1940年の古典SF。
ベルセルクのゴッドハンドの元ネタなのもあり読んだ。
良かった点。
- グラニー。Dishonoredの元ネタはコレだった。
- ある起源に関する作為と自然の逆転。
- ある登場人物の立場逆転。
悪かった点。
- SF設定は装飾であり、価値観を問うほどの意味は無い。
- 主要人物をいたずらに美人だと連呼する。
- 登場人物が単純すぎる。
全体としては、あまり面白く無かった。読んでて驚いたり落ち込むほどの発想や価値観は無い。あくまで活劇の1つに過ぎない。
ラスボスの落ちは良かった。
1940年の古典SF。
ベルセルクのゴッドハンドの元ネタなのもあり読んだ。
良かった点。
悪かった点。
全体としては、あまり面白く無かった。読んでて驚いたり落ち込むほどの発想や価値観は無い。あくまで活劇の1つに過ぎない。
ラスボスの落ちは良かった。
大江健三郎の小説「静かな生活」(1990年)を読んで気になった事。
作中に、些細ではあるが登場人物をバットマンに例えてる。
そのうち男は「バット・マン」のようにレインコートをひるがえすと、横の通りへもの凄い勢いで走り込んだ
問題は、その意味である。
この作品で言われる男は性犯罪者であり、自警的な犯罪者でもなく、正義Aに対する正義Bという立場にもない。
作品において、ただただ純粋に日常に溢れる絶対悪として扱われてる男である。
それなのに、大きな裾をひるがえすという意味だけでバットマンを持ち出して、バットマンの立場や意味を全く無視している。
どうしてこうなったのか、理由が2つ考えられる。
実際には読んでいて腹が立ったというよりも、この程度の扱いでわざわざ他人の作品を持ち出す無頓着さに笑ってしまっただけだが、記録として残しておく。
良かった点
悪かった点
総評として、序中盤は前提を逆手にとった演出は、単純に洗練された映像と、どこまで鋭くやれるか、という挑戦が素晴らしかったが、後半は典型的な道徳をふりかざすだけで、2転3転する展開の割に、見せ場は1転だけで終わって尻すぼみ。基本的には素晴らしいがダークナイトやアンダーザレッドフードなど、当時の衝撃と比較した場合の相対的な感動は低く、アーカムシティの後のアーカムナイトのがっかりに近い。アーカムナイトもThe BATMANも決して駄作ではないが、純粋に旧作を超越した名作ではなく、旧作に劣る部分も目についてしまう、という意味でのがっかり。
自分は中島愛のファンとは言えず、断片でしか彼女を知らないし、熱心に追いかけてもいない。
ただ半分懐かしさの気まぐれで彼女の仕事を覗いてみた。
ポップスもアニソンも、本来は何でもありのジャンルのはずなのに、もはや形骸化して久しく、彼女もタイアップ優先の仕事が多かったので、曲調が退屈だった。
しかし、上記の動画を見て、遊び心と表情の幅が明らかに広がっていて驚いた。
そこで、彼女の最新アルバムを勢いで購入した。
菅野よう子の時と違い、過剰に高音を売りにしないし、他のタイアップのように過剰に元気も売りにしていない。
これが彼女の本性なのか、それとも会得したものなのかはわからない。
しかし、基本的には若向けポップスであるのに、歌の表情もミックスも落ち着いて聞きやすいし、伴奏もリズムや構成や曲調が小編成なりの幅をしっかり広げて飽きられないように丁寧に作られてる。
心に響く感動、というほど神がかった商品ではないが、何でもかんでもエレキとシーケンサで埋めまくった騒音とは明らかに一線を画してる。
誰が企画して指揮したのか知らないが、とても彼女を大事にした素晴らしい仕事だった。
非常食の代名詞となっているカンパン。
しかし、自分にとっては、河豚や鰻や松茸や鯛や焼肉やラーメンよりもありがたいし、うまい。
そもそも、自分は食事に淡白で、可能な限り金と時間をかけたくない。何も食べず、何も飲まずに生きていけるなら、それで構わないという価値観。
かといって、ただ安価なものを食べても体を壊すし、体質的にも材質をごまかすための味付けや油が過剰だと吐いてしまう。
自分は仏教徒ではないが、彼らの食事に関しては同意するし、むしろ望ましいとすら思う。
冬場など、1日中自由に白湯を飲めるなら、それで食生活は幸福だと感じられる。
1日3食を暴飲暴食だとは言わないし思わないが、自分には過剰である。
最近、何を食べても吐いてしまい、色色と試した結果、その中の1つとしてカンパンに落ち着いた。
もともと好きな食べ物ではあったが、それでも日常的に食べる機会はこれまで持ってこなかった。
200gを3日ほどで消費する。流石にそれだけを食べて生きているわけではないが、健康と安価は意外と両立が可能なのではないか、とカンパンを食べてると思う。
良薬は口に苦しというが、健康に良ければ基本的にうまいと感じる筈である。
湯通したモヤシを何の味付けもせずに食べておいしいと感じない人間のほうがおかしいと思う。
それこそ、何につけ感謝しろなどの宗教的な話ではなく、資源の運用という実利の問題として、それほどの食事が必要で、味付けが必要なのだろうか?
最近の研究で、計算問題など頭を使うと1.4倍のカロリー消費となるとあった。しかし、普段からそういう頭の使い方をしてる人たちは、むしろ食事量は比較的に少ない傾向にあるのはどうしてなのだろうか?
iMacの隙間にゴムのブロックを置いた。
何かを書くとき、基本的に机を利用しない。
手持ちで書ける小さなものから、土台が必要なA4以上など、全てクリップボードや画板などで、机と椅子に依存しない状況で書く事が多い。
そこで不便だったのが、パソコン画面を見ないときに紙(楽譜)をパソコン画面の代替にする事が出来なかった事。
そこで、上記のようにゴムブロックを用いて解決した。
少なくともA4横なら問題なく使えた。A4縦を左右2枚は試していない。
仕事柄、音楽CDのためのCD-Rを毎日のように扱う。
そこで思い知った、現在にも残る「再生どころか認識されないCD-Rが存在する」問題。
とある50枚1000円前後CD-Rを利用したところ、20年近く古いCDプレイヤで認識しなかった。
そこで、相場より3倍は高価で、太陽誘電のCD-Rを継いだジャパンディスクを試したら、全く問題なく認識した。
裏面を確認すると、データ箇所の色の濃淡が明らかに違い、視認性にも差がある。それが実際の読み込みに影響があるのかは不明だが。
CDやCD-Rの物体としての技術や存在は既に頭打ちで、今更かつての高価と現在の安価にどれほどの差があるのか、という認識だったが、安定性という意味において、現在でも品質に明らかな差があるのを思い知った。
CD全盛時代を振り返る漫画が話題に…小遣いをはたいて音楽に夢中になった青春の思い出
上記の記事に限らないが、この手の記事は感傷ばかりで、現在でも保存媒体(道具)として明らかに勝ってる点があり利用してる人間の視点が欠けてる。
そこで、自分がサブスクを嫌悪とまで行かなくとも、どうして現在でもCDを音楽の中心の保存媒体(道具)として利用してるか、その理由を書く。
人生にとって重要な道具は、比喩ではなく生死をわけるものであり、人生を決する致命的な要素だと考えている。
その中に布団があり、自分は、やっと生涯に渡り必須の布団を見つけた。それが加重布団(ウェイトブランケット)である。
ここ2年ほど、加重布団(ウェイトブランケット)のYnM 122cm*183cm 7kgを使っていた。
自分にとって水分や酸素くらいに必須の道具であるが、暫く使っていて、自分の身長(175cm)に対して面積が小さいとわかった。
膝を曲げて立てたり、横に転がると、体がこぼれる。
そこで、同系統の商品で大きい物を探して、Marine Moon 150cm*210cm 7kgを購入した。
重量は同じで面積が違うので、どうしても相対的に軽くなり、失敗したかとも思ったが、極端に寝つきが悪くなるほどの悪影響はなく、どう動いても体がはみ出さないのは快適。
場合によっては、また2年後くらいに、同じサイズで10kgなどを買うかも知れないが、そもそも根本的に一般布団と加重布団の差が致命的であり、今後も買うべき物に悩まずにいられるのは、ありがたい。
自分は、文字/絵画/楽譜/雑記、あらゆる事に鉛筆を使う。
しかし、手動鉛筆削器(大人用)の決定版!削り上がりの美しさにうっとり。【文具のとびら】#255【文具王の文房具解説】カール事務器「エンゼル5ロイヤル」にもある通り、仕事/趣味で毎日使える耐久度と利便性と鋭角を兼ね備えた電動の鉛筆削りが、現在は見当たらない。
自分は、ここ1年程度で電動鉛筆削りを3種類ほど試したが、どれも満足する物ではなかった。
そこで、先ほどの動画に行き当たり、思い切って手動の鉛筆削りを購入した。そして、大正解だった。
10年単位で手動は使っていなかったが、かつての鈍く重い感覚は全くなく、鉛筆の鋭角に削れる。商品自体も、重量や硬さなど、日用品としての耐久性は充分に感じられる。
当然、電動に比べたら手軽さはどうしても薄まる。
しかし、現在においてiPhoneなどではなく鉛筆を使う人間は、手作業を義務と快楽の合間と認識してる場合が多いのではなかろうか?
その意味において、この鉛筆削りは作業の一環としての手応えがありつつ、作業の負担となる物理的と精神的な重さが無い。
実は、CARLの電動鉛筆削りも試した事があり、結果は散々だった。だから、この社名は鉛筆削りの候補からは久しく消え失せていた。
だが、先述の動画を見かけて、現在の電動鉛筆削りの問題点を指摘した上で本品を紹介していたので、買ったら正解だった。
同じ会社でも、目的が同じ道具なのに電動と手動でここまで違うものかと驚いた。
少なくとも、どこかの誰かが「これこそ史上最高」と豪語するような電動鉛筆削りが作られない限り、そして、コレが壊れない限りは使い続けられそうである。