗教。
本作の場合には、少数派の反意が主役であったというだけ。

同性愛を差別するのは間違っている
結婚には妊娠/出産以外の法的な権利がともなうので、男女1対以外にも認められて当然。
同性愛が妊娠/出産をともなわない非生産的と言うならば、責任ある避妊を教育するのは間違ってるし、そもそも親不在の子供が溢れているのだから異性愛や同性愛を論じてる暇があるなら次世代のために里親こそ最優先に取り組むべき。
そもそも、以下の3点は全く異なる問題である。
  • 同性愛/異性愛
  • 妊娠する/しない
  • 子供を持つ/持たない

本作はユダヤ教の不自由さを扱ってるが、ユダヤ批判ではない。
マーケットの都合もあろうが、不自由さはあっても間違いだと断定していない。
英語の国で日本語を禁止するのは間違っているが、日本語が通じない事に不満を持つのは筋違い。
白人であるのも、ユダヤ教徒であるのも、何も悪くない。
しかし、同性愛とは別件で、ユダヤ教という人種不問の1神教において極めて閉鎖的な白人だけの集団は改めて見ると気持ち悪い。
そもそも、ある属性だけを礼賛して、それ以外を拡大のために吸収して、結局は排他して落ち着いた宗教という点で、勘違いを含めて敵を増やしたのも納得。
*ユダヤ人の起源 - くそ読みづらいが、くそ面白い歴史の本

不自由さを自覚しながらも、自由の手間より利益がある立場で結婚や妊娠を求める高齢女は、キルギスの誘拐結婚を想起した。
自身も半ば強制的に風習に縛られたのに、愉快ではないが最悪でもない環境の恩恵と諦観から、同じ被害者である筈の女を娘になるよう説得する高齢女。

前提が全く異なるが、見終わって思ったのは、奇麗なドッグヴィル
これは美貌が招く不幸を悪意をもってやってる点で、本作と全く重なる事はない。
しかし、美貌が土台である。
そして、環境、個人、時代、時機、あらゆる交錯の結果が美貌という1点を契機に幸福か不幸か。

ただ、コンプリート アンノウンのような漠然とした願望の結果ではなく、具体的で限られた要素を許されずに自立したレイチェルワイズは、極めてまともで、結局は題材(装飾)に振り回されない彼女の仕事選びの勝利のようにも見える。
これまで能天気なエロならスターリングラード
史実なんて知ったことか彼女の問答無用女神感ならアレクサンドリア
もはや大衆娯楽に出る必要もなくなった貫禄のコンプリート・アンノウン
でも大衆娯楽に出てもまだまだヒロインやれるぜMI5
などなど彼女の良さは幾らでもあるが、本作は出演時間ほぼ10割。
男を納得させるエロもありつつ、女が納得する自意識の話がありつつ、喜怒哀楽これだけ単純化を避けて豊富に揃った作品はこれが初ではなかろうか。
レイチェルワイズPVという点では満点。

自分が彼女を目的に見ただけなのだが、実は、相手のマクアダムスも疲れた女がドハマリで素晴らしい。
というか、様々な問題の衝突という点で、彼女こそが主役であった。

冒頭でレイチェルワイズが悩む場面にアイススケートが出てくるが、モリーズ ゲームなど様式として見られるが、女の迷い=アイススケートというのは何か文化的な背景があるのだろうか?
いわゆる、雨=悲しみのような。

全体的に音楽が控えめな作品だが、ユダヤの宗教歌が幾らか聞けたのは良かった。
アジア的な短調とヨーロッパ的な和声の混合で、流石5万年前から人類移動の際に東西の中心地だった文化の音楽。

本作は日本未上映で、商品展開がどうなるかと思っていたが、海外BDにそのまま日本語の字幕と音声が収録されてると聞いて購入した。
扱われてる内容に対する考えはどうあれ、レイチェルワイズの惜しみないレズプレイ。
人格に影響する生活環境を等しく扱ったイギリスのロケ撮影。
アメリカン バーニングと同じ最後でありながら、当人の姿勢や意味はまるで違う前進を前提とした作品。
レイチェルワイズ信者としては、彼女の作品選びが実に真面目で作品と彼女が乗算してるので良かった。

最後に。
同性愛者のレイチェルワイズを嫌いつつも憎むほどではない保守婆。
レイチェルワイズが同性愛否定だった父親の葬式に参加するのに対して、ただI Knowと静かに答えた場面。
本作を1カットで語るなら、あれが全てだったように思う。

そういえば、レイチェルワイズ否定と肯定でホロコースト否定派と戦い。
そして、本作ではユダヤ教が抱える差別的な問題と対立した役。
それぞれに原因も結果も異なるが同一の存在が抱えた問題の両面を担ったのは、どこまで意図してるのかわからないが、色色と考えさせられる。

