題材
- [問題/対象]の大小がどうあれ、人生の価値は挑戦を続ける事
- 悪意は無く愛し合ってるが破壊的な問題を抱えた家族
- 美貌も才能も環境(家族愛と友情)もありながら、それでも果たせぬ挑戦があるのが現実。そこから何を学び、どう続けるか。
- 主役を[肯定/協力]するのが善でも、[否定/無頓着]であるのは「悪」ではない。
- 作中の奇跡的な出会いは現実に起こる(経験則を後述)
副次
1)自閉症本作における自閉症は、過剰に美化されるものではない。
そして、当然ながら差別されるべきものでもない。
例えば、ワンダー 君は太陽と近いようで、かなり違う。
ワンダー 君は太陽は作品の主張自体は素晴らしいし必要だが、差別される要素と、被差別者が持つ[美点/才能]は全く無関係。
だから感動的ではあるが、感動ではない。
ドクターハウスの足にも同じ事が言える。
結局、彼の偏屈や天才性は足の不自由とは無関係である。
自分は、あの作品を見ていた時に、あの不自由な足が原因で助けられない患者が出てきて、そのトラウマを克服するのがシリーズ最終章だと思ってた。
しかし、完結の仕方はともかく、そもそも足を原因に医者として致命傷をおうことは、そして作品の核になる事はなかった。
感動とは
ちなみに、ここで言う感動とは「事前と事後で価値観や行動が変わる」事を指す。例えば、料理に感動したら、その料理を作ってみたり、フランス映画に感動したらフランス語も英語もわからない状態でもフランスに行ってしまうなど。
それこそ、スタートレックに感動して、脚本の一般公募のために427頁を書いて応募するなど。
その場限りで終わる使い捨てを、ここでは感動とは言わない。
属性の扱いについて
ズートピアのように女を持ち上げるために男をさげる、草食動物を肯定するために、肉食動物の肉食が抱える損害と等しくある利点を無視する逆差別など、本作にはそういった着飾った傲慢さや、現実にともなわない理想論は無い。というより、理想論がただの意趣返しに終わる愚行ではなく、立場や能力を自覚した上での現実的な対処であるのが本作の自閉症。
言うなればベイブの見せ場に近い。
主役は特権的であっても万能ではなく、自分以外の要素をどうやって実現につなげるか。
それは英雄の独断ではない、自身の不能を自覚して頼むのだ。
本作における自閉症は、[努力/挑戦]するための契機や、後述する文化背景が異なる異種族交流的な意味である。
ただ、これだけ肯定していて気になったのは、ダコタが無くしたiPodを買い与える姉の判断は、ちょっと違うんじゃないか。
それをやらなくても、良好な家族関係や彼女の成長を邪魔するものではないだろう。
作品の円満表現の1つとして、買い与えるというのが、自分にはどうにもしっくりこなかった。
自閉症のメモ固執についてだが、本作では損得両方の点で扱っているし、それに異論は無い。
しかし、奇異に見られた場面でも、あの程度の事は職業次第では幾らでもあるだろうと。
例えば、自分が今回の感想記事を書くのに、映画を見ながらリアルタイムで上記写真のような事を書き起すし、机上作業や旅行では測量野帳を使っている。
本作で、ダコタが所持品を盗まれた時にGive me my notebook backと何よりもそれだけは譲らなかったのもわかる。
自分は写真撮影も好きなので旅行にはデジタル一眼レフを持ち歩くから、必ずしもノートやメモだけが全てとは思わないが、地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録でルカレ言っていた「写真は取材の邪魔で(考えながら書く)メモが自分の経験を容易に想起させる」が本作のメモなのだ。
2)スタートレック
本作で扱われるのはカークとスポック、基本的に宇宙大作戦と言われる初代ファン。
本作では、スタトレの扱いではなく、その描写をするための段取りに幾つかしっくりこない点があった。
1つは、スタトレオタクとの交流が唐突。
彼女に気があるインド男はトレッキではなく、ダコタとスタトレ話をしてたのは、すぐに出番が無くなるバイト関係者だった。
ただ、本作はスタトレに限らず「一期一会」を徹底してるから、やはり善くも悪くも売りにしてるスタトレ要素すら、その程度で良いのだと言う事だろうか。
もう1点。
本作のスタトレ要素は、代替がきくものながら、中中に気のきいた演出もあって良かった。
しかし、本作は設定をもりすぎて消化しきれてない事が多数あり、それがスタトレとピアノである。
姉妹、家族の核心にスタートレックは全く無関係である。
ダコタの挑戦と成長を、ぼくを探しにみたいにピアノだけに1任しても全く問題なく成り立ってしまう。
もっとも、ピアノだと結果の優劣が明らかで、ピアノ弾けるなら少なくとも仕事としての評価は既にあるはずだから、無理と言えば無理なのか。
まだ序盤なのに、ダコタ幼女時代にピアノで何とか関係を維持しようとした映像は本当にやばかった。
作品自体は全編に渡ってちゃんとしてるが、それでも、あれがただ美化された家族で終わらずに扱われていた点で、ちゃんと見続けられた。
3)若年の恋愛
冴えないインド系と、スタトレに理解があり恩人の息子でもある白人イケメン。
本作は恋愛を匂わせるだけで、少なくとも彼女の恋愛感情は一切見せず、男の彼女に対する好意を垣間見せるだけで終わらせている。
この姿勢自体は、自分は肯定派。
しかし、これ前者のインドに勝ち目が無いだろう。
単純に顔や人種だけじゃなく、彼女の才能分野に理解があり、彼女の助けにもなり、母親である恩人経由で接点も多い。
この映画を見た動機
そもそも自分が見た動機がスタートレックをネタにした、非スタトレ映画だったから。※自分は、TNG信者で、DS9を少し、JJエイブラムス系は見るには見たけどむむむという立場。
見終わってから思ったのは「自閉症」も「スタートレック」も主題ではない。
普遍的な映画として真面目で素晴らしいだけに、スタトレや自閉症は幾らでも代替がきく変数に過ぎなかった。
逆に、それら病気や趣味を、何か全人類共通の希望、素晴らしい個性、無理解は敵、のように扱っていない大人の態度であった点が、自分には好評だった。
ダコタを助けない人間は悪人ではないし、彼女と敵対しても悪人ではないし、彼女を愛して親しくとも邪魔な場合があるし、彼女の行動(物語)は世界の断片に過ぎない。
それを自覚した上で、実現できる善行と、受ける恩恵は何なのか。
海外旅行あるある
本作は国内を400kmほど旅する映画。なぜ自閉症が主題では無いと思ったかというと、彼女の経験の9割は海外旅行あるあるだったから。
もっと言えば、英語を話せない人間が英語圏へ旅行したら、旅行者に[無関係/無頓着]な英語人にとって[英語を話せる自閉症]も[英語を話せない旅行者]も変わらないという事。
彼女の自閉症とスタートレック動機を除いた旅路は、自分が人生初の海外旅行(フランス)と2年後のスペインで9割経験した事だった。
1割は何かというと、病院行きの事故と野宿。
それも、自分は本作の自動車事故ではないが、ストライキに巻き込まれて駅で寝泊まりするつもりだったが、運良くタクシーに乗れる金と場所があったので目的地に行けただけ。
結果的には違うが、彼女の行動は理解できる。
そういう意味で1点だけ気になったのは、20歳の美女が野宿して性犯罪に巻き込まれないなんてありえない。
↓姉妹そろって腋も最高。
I Spit on Your Graveやフルリベンジみたいな悪夢や、ミック・テイラー 史上最強の追跡者が旅路の必然とは言わないが、善くも悪くも悪漢が彼女を放置しすぎ。
今度ダコタとエルは姉妹共演を果たす。2人のレズ映画を頼む。
バスの行き先や道を聞いても運転手に無下に扱われるの、自分はアメリカじゃないけどあるある。
というかフランスのAvignon Tgvなんて、ちゃんと駅のinformationに行ったのに「それは俺の仕事じゃない」とか言ってストライキで行けなくなった代替手段の質問も無視してくる、ほんま許さんぞあいつら。
本作では、道を聞いた後に間違って進んだダコタにNo No No, The Other Wayとちゃんと言ってくれる運転手もいた。
自分も、幼稚な英語で何を言ってるのかわからんと馬鹿にされながら、翻訳した英文を見せたらコレだよとちゃんと教えてくれたバス運転手に会った。
2ドル99セントのスニッカーズを、18個入りだから18ドルだと嘘を言ってダコタから15ドルを詐欺ろうとした小売店の店員に「アンタなにやってんだい」と強くつめよった婆さん。
この場面は「あの人だ!」と大笑いした。
あの人とは、役者でもなく自分がフランスの駅前バス停で会ったおばさん。
映画とは年齢も人種も違うが、Avignon Tgvからオランジュに行くバスを調べてたら「これに乗れば行けるよ」と言ってきたイカツイ黒人男。
隣で座ってたおばさんがそれを見るや即座に「アンタ嘘おっしゃい!なんてことするんだい。直接止まるバスは無いから途中下車しないと駄目だよ」と助けてくれたのを思い出した。
本作で、ダコタを助けた婆さんは善人である上に、彼女の孫が自閉症だった設定。
都合がよすぎる。
その後に出てくる、スタトレマークを見てダコタをトレッキだと理解してクリンゴン語で話しかける警官。
彼女を保護した病院の看護婦が、電話で「飼い犬がスタトレのユニフォームを着てる」と言われて「本当だわ」って看護婦がスタトレかどうかなんて判断できるか?
しかも、下心もなくクリンゴン警官は、ダコタとの別れにスタトレ仲間としてスタトレ設定の体に触れ合い挨拶する善人。
ダコタもまた、その意味をわかってるから[性的/生理的]嫌悪も持たずに素直に応じる。
都合がよすぎるが、こういう事は稀によくある。
2018年にスペインに行ったとき、飛行機で隣席だった爺さんが、こちとらスペイン語も英語もわからないのに、やたらと話しかけてきて菓子とかよこしてきた。
自分以外の客にも話しかけていたので、そもそも能動的な爺さんであるらしかったが、飛行機をおりたあと、荷物受けでまた早く短い再会をしたので、目的地を聞かれたから空港がある首都マドリッドから北東300kmにあるムルチャンテ(トゥデラ)だと答えると、彼はそこが出身地で里帰りなのだと。
彼はマドリッド1泊したあと帰郷するが、自分はすぐ向かわなければならず、そこでメアド交換して別れた。
翌日、無事に目的地に到着していた自分に、くだんの爺さんからメールが届いていた。
彼も帰郷して近くにいるので一緒に飯をくわねえかと。
自分には旅行の明確な目的があったが、既に予定は消化していたので、
彼に地元を観光案内をしてもらい、彼の友人を紹介してもらい、食事をして過ごした。
2年たった今でも、その爺さんとは、たまに連絡をとる。
特に、今はCOVID-19で世界がこんな状態で、スペインは深刻の筆頭なので。
幸い、彼自身、友人家族に大事ないと返信がきた。
長くなったが、こういう出会いは現実にあるのだ。
本作では、彼女の出会いがどこまで事後の彼女に影響するかは描かれていない。
しかし、自分が先述の爺さんに出会ったり、フランスで夜道に迷っていたら、スキンヘッドで後頭部に「死」とでかでか入れ墨がある白人に話しかけられてびびってたら、目的地のホテルまで付き添ってくれたり、こういう善人と出会いは、現実にあるのだ。
本作でダコタの金を盗んだ女も、悪人ではなかった。
ただ、男を見る目がなく、自衛のための犯罪。
蛇足だが、あの場面を見た時にThat Nightはハッピーエンド風で良い作品だけど、実際の末路はこういう感じだろうなと思った。
質問に答えない職員なんて幾らでもいるし、困って呆然としていたら話しかけてきて助けてくれる人もいる。
本作の描写は、自分には全く違和感なく納得できるものだった。
美少女とオタク分野
ところで、映画という大規模商品だからしょうがないが、ダコタ自身は何も悪くないが、男キモオタが美少女を使って自分達を描いてるような気持ち悪さ、つまり[日本の漫画/アニメ]に通じる不愉快さはあった。
それでも、[日本の漫画/アニメ]より見やすいのは、彼女自身の仕事としての物理的な苦労は現実だから。
男の願望が100%反映される絵とは、そこが決定的に違う。
今度ダコタとエルは姉妹共演を果たす。2人のレズ映画を頼む。
奇跡的な出会いに嘘は無い
彼女の旅路では、彼女の金を盗むものもいれば、ただ道を教えるだけじゃなく誘導してくれる人もいれば、応募規定に準じて彼女を拒んだり、何か直接彼女の助けになったわけではないが、そっと毛布だけ置いていったり、肯定も否定も等しくある。バスの行き先や道を聞いても運転手に無下に扱われるの、自分はアメリカじゃないけどあるある。
というかフランスのAvignon Tgvなんて、ちゃんと駅のinformationに行ったのに「それは俺の仕事じゃない」とか言ってストライキで行けなくなった代替手段の質問も無視してくる、ほんま許さんぞあいつら。
本作では、道を聞いた後に間違って進んだダコタにNo No No, The Other Wayとちゃんと言ってくれる運転手もいた。
自分も、幼稚な英語で何を言ってるのかわからんと馬鹿にされながら、翻訳した英文を見せたらコレだよとちゃんと教えてくれたバス運転手に会った。
2ドル99セントのスニッカーズを、18個入りだから18ドルだと嘘を言ってダコタから15ドルを詐欺ろうとした小売店の店員に「アンタなにやってんだい」と強くつめよった婆さん。
この場面は「あの人だ!」と大笑いした。
あの人とは、役者でもなく自分がフランスの駅前バス停で会ったおばさん。
映画とは年齢も人種も違うが、Avignon Tgvからオランジュに行くバスを調べてたら「これに乗れば行けるよ」と言ってきたイカツイ黒人男。
隣で座ってたおばさんがそれを見るや即座に「アンタ嘘おっしゃい!なんてことするんだい。直接止まるバスは無いから途中下車しないと駄目だよ」と助けてくれたのを思い出した。
本作で、ダコタを助けた婆さんは善人である上に、彼女の孫が自閉症だった設定。
都合がよすぎる。
その後に出てくる、スタトレマークを見てダコタをトレッキだと理解してクリンゴン語で話しかける警官。
彼女を保護した病院の看護婦が、電話で「飼い犬がスタトレのユニフォームを着てる」と言われて「本当だわ」って看護婦がスタトレかどうかなんて判断できるか?
しかも、下心もなくクリンゴン警官は、ダコタとの別れにスタトレ仲間としてスタトレ設定の体に触れ合い挨拶する善人。
ダコタもまた、その意味をわかってるから[性的/生理的]嫌悪も持たずに素直に応じる。
都合がよすぎるが、こういう事は稀によくある。
2018年にスペインに行ったとき、飛行機で隣席だった爺さんが、こちとらスペイン語も英語もわからないのに、やたらと話しかけてきて菓子とかよこしてきた。
自分以外の客にも話しかけていたので、そもそも能動的な爺さんであるらしかったが、飛行機をおりたあと、荷物受けでまた早く短い再会をしたので、目的地を聞かれたから空港がある首都マドリッドから北東300kmにあるムルチャンテ(トゥデラ)だと答えると、彼はそこが出身地で里帰りなのだと。
彼はマドリッド1泊したあと帰郷するが、自分はすぐ向かわなければならず、そこでメアド交換して別れた。
翌日、無事に目的地に到着していた自分に、くだんの爺さんからメールが届いていた。
彼も帰郷して近くにいるので一緒に飯をくわねえかと。
自分には旅行の明確な目的があったが、既に予定は消化していたので、
彼に地元を観光案内をしてもらい、彼の友人を紹介してもらい、食事をして過ごした。
2年たった今でも、その爺さんとは、たまに連絡をとる。
特に、今はCOVID-19で世界がこんな状態で、スペインは深刻の筆頭なので。
幸い、彼自身、友人家族に大事ないと返信がきた。
長くなったが、こういう出会いは現実にあるのだ。
本作では、彼女の出会いがどこまで事後の彼女に影響するかは描かれていない。
しかし、自分が先述の爺さんに出会ったり、フランスで夜道に迷っていたら、スキンヘッドで後頭部に「死」とでかでか入れ墨がある白人に話しかけられてびびってたら、目的地のホテルまで付き添ってくれたり、こういう善人と出会いは、現実にあるのだ。
本作でダコタの金を盗んだ女も、悪人ではなかった。
ただ、男を見る目がなく、自衛のための犯罪。
蛇足だが、あの場面を見た時にThat Nightはハッピーエンド風で良い作品だけど、実際の末路はこういう感じだろうなと思った。
質問に答えない職員なんて幾らでもいるし、困って呆然としていたら話しかけてきて助けてくれる人もいる。
本作の描写は、自分には全く違和感なく納得できるものだった。
美少女とオタク分野
ところで、映画という大規模商品だからしょうがないが、ダコタ自身は何も悪くないが、男キモオタが美少女を使って自分達を描いてるような気持ち悪さ、つまり[日本の漫画/アニメ]に通じる不愉快さはあった。それでも、[日本の漫画/アニメ]より見やすいのは、彼女自身の仕事としての物理的な苦労は現実だから。
男の願望が100%反映される絵とは、そこが決定的に違う。
原題と邦題
その点で、地味な傑作Small Time ナッシング・バッドに通じる。
ある[職業/専門分野]を土台にしてるが、その解説が目的ではなく、1分野の能力と価値観が、普遍的な人生と何が通じてるのかを示す。
原題の感覚も似ている。
Small Timeは取るに足らない3流という意味。
そして、ある程度の成功を自負してるが、それは自身の限界を自覚した上での姿勢であり、必ずしも全世界や次世代に同等を望んでいない冷静な大人の人生。
今回のPlease Stand By 500ページの夢の束も、Please Stand Byとはただ[静止/停滞]してるのではない。
いつでも動く覚悟と準備は出来ていて、明確な意思による待機である。
今回、邦題は工夫してるとは思う。
作品自体が何も裏切らない奇麗事の羅列だし、それでいて作中の悲哀は決して軽薄なものではなく、尺も90分で気軽に見られる。
しかし、作中でダコタがIt's 427 pages longと自身の苦労を披瀝している。
本作は彼女の自閉症的な能力、数字の細かい認知などを肯定している。
つまり、数字を正確に記すこと自体が作品の意図に添うものであり、逆に四捨五入したら作品の価値観と対立する。
そういう意味で、すげえなめ腐った邦題だな、と見終わってから思った。
見る前には、いかにも消費多数派の若年女だけ相手にした、少なくともダコタが出演してる時点で想定は間違ってはいないけど……程度の認識だった。
見る前と見た後で題名の理解度が違う、という演出意図ならわかるが、そこまでの思慮は本作の邦題には無い。
ある[職業/専門分野]を土台にしてるが、その解説が目的ではなく、1分野の能力と価値観が、普遍的な人生と何が通じてるのかを示す。
原題の感覚も似ている。
Small Timeは取るに足らない3流という意味。
そして、ある程度の成功を自負してるが、それは自身の限界を自覚した上での姿勢であり、必ずしも全世界や次世代に同等を望んでいない冷静な大人の人生。
今回のPlease Stand By 500ページの夢の束も、Please Stand Byとはただ[静止/停滞]してるのではない。
いつでも動く覚悟と準備は出来ていて、明確な意思による待機である。
今回、邦題は工夫してるとは思う。
作品自体が何も裏切らない奇麗事の羅列だし、それでいて作中の悲哀は決して軽薄なものではなく、尺も90分で気軽に見られる。
しかし、作中でダコタがIt's 427 pages longと自身の苦労を披瀝している。
本作は彼女の自閉症的な能力、数字の細かい認知などを肯定している。
つまり、数字を正確に記すこと自体が作品の意図に添うものであり、逆に四捨五入したら作品の価値観と対立する。
そういう意味で、すげえなめ腐った邦題だな、と見終わってから思った。
見る前には、いかにも消費多数派の若年女だけ相手にした、少なくともダコタが出演してる時点で想定は間違ってはいないけど……程度の認識だった。
見る前と見た後で題名の理解度が違う、という演出意図ならわかるが、そこまでの思慮は本作の邦題には無い。
荒木飛呂彦(ジョジョ)っぽい
自閉症という状態を、あくまで礼賛の対象ではなく自立の要素として扱うのは、凄く荒木飛呂彦っぽい。また、ある危機を乗り越えるための行動が、窓から飛び降りるなど派手な事をしたように見せて、トイレの戸棚の中や、長距離バスの荷物置きの中にちんまり隠れてしれっとやりすごすところなんて、すげえジョジョっぽくて笑ってしまった。
荒木飛呂彦は今ジョジョリオンという名作を描いてるが、今の内容を見るに、次回作はスタンドも戦闘もボスも無いジョジョを読みたいというのが、まだ連載が終わっていない荒木飛呂彦に自分が望む事。
そこでふと本作を見終わってから思ったのは、これ戦闘もスタンドも無いジョジョだったなと。
先天的な問題、後天的な問題、それらを自己愛から礼賛するのではなく、挑戦の原動力とする。
本作終盤の、自身の無名を逆手に取ったCheatingも、主役の意図した言動が全て善行というわけでもない感覚というのも、似ている。
というよりも荒木飛呂彦が洋画好きなので、順序が逆なのだが。
見慣れた人人
海外旅行的に他人事ではない本作だったが、出演者もまた嬉しいものだった。いかつい表情ながら仕事をしてるだけのバス運転手Denise DowseはThe WEST WING - In the Shadow of Two Gunmen: Part Iでコードブルーと叫んでた看護婦。随分とやせたなあ。
The Mentalist - Ladies in Redでもゲストと言うほどの出番もないが、主役パトリックに振り回されないタイプの脇役だった。
本作で実においしいクリンゴン警官だったPatton Oswaltはヤング≒アダルトの彼。
その相方だったRobin WeigertもThe Mentalist - Red Herringゲストで大きい役だった。
そして、何よりも顔を見た瞬間に笑ってしまったLaura Innes。
ERの最中に、演出にも手をだして、The WEST WINGのLet Bartlet Be Bartletの演出をしたのは彼女。
終盤4分間のレオと大統領の議論は、吹き替え版なら暗唱できるくらいに見た。
※水に飛び込むんじゃなく、片足を突っ込むだけでいい。そうすれば敵を作らずに努力したように見せられると。(中略)彼はあなたの娘と付き合う事で脅迫されている。あるパーティには絶対行くな。行けば命は無いと脅された。それでも行くという彼を、あなたは止めたでしょう。懸命かどうかは別にして、この週給600ドルの21歳がそういったのは、人には闘うべきときがあると知っていたからです。みんな待っているんです、あなたが決断するのを。
※佐々木敏の名演。残念ながらレオ役のジョンスペンサーはThe West Wingが継続中だった2005年に死んだ。
最後に
自分は自閉症ではなく、ある分野の才能も努力も足りなかったが、自身の不明を自覚した上で未知に1人で飛び込み、そして運良く得られた助力や経験から幾つかの事を人生で得る、それらの具体的な描写は、自分には全く他人事ではなく、本作は分野が違う知人を得たような感覚だった。15時17分、パリ行きにも近いものがある。
自分はそこじゃなかったけど、こうだった。
自分もそこだったけど、こうじゃなかった。
同じ分野だが違う方法。
違う分野だが同じ指向。
映画に限らないが、感動とは必ずしも共感を必要としない。
むしろ共感至上主義は不愉快。
同じ人種、同じ性別、同じ世代、同じ土地、自分に似た経験だけが有益であるというのは実に浅ましい。
サッカーをやってたら野球を見て何を学ぶか。
音楽をやってたら、絵画や風景など無音の対象をどう表現するか。
そういった変換こそが学習や努力や挑戦の類だと考えている。
その点で、本作は人種も性別も世代も場所も違うのに、根本的な行動原理や人生の損得が、自分の経験と同じであった点で普遍的な映画だったし、人に名作と言えるほどの作品とは思わないが、5時間ほどかけて、ここまで書いてしまうくらいの価値が自分にはあった。