2015年1月12日月曜日

【アレクサンドリア(AGORA)】レイチェル・ワイズの女神っぷり。女の存在価値。

アレクサンドリア
原題はAGORA。
作中では広場と訳されていた。

ファイル:Alfred Seifert Hypatia.jpg

レイチェル・ワイズの女神感が相変わらずやばい。
彼女は言動のまともさや脱ぐのが売りじゃないが脱ぐのをためらわないわりに、代表的な作品というものが無いように思う。
極端に軽いしょうもない映画か、文芸的だが1属性の増長にすぎない作品ばかりの印象だったが、ようやく代表作と言えるものが出来たと思うが、この作品は商業的にふるわず、ならば世間的に彼女の代表作は何なのだろうか?

手持ちカメラもそれなりに駆使されてるのに見づらいと思う場面が1つもなかった。
とにかく、背景、風景を大事にしていた。
CGを極力避けて、集団の動向や場面転換の遠景が作品の迫力と意味を成り立たせている。
図書館で飛び交う書物のCGには笑ってしまったけれども。

ユダヤ教やキリスト教など特定の宗教を正当にしていなかったので見やすかった。
自身の属する宗教の利点ではなく、以外の宗教の弱点をついて盛り上がってるのは、ニコニコ動画をつまらなくした動画じゃなく投稿者に執着したコメントのようだった。
当時は場合によって生死が決まるもので、ニコニコは何の損害もなく自尊心のみを押し通せる、という点で決定的に異なるが、そんなくだらない事を考えた。

ヒュパティアに捧げる曲が短調で笑った。
バグパイプや笙と共通するリード楽器で、2本をくわえ、長い1本はずっと同じ音(ルート)で短い1本でメロを吹く。
パンフルート的でもあったが、この時代の音楽を再現できるほどの記録が残っているのだろうか?
アジアの音楽はヨーロッパに比べて不協和音的な短調が主だが、この曲が何を根拠にこうしたのか興味がある。
告った男は思ったよりもおいしく格好いい男だった。
司教の友人に論破されて泣いたところは理解できない。
描写よりも信者であった、ということなのだろうか。
月経のハンカチに笑った。
時代的で文学的だが、ホーンブロワー3のおばちゃんと言い40歳の女に求める貞操観念が謎だ。

そもそも、ヒュパティアの歴史的貢献がどの程度事実なのか映画ではわからなかった。
作品の最後で彼女の著書は残っていない、みたいな説明文があったが、ならば彼女の意味は何なのか?
太陽系の楕円に関する何かが残っていたのか、それとも「女なのに残ってる」以外の偉大な理由が欲しかったのか。
映画としての配慮か、言うほどに女の不利、消費される女じゃない。
社会的な後ろ盾がある設定だが、300の嫁のように権威があろうと、ウォッチメンの初代シルクスペクターのように能力があればこそ、ドッグヴィルのように美女は常に、魔女狩りの如く、あるいは今の日本アニメがそうあるように、男にとって女の価値は女の身体でしかない。
ホーンブロワーのフランス革命の話も状況の凄惨は描いても消費される女はいない。
描写の程度はどうあれ、ヒストリエベルセルクのように理不尽な女の被害は必要だと思うのだが。
同時に借りたアポカリプトも連れ出されるだけ。
強姦されて叫んでいた嫁が途中で叫ぶのをやめて抵抗をやめたのなら死後の魂はろくなことにならん、みたいな台詞を男が言うが、これはマヤの宗教観なのだろうか?
何を根拠に作品で言わせたのか気になる。
全く無茶苦茶だ。
強姦なのに感じて喘ぐエロ漫画と同じ発想で酷い。

その点で、キリスト信者は信者であった。
彼女を、ただ殺した。
侮辱のために裸にしたが、殺すだけ。
映画では石を投げ打たれていたがwikipedia貝で肌をえぐられていたようだが、意図した変更なのか。

宗教が、ある場所における集団の知識体系および自己陶酔なのだから、異なる生活環境に宗教の有効性を見出そう、思い知らせようなんて無理で、かつ男による体系なのだから、宗教の隆盛が行き着く先は似たり寄ったりと思うのだが、故に衰えず、今も続いてる。

本作における彼女の態度には魅せられるが、知識人の功績が不明かつ作中で過剰なので、どうも彼女の真摯な場面こそが浮いて見えてしまった。
それでも、最後に見上げた楕円は見事で感動した。

仮に宗教が衰えたら、日本の萌えも同じく衰えるか。
女の被害者は減り、女の価値が無くなる。
人類が性器に行動を縛られなくなる時代はくるのだろうか